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	<title>次世代情報都市みらい &#187; 社会科学</title>
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		<item>
		<title>右翼と左翼</title>
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		<pubDate>Sun, 31 May 2009 09:57:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>齊藤 貴義</dc:creator>
				<category><![CDATA[社会科学]]></category>
		<category><![CDATA[実証]]></category>

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		<description><![CDATA[なぜ右翼には低学歴と低所得が多いのか 推論上の飛躍（inferential leap）が多い文章のように思います。まず議論の前提として、右翼・左翼の定義が明確化されておらず、「好戦的であることは、移民に対して排他的である [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://www.nagaitosiya.com/a/right_wing.html">なぜ右翼には低学歴と低所得が多いのか</a></p>
<p>推論上の飛躍（inferential leap）が多い文章のように思います。まず議論の前提として、右翼・左翼の定義が明確化されておらず、「好戦的であることは、移民に対して排他的であることと並んで、右翼の大きな特徴であり、左翼との大きな違いであると一般に認知されている」などの筆者の印象論から右翼像と左翼像の傍証を試みているにすぎません。</p>
<p>この文章が出しているデータは、外国人労働者に対して排他的な意思を持つことに本人学歴や本人年収と関連性がありそうというデータだけであり、そこから低学歴で低年収な人々が戦争を望んでいる右翼的傾向を持つと推論するには、あまりに多くの飛躍があります。外国人に対して排他的な意見を持つことは、筆者が指摘しているように学歴や年収が低い層が直面する確率が高い単純労働の世界では外国人労働力が彼らの代替可能な労働力として国際競争に立たされているという経済状況による意思の形成であって、右翼思想や戦争に関する意思の形成ではないのです。</p>
<p>またプロレタリア右翼として赤木智弘氏の&#8221;「丸山眞男」をひっぱたきたい―31歳フリーター。希望は、戦争。&#8221;が引用されていますが、そもそも赤木氏の戦争や日本社会に対する考え方が広く低学歴・低年収の層の考え方と相関しているのか、という重要な論証が一切なく議論が進んでいきます。一度この辺は社会調査で重回帰分析を掛けてみなければ、推論に推論を重ねるという状況に陥るだけではないでしょうか。</p>
<p>つまり本論には日本社会に適用できるという蓋然性が乏しいのです。蓋然性が乏しいまま描かれた右翼像や左翼像は虚像でしかありません。理論には実証が伴わなければなりません。実証データが整っていない中で右翼という心性の問題を浮かび上がらせるのは難しいのです。</p>
<p>（教育社会学などの分野では文化資本の問題をSSM調査・関西調査・関東調査などの社会調査を重回帰分析することで、文化資本と親の学歴などの相関係数を統計的に分析しようとしています。右翼と左翼という心性の問題に関してもこのような社会調査と実証研究の拡充を願っています）</p>
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		<title>日本社会学会</title>
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		<pubDate>Sat, 30 May 2009 09:21:19 +0000</pubDate>
		<dc:creator>齊藤 貴義</dc:creator>
				<category><![CDATA[社会科学]]></category>
		<category><![CDATA[実証]]></category>
		<category><![CDATA[日本社会学会]]></category>

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		<description><![CDATA[第82回日本社会学会が、2009年10月11日と12日に立教大学で開催されます。 一般研究報告Ⅲ（テーマセッション）の内容は以下の通り。会員ではないけど参加検討しようかな。 【1】テーマ：ハロルド・ガーフィンケルの業績の [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>第82回日本社会学会が、2009年10月11日と12日に立教大学で開催されます。<br />
一般研究報告Ⅲ（テーマセッション）の内容は以下の通り。会員ではないけど参加検討しようかな。</p>
<blockquote><p>【1】テーマ：ハロルド・ガーフィンケルの業績の再評価</p>
<p>(1)コーディネーター：浜日出夫（慶應義塾大学）</p>
<p>(2)趣旨：日本におけるエスノメソドロジー研究は、ここ十年ほどの間に、多くの成果を蓄積してきた。90年代後半以降、日本語のモノグラフも多く出版されるようになり、また日本に研究基盤を持つ研究者が海外に研究成果を発信するようになっている。ハロルド・ガーフィンケルの『エスノメソドロジー研究』の出版から40年を経たいま、このような状況を踏まえ、いま一度ガーフィンケルに立ち戻り、ガーフィンケルの業績を再評価する機会を持ちたいと思う。日本におけるエスノメソドロジー研究は、いくつかの点で独特である。おもに三つの資源を持ち、これらが分離することなく、生産的に刺激し合う環境がある。その三つの資源とは、シェグロフを中心に展開されている会話分析、シャロックやクルターらの（ヴィトゲンシュタイン派の）概念分析、そして現象学の伝統である。これら三つの資源にもとづく現在の研究を、ふたたびガーフィンケルの基本的な考えに差し戻し、今後のエスノメソドロジーの展開の可能性を展望したい。<br />
日常生活を送るための方法論の研究という研究方針は、社会学の根本的な方法論的反省を促すことになった。この研究方針は、現在の状況のなかで、どのような含意を持ったと評価できるのか。エスノメソドロジーは何を達成したのか。このあと、どのような社会学的研究の展開がありうるのか。このようなことを考える機会になればと、考えている。<br />
日本のエスノメソドロジー研究は、すでに海外の様々な地域における研究と共振しながら展開している。今回のテーマセッションでは、日本以外の非英語圏におけるエスノメソドロジー研究者にも積極的な参加を呼びかけたい。最後に、このセッションには、来日を予定しているガーフィンケル本人にも参加いただき討論に加わってもらえればと思っている。したがって、すべての報告は、英語であるか、英訳の配布を伴うものであることが望まれる。</p>
<p>(3)キーワード：ハロルド・ガーフィンケル、エスノメソドロジー、会話分析、概念分析、現象学</p></blockquote>
<blockquote><p>【2】テーマ：マンガ研究と現代社会：現代社会を読み解く手立てとしてのマンガの可能性</p>
<p>(1)コーディネーター：茨木　正治（東京情報大学）</p>
<p>(2)趣旨：現代社会が多様な価値・多様な様相・構造を持っていることは論を俟たない。そうした複雑性を持つ社会に生きざるを得ない我々は、どのような手立てを持って接していったらよいのであろうか。そこで、本テーマセッションでは、多様性を持つといわれるマンガというメディアおよび社会学の視点を用いて現代社会の多様性を読み解くことを考える。<br />
　マンガは、多様な対象領域をもつだけでなく、表現形態においても紙媒体や映像媒体その他にいたるまで多種多様である。これに対応してマンガ研究もまた、遅まきながら多様な様相を示している。たとえば、日本社会学会においても、2005年度第78回大会において「マンガ研究と社会学」というテーマセッションを行った。それ以降でも、少女マンガは、様々な領域に対してマジョリティによる「自然化」された視点を超えて、マイノリティの視点や、上記二つの視点を統合した新たな視点を構築している。また、新聞マンガ研究では、地方紙の分析によって、いわゆる「地域分権」型コミュニケーションを作るメディアとして見直されつつある。マンガの内容の分析では、マンガ表現論が提示され実証化の試みがなされている。加えて、産業構造の分析からマンガ制作（送り手）の分野で、また質的研究から多様な読者像に迫る受け手研究などが行われている。<br />
　しかしながら、これらの研究が相互連関を持つまでには至っていない。このためには、基盤となる社会学的認識・理論および方法、もっと広く現代社会を読み解く社会学の諸研究が必要である。たとえば、前述したマンガ産業からの考察では、文化産業論が理論的背景として用いられている。また、内容分析においては、マス・メディア論、コミュニケーション論、文化研究が援用されているが、それぞれの場合とも十分ではない。むしろ、様々な社会学の視点・対象・方法からマンガがどう扱えるのか、それによって現代社会を、従来の社会学的考察とは異なってどのように描き出せるのかを提示したい。それによって、マンガ（研究）・社会学研究そのものが持つ意義についても考察の道を開くことができればと考える。</p>
<p>(3)キーワード：マンガ（研究）、社会学諸理論（アプローチ・視点）、現代社会</p></blockquote>
<blockquote><p>【3】テーマ：ライフコースと社会変動：アジアの20−21世紀再考</p>
<p>(1)コーディネーター：山根　真理（愛知教育大学）</p>
<p>(2)趣旨：セッションの趣旨は、アジア諸地域におけるライフコースと歴史的時代のかかわりについて議論する場を設けることをとおして、アジアの20−21世紀を再考する視角を得ることにある。よく知られているように、個人の人生の出来事と歴史過程のかかわりをみる研究は1970年代のアメリカで登場し、G. エルダー、T. ハレブンなどの代表的な著作を生み出してきた。日本でもこの視角は1980年代に定着し、森岡清美、青井和夫、正岡寛司、安藤由美など、多くの研究蓄積がある。しかしアジア諸地域に視点を広げ、人生と歴史的時代のかかわりを包括的に捉える研究は、なされてこなかった。<br />
　このセッションは、上記の認識にもとづいて2007年度から運営してきた科学研究費プロジェクト｢アジア諸社会における高齢者のライフコースと社会変動：家族イベントを中心として｣の成果を公表するとともに、関心を共有する研究者との討論を通して、テーマにかかわる統合的な視角を得ることを企図して企画するものである。このプロジェクトでは、韓国、中国、日本、フィリピンで、1920年代から1940年代生まれの方を対象にしたライフコースの質問紙調査を、台湾、ベトナム、ミャンマーなどでは、各研究者の問題関心に応じて｢人生と時代｣を捉えるインテンシブ・インタビュー調査を実施してきている。特に「植民地期」を含む歴史的時代と人生のかかわりを、高齢者の方々に直接伺う機会としては最後であり、貴重な記録だと考えられる。<br />
　セッションの中心的な論点として、二つの論点が予想される。ひとつは出産、子育て、介護など、女性が中心になることが多い家族イベントに焦点を当てることで｢アジア諸地域の家族・ジェンダーの伝統と近代｣を再考する認識がひらかれることである。いまひとつは、｢国｣の枠組みを越える移動が人生に与える影響である。植民地支配がなされた時期と、グローバル化がすすむ現代が、｢移動と人生｣にかかわる二つの焦点的な時期になるであろう。<br />
　テーマに関心のある方々の応募と参加を歓迎します。</p>
<p>(3)キーワード：ライフコース、アジア、家族、ジェンダー、移動</p></blockquote>
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		<title>警察とは何か</title>
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		<pubDate>Thu, 28 May 2009 14:08:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>齊藤 貴義</dc:creator>
				<category><![CDATA[社会科学]]></category>
		<category><![CDATA[安全保障]]></category>
		<category><![CDATA[警察]]></category>

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		<description><![CDATA[社会の中での警察用語 警察・・・ 広義には、公共の安寧秩序の維持、事故や犯罪の危険から個人や財産を保護することを意味する。狭義には、犯罪の予防や摘発を含めて、公共の秩序と安寧を保持し、法律を執行する責任を持つ公務員の組織 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>社会の中での警察用語<a name="social"></a></h3>
<p><strong class="kyou">警察</strong>・・・ 広義には、公共の安寧秩序の維持、事故や犯罪の危険から個人や財産を保護することを意味する。狭義には、犯罪の予防や摘発を含めて、公共の秩序と安寧を保持し、法律を執行する責任を持つ公務員の組織体を指す。行政法学上は、社会公共の秩序を維持するために、一般統治権に基づき、国民に命令、強制し、その自然の自由を制限する作用と説かれている。実定法上は、「警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の 取締りその他公共の安全と秩序の維持に当ることをもってその責務とする」（警察法）と規定されている。なお、「警察」という言葉は、明治時代に「警戒査察」を省略して使われたのが起源といわれている。</p>
<hr size="2" />
<p><strong class="kyou">日比谷焼打事件</strong>・・・ 1905年９月５日、日露戦争の講和条約に反対する講話問題同志連合会など９団体が、日比谷公園で条約調印反対の「国民大会」を開くことを決定していた。 これに対し警視庁は大会の開催阻止を決定、日比谷公園を封鎖した。集まった３万人もの群衆は警察の不法な封鎖に反発し、柵を破壊して公園内に殺到した。大会終了後、群衆は二重橋前で警官隊と衝突。演説会が予定されていた新富座でも、群衆が警察の解散命令に反発して乱闘となった。さらに群衆は、国民新聞社・ 内務大臣官邸なども襲撃したが、この時、巡査が抜刀して斬りつけ、群衆の怒りはさらに高まった。群衆はさらに、警察署２カ所を襲撃し、東京市内の８割にの ぼる258カ所の交番所・派出所を破壊した。６日には戒厳令が施行され、軍隊が出動した。この日比谷焼打事件で、死者は17人、検束者は2000人にも上った。事件直後、各新聞は一斉に警察の弾圧政策を批判し、警視庁廃止論もわき起こった。</p>
<p>この事件の背景には、講和条約への人々の憤激以外に、庶民生活の隅々まで強権的介入をするようになってきた警察制度に対する強い不満と恐れもあったと言われる。日比谷焼打事件に強い衝撃を受けた政府や警察官僚は、事件を徹底的に検証し、新たな大衆運動に対して警戒を厳しくすると共に、「警察思想」の民衆への普及、公安に害がない場合の不干渉主義、 私服巡査の活用による密偵活動などの措置を考案した。</p>
<hr size="2" />
<p><strong class="kyou">米騒動</strong>・・・ 1918年、シベリア出兵などの影響で米価の高騰に苦しんでいた民衆が、全国各地で米屋、資産家の住宅、警察などを襲撃した。この米騒動は警察力だけでは鎮圧できず、全国120カ所で軍隊も出動することになった。しかし、騒動の中で、日比谷焼打事件の教訓が活かされた事例が多数報告されている。制服警官が民衆に暴力を振るうよりも言葉による説得を重視する一方、私服警官は騒動の中に入り込み首謀者を特定して群衆に隠れた場所で逮捕した。さらに、各地の青年団・在郷軍人会・消防組などを中心とする「自衛団」を警察協力組織として活用し、騒動の広まりを防止した。</p>
<hr size="2" />
<p><strong class="kyou">「民衆の警察化、警察の民衆化」</strong>・・・ 1921年、警察官僚の松井茂が雑誌『太陽』に発表した論文のタイトル。松井は、民衆にとって警察が怖れの対象であることに危機感を抱き、警官が民衆に対して「親切丁寧」であるとともに、民衆にも「我々国民の警察である」という意識を芽生えさせて民衆の中に警察への「同情者」を増やしていく必要性を唱え た。大正デモクラシーの機運の高まりと共に警察のあり方も揺れており、民衆との距離を埋めていく必要があった。この後警察は、全国で交通安全キャンペーンの展開、小学校の児童を招いての警察署見学、社会奉仕日を設定して各地で奉仕活動、警察展覧会の実施、人事相談所の開設、民間の有志による警察協力団体の 組織化などを行った。これにより警察が民衆にとって身近な存在であることを印象づけ、民衆を積極的に秩序維持に協力させていくことに成功した。</p>
<hr size="2" />
<p><strong class="kyou">関東大震災</strong>・・・ 1923年９月１日、関東地方でマグニチュード７．９の大地震が発生した。この地震によって関東各地の警察機構も一時マヒ状態になった。政府は戒厳令を施行し、被災者の救援と治安維持のために軍隊を出動させた。その一方、民衆の側にも「自警団」と呼ばれる団体が自発的に組織された。自警団は関東各地で3689もの数が組織されたといわれる。自警団に参加した人々は、被災者への救援活動を行う一方、日本刀・棍棒・竹槍・ノコギリ・銃などの武器を所持し、 町村の要所に非常線を張って不審者へ検問した。震災の被害による恐怖と混乱の中で、「朝鮮人が爆弾を投げている」とか「朝鮮人が井戸に毒物を混入した」などのデマが広まり、自警団は朝鮮人を発見すると虐殺を行った。自警団によって殺害された朝鮮人の総数は、6000人にものぼると言われる。</p>
<p>警察は、デマの拡大を阻止する一方、自警団への統制を行って治安維持のために積極的に活用した。自警団の方も警察へ各種の協力を行い、朝鮮人を虐殺した人々の多くが震災後に不起訴となった。また、自警団のような地域の警察協力組織はかたちを変えて震災後も残され、その後の警察行政が広く民衆にまで貫徹する基礎となった。「民衆の警察化、警察の民衆化」を唱えていた松井は、この自警団を高く評価し、「国民皆兵」であると共に「国民皆警察」である必要があると説いた。</p>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>ブルデューで読書会</title>
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		<pubDate>Fri, 22 May 2009 04:26:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>齊藤 貴義</dc:creator>
				<category><![CDATA[社会科学]]></category>
		<category><![CDATA[ブルデュー]]></category>
		<category><![CDATA[文化資本]]></category>

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		<description><![CDATA[再生産される学歴 鳩山和夫（東京帝国大学教授・早稲田大学総長）→鳩山一郎（東京帝国大学卒）→鳩山秀夫（東京帝国大学卒・同教授）・鳩山威一郎（東京帝国大学卒）→鳩山由紀夫（東京大学卒）、鳩山邦夫（東京大学卒） ＜政治家・教 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>再生産される学歴</h3>
<blockquote><p>鳩山和夫（東京帝国大学教授・早稲田大学総長）→鳩山一郎（東京帝国大学卒）→鳩山秀夫（東京帝国大学卒・同教授）・鳩山威一郎（東京帝国大学卒）→鳩山由紀夫（東京大学卒）、鳩山邦夫（東京大学卒）<br />
＜政治家・教授を多数輩出してきた鳩山家の家系と学歴。→は親子関係を示す＞</p></blockquote>
<blockquote><p><strong>これは君のことを話しているのだ</strong>。 この注意は読者に向けられていると同時に、社会学者にもまた向けられている。逆説的なことであるが、文化のさまざまなゲームは、そこに巻き込まれた人々が互いに相手を客観化しようとして行うあらゆる部分的な客観化行為のおかげで、かえってそれら自体は客観化されることから免れるという仕組みになっている。 だから学者たちは、自分自身の真実をつかむことをあきらめるのでないかぎり社交家たちの真実をつかむことができないのだし、逆もまたしかりなのである。<strong>（Ｐ．ブルデュー『ディスタンクシオン』藤原書店）</strong></p></blockquote>
<blockquote><p><strong>エリボン</strong>：そうすると知識人のはたすべき役割とは何なのでしょうか。<br />
<strong>ブルデュー</strong>： それはもうはっきりしています。装置の言葉が覆い尽くし、装置という怪物が生んだ現実、その現実の理論的分析が欠如しているのです。要するに理論が不在なのです。スローガンや激しい呪詛は、あらゆる形のテロリズムに行き着きます。もちろん、私は社会的現実の厳密かつ複雑な分析がありさえすれば、あらゆる形のテロリズムや全体主義への偏向から免れるに足る、などと考えるほどナイーヴではないつもりです。けれども、こういった分析の不在が勝手な行動に余地を残していることは確かです。これこそが、当世はやりの反科学主義、その新しいイデオローグ達を丸々と太らせてきた反科学主義に逆らって、私が科学を擁護し、 それが結果として社会的生活に関するより良い理解をもたらすがゆえに理論を擁護する理由なのです。・・・科学が権力を正当化する手段になってきているこ と、新しい指導者たちがシヤンス＝ポ（国立政治学院）やビジネス・スクールで身につけた政治＝経済学という仮象の名において統治していることをちょっとでも見れば、ロマンチックで後退的な反科学主義など導かれるはずがありません。 <strong>（Ｐ．ブルデュー『社会学の社会学』藤原書店）</strong></p>
<p class="toplink">
</blockquote>
<h3>la distinction　（卓越化）</h3>
<p><img class="alignright size-full wp-image-350" title="39" src="http://www.mirai-city.org/wp-content/uploads/2009/05/39.jpg" alt="39" width="400" height="268" />掲示板を活用してオンラインの読書会を開催します。読書会では、フランスの社会学者ブルデューが著した『ディスタンクシオン』という本を採り上げる予定です。『ディスタンクシオン』は、ブルデューの主著の１つです。藤原書店から邦訳が出版されています。ブルデュー理論やディスタンクシオンの概念は、近年になって日本でも積極的に紹介され、社会学や哲学の方面を中心に大きな影響を与えています。</p>
<p><a href="http://www.google.com/search?sourceid=navclient&amp;querytime=MWuuG&amp;q=%83u%83%8B%83f%83%85%81%5B" target="_blank">グーグルで「<strong>ブルデュー</strong>」を検索した結果・・・57,100件</a></p>
<p>&#8221; ディスタンクシオン&#8221;は、邦訳ではよく「卓越化」と訳されます。他者を自分から区別して際だたせることです。卓越化は社会のあらゆる領域に存在します。例えば「趣味」です。趣味は他人と自分を区別する重要な要素です。そしてまた、趣味によって自分や相手が何者であるのかを評価する傾向も存在します。</p>
<p>例えばパチンコを趣味とする人と、現代絵画を趣味とする人とでは、それぞれに自己規定や他者からのまなざしも変わってきます。世の中には色々な考え方がありますが、一般的に多くの人にとって「パチンコ」よりも「現代絵画」の方が「高尚である」「教養がある」と見なされる可能性が高いでしょう。パチンコを趣味とする人にとって、現代絵画は「何となくよそよそしい」「学校で教えられるようなもの」として否定する対象となる可能性が高いですし、現代絵画を趣味とする人にとってパチンコは「くだらない」「だらしない」と映ったりするでしょう。</p>
<p>それでは、こういう本人の趣味はどうやって形成される のでしょうか。一見すると趣味は本人の自由意思によって決定されるように見えますが、実はその人がどういう趣味を持つかは、その人の出自（両親の学歴・職 業・年収・家庭環境）、その人の学歴、その人の職業などと強い関連性があることが、フランスでも日本でも各種の社会調査によって明らかになっています。特にフランスは日本と比較して、社会の上層に位置する人々と下層に位置する人々との趣味の違いが激しいことが分かっています（美術館のページ参照）。<br />
<a href="http://www.mirai-city.org/%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B3%87%E6%9C%AC/" target="_blank">http://www.mirai-city.org/%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B3%87%E6%9C%AC/</a></p>
<p>ブ ルデューは、このような卓越化を&#8221;ハビトゥス&#8221;という概念を用いて説明しようとします。ハビトゥスとは、ある集団に特有の行動・知覚様式を生産する規範システムのことです。例えば上記の美術館のページでは、親が大学教授の13歳の少女へのインタビューが引用されていますが、「特に両親に強制されたわけでもないく」「自分の読みたいものとして」画集を鑑賞し、画家の名前を豊富に挙名することができ、音楽についても古典音楽の巨匠のものを鑑賞していることが分かります。</p>
<p>ハビトゥスについては以下のページが図表入りで参考になるかも。<br />
<a href="http://www2.educ.fukushima-u.ac.jp/%7Emiura/WebAE/WebAE/Bourdieu/Bourdieu05.html" target="_blank">http://www2.educ.fukushima-u.ac.jp/~miura/WebAE/WebAE/Bourdieu/Bourdieu05.html</a></p>
<p>このように私達にとって見えにくい「文化的な卓越化」が存在し、それは本人を取り巻く社会的属性によって大きく規定されることになるとブルデューは説いています。そして、「学校」や「教育制度」というのは一見すると平等なように見えて、実はある特定の文化を持った人々に有利な状況になっているのではないかと指摘しています。学校教育の内容は例えば文学の解釈とか、論理的思考力、しつけ、言葉遣いやボキャブラリーなどが評価を決定する重要な要素となってきます。その時、文学と慣れ親しんだ家庭環境の中で育ってきた子供と、パチンコやバイクを趣味とする家庭環境の中で育ってきた子供とで、果たして平等に「学校文化」（教育内容の文化的特質）に溶け込むことができるでしょうか？</p>
<p>実は学校は、高度に文化的な趣味を持つ一部の家庭環境を持つ人々にとって有利であり、彼らが社会の中で上に立つのに必要な「正統性」を与える機関にすぎないのではないかと考えることもできます（この辺は今まで暗記編重 の傾向が強かった日本の教育内容とある程度比較して考える必要があります。ちなみにフランスのバカロレア（大学入学資格試験）では文学や哲学などについて論述させる問題が出るそうです）。</p>
<p>ブルデューの理論、特にその日本社会への応用については、議論百出、批判する意見も評価する意見も数多く提出されています。日本は社会階層間の文化的な格差が小さい中流社会であり、フランスの理論を単純に日本に当てはめることはできないという意見、あるいはそのような中流意識は実態の日本社会を正確に反映しておらず、実は日本社会も階層文化によって大きく規定されているという意見等々・・・。そしてその両方の意見が豊富な社会調査に立脚していることに注意する必要があります。私 達自身も批判するにしても評価するにしても、まずは彼がどういう論理展開をしているのか、さらに各種のデータは彼の見解を肯定しているのか否定しているのか、などの検証が必要であろうと思います。とりあえず『ディスタンクシオン』を中心にそういうことをやっていきたいと思っているんですね。</p>
<h3>教育社会の成立</h3>
<blockquote><p>天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずして各々安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。</p>
<p>その次第甚だ明らかなり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば 賢人と愚人との別は、学ぷと学ばざるとによって出来るものなり。また世の中にむつかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむつかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い心配する仕事はむつかしくして、手足を用いる力役はやすし。</p>
<p>故に、医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、数多の奉公人を召使う大百姓などは、身分重くして貴き者というべし。身分重くして貴ければ自ず からその家も富んで、下々の者より見れは及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによってその相違も出来たるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺に云く、天は富貴を人に与えずしてこれをその人の働きに与うるものなりと。されば前にも言える通り、人は生れながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。 <strong>（福沢諭吉『学問のすすめ』）</strong></p></blockquote>
<p>福沢は、身分制度廃止後の社会において教育の有無が地位決定の重要な要素となることを、すでに明治初期の段階で予見していました。実際、近代化が進んだ日本社会において高等教育の有無は地位達成のための重要な要素となりました。戦前は高等教育を受けることができたのはごく一部の人々だけでしたが、戦後は豊かになった庶民も教育に投資と情熱を傾けるようになり、東京大学や名門私大を頂点とした教育機関の序列化の中で人々が競争を繰り広げる教育社会が成立しまし た。</p>
<p>このような教育社会は、「過度な受験競争」や「企業の人材採用段階での学歴主義」など様々な問題点を指摘されながらも、「教育機会は誰にでも開かれている」「頑張れば誰もが上の学校へ進学する可能性が増える」という一般の通念に支えられてきました。しかし近年、このような日本の教育の平等度に対して、疑問を提起するデータが教育社会学の分野などからあがってきています。</p>
<p class="toplink">
<h3>東京大学入学者の70％以上が上層ノンマニュアルの子弟</h3>
<p><img class="alignright size-full wp-image-349" title="51" src="http://www.mirai-city.org/wp-content/uploads/2009/05/51.jpg" alt="51" width="400" height="268" /><strong>（１）</strong>・・・図１は、東京大学の学生の保護者の職業構成を、過去20年間にわたって示したものである。このグラフが指し示しているのは意外にも、専門・管理職としてくくられる上層ノンマニュアル<span style="font-size: x-small;">（医師、弁護士、大学教授などの専門職や、大企業、官公庁の管理職、および中小企業の経営者など）</span>と 呼ばれる階層の出身者の割合が、すでに1970年代から一貫して、ほとんど大きな変化もなく、高い値を示していることである。この20年間に、公立高校から東京大学に入る者の割合は、70％から50％へと大きく変化した。かわって、私立高校の出身者は、30％から50％へと大幅な増加を示す。しかしたとえ、どのような高校を経由してこようとも、もともとの出身階層の構成比率自体にはこの間ほとんど変化が生じなかったということである。・・・東大入学者 は、私立高校の出身者の寡占状態を生み出すずっと以前から、すでに特定の社会階層出身者の寡占状態となっていたのである。</p>
<p>この事実は、次のことを示唆している。すなわち、東京大学に有利な階層の子供達は、有名進学塾に行くための教育費や、私立の中高一貫校の授業料を負担できる「財力」のみによって、有利な立場にあるのではない。それ以上に、この階層と結びついた財力以上の要因が東大入学までのチャンスを強く規定しているということ である。・・・私立高校が優勢になる以前から、専門・管理職の子弟たちは、日比谷や西などの公立高校を経由して、やはり東大にたくさん入学していたのである。</p>
<p><strong>（２）</strong>親から子へと家庭で伝達される階層文化を媒介として、社会的不平等が再生産される。こうしたメカニズムは「文化的再生産」と呼ばれる。そして、学校は、この文化的再生産の中で、相続された階層文化−フランスの社会学者、ブルデューのいう 「文化資本」−を、学校での成功に変換し、それによって不平等を正当化する重要な機関と見なされている。</p>
<p>日本でも、家庭で伝達される 文化資本が、学校での成功を左右していることはたしかである。文字や数字などの記号を操る能力、丹念に論理を追う能力、ものごとを捉えるうえで具体から抽象へと飛躍する能力。これらの能力の獲得において、どのような家庭のどのような文化的環境のもとに育つのかが、子供達の間に差異をつくりだしていることは否定しがたい。そして、こうした能力の違いが学校での成功と失敗を左右するであろうことも容易に想像できる。それでも、日本の場合には、学校で測られる学力は、特定の階層から「中立的」であると見なされている。しかも、生得的な能力の差異をなるべく否定し、「子供には誰でも無限の能力、無限の可能性がある」と見る能力＝平等観が広まっている。・・・頑張れば誰でも「１００点」がとれるとする努力主義信仰も根強い。・・・それゆえ、大衆教育社会が完成の域に達した以降は、特定の階層や集団にとって日本の教育システムが有利にはたらいているという見方それ自体が、多くの人々にとってはあまりピンとこない現実 となっている。・・・実際には学校を通じて不平等の再生産が行われていても、そのような事実にあえて目を向けないしくみが作動しているといえるのである。</p>
<p>不平等を再生産すると同時に、そうした事態を問題視する視線をさえぎる。不平等を正当化するうえで、もっとも有効な方法が、大衆教育社会成立のなかで編み出されているのである。      <strong>（苅谷剛彦・東京大学大学院教授『大衆教育社会のゆくえ』中央公論新社）</strong></p>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="1" width="50%" align="right">
<tbody>
<tr>
<td>東京都立大学教育学研究所<br />
「現代と教育実践」研究グループが1990年に行った調査</p>
<div style="text-align: center;">
<table border="1" cellspacing="1" cellpadding="1" width="100%">
<tbody>
<tr>
<td colspan="6"><strong>成績と父親の職業（中学２年生）</strong></td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td width="15%">ブルーカラー</td>
<td width="15%">自営農業</td>
<td width="15%">事務販売</td>
<td width="15%">専門管理</td>
<td width="15%">その他</td>
</tr>
<tr>
<td>成績上</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">19.5</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">25.7</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">33.0</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">45.0</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">31.3</div>
</td>
</tr>
<tr>
<td>成績中</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">34.9</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">40.6</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">34.1</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">29.1</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">25.0</div>
</td>
</tr>
<tr>
<td>成績下</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">45.6</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">33.7</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">33.0</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">25.9</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">43.8</div>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<table border="1" cellspacing="1" cellpadding="1" width="100%">
<tbody>
<tr>
<td colspan="6"><strong>成績と家庭の年収（単位：万円）（中学２年生）</strong></td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td width="15%">〜400</td>
<td width="15%">400〜600</td>
<td width="15%">600〜800</td>
<td width="15%">800〜1200</td>
<td width="15%">1200〜</td>
</tr>
<tr>
<td>成績上</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">15.4</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">24.7</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">37.6</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">45.6</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">37.8</div>
</td>
</tr>
<tr>
<td>成績中</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">39.7</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">37.4</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">26.2</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">31.5</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">24.4</div>
</td>
</tr>
<tr>
<td>成績下</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">44.9</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">37.9</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">36.2</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">23.0</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">37.8</div>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<table border="1" cellspacing="1" cellpadding="1" width="100%">
<tbody>
<tr>
<td colspan="6"><strong>成績と母親の学歴（中学２年生）</strong></td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td width="15%">中学</td>
<td width="15%">各種・専門</td>
<td width="15%">高校</td>
<td width="15%">短大</td>
<td width="15%">大学</td>
</tr>
<tr>
<td>成績上</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">19.8</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">34.0</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">33.8</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">45.9</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">57.6</div>
</td>
</tr>
<tr>
<td>成績中</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">29.3</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">30.2</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">34.8</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">31.2</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">20.7</div>
</td>
</tr>
<tr>
<td>成績下</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">50.9</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">35.9</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">31.4</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">23.0</div>
</td>
<td width="15%">
<div style="text-align: right;">21.7</div>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
</div>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>東大の苅谷は、『大衆教育社会のゆくえ』の中で豊富な社会調査のデータ（右の表など）や、ブルデューの理論を参照しつつ、子供の学力形成や進学に潜む階層間 格差の隠れた実態を指摘し、「日本の教育機会は誰にでも平等に開かれている」「努力して頑張れば誰でも百点が取れる」など世間一般で言われている言説に対して疑問を提起しました。</p>
<p>上記の引用部分は、（１）1970年−1990年の20年間の東京大学入学者の70％以上が、一貫して上層ノンマニュアルの子弟によって占められてきたデータに関する解説部分、（２）ブルデューの文化資本概念をもとに日本の教育社会を解説している部分です。</p>
<p>『大衆教育社会のゆくえ』は出版されるや世間に強い衝撃を与え、有名無名問わず様々な人々がこの本の論評を行っています。</p>
<p>苅谷はさらに、文部科学省の推進する「ゆとり教育」や「総合的な学習の時間」などが子供の全般的な学力低下を招いていると指摘して、最近の「学力低下論争」 の主要な論客の１人となっています。特に、過去のデータと比較して、両親の学歴や職業が低い子供の中ほど、学習意欲・将来志向・実際の学力などの低下が著 しく、テレビやゲームの時間が大幅に増加していることに注目し、このような「インセンティヴ・デバイド」（意欲格差）によって、日本の社会階層間格差が現状以上に拡大していく可能性を指摘しています。</p>
<p class="toplink">
<h3>象徴的暴力</h3>
<p><strong>1 </strong>およそ教育的働きかけは、恣意的な力による文化的恣意の押しつけとして、客観的には、ひとつの象徴的暴力をなすものである。</p>
<p><strong>2 </strong>教育的働きかけは、コミュニケーション関係の中で行われる象徴的暴力であり、このコミュニケーションが固有の効果、すなわち象徴的な効果を生じるのは、押しつけを可能にする恣意的な力がまったく事実として決して露わにならない限りにおいてである。また、教育的働きかけは、教え込みのコミュニケーションの中で 達成される文化的恣意の教え込みであり、このコミュニケーションがそれ固有の効果、すなわち固有に教育的な効果を生じるのは、教えられるものの内容の恣意性がまったく事実として決して露わにならないかぎりにおいてである。このようなものとしての教育的働きかけは、必然的に、教育的権威と、その行為の任を託された機関の相対的自律性を、行使のための社会的条件としている。</p>
<p><strong>序文</strong> 「象徴的暴力」 violence symboliqueというタームについていえば、これは教育的働きかけを非暴力の作用とみるすべての自生的表象と、自生的重視との絶縁を明瞭に表明して いることがわかる。そしてこの語が必要とされたのは、第一に、象徴的押しつけの二重の恣意性を特徴とするあらゆる働きかけが理論上は一つのものであることを明示するためであり、第二に、象徴的暴力のもろもろの作用（その作用が、民間療法者、呪術者、聖職者、預言者、宣伝者、教師、精神科医、精神分析医のい ずれによって行使されようと）に関するこの一般理論が、暴力および正統的暴力に関する一般理論に属することを明示するためである。この帰属関係は、直接的 には、社会的暴力の様々な形態の間の代替可能性によって立証され、また間接的には、正統な象徴的暴力の学校による独占と、物理的暴力の正統な行使の国家による独占との相同性によって立証されているとおりである。 <strong>（Ｐ．ブルデュー『再生産』藤原書店）</strong></p>
<h3>婚姻戦略</h3>
<table border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" width="50%" align="right">
<tbody>
<tr>
<td colspan="6"><strong>日本の結婚形態別、夫妻の学歴組合せ別、同類婚指数<br />
</strong><span style="font-size: x-small;">厚生省「結婚に関する人口学的調査」1983、湯沢『図説現代日本の家族問題』1987</span></td>
</tr>
<tr>
<td rowspan="2"><span style="font-size: x-small;">結婚形態</span></td>
<td rowspan="2"><span style="font-size: x-small;">夫の学歴</span></td>
<td colspan="4"><span style="font-size: x-small;">妻の学歴</span></td>
</tr>
<tr>
<td><span style="font-size: x-small;">中卒</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">高卒</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">短大・高専卒</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">大卒</span></td>
</tr>
<tr>
<td rowspan="4"><span style="font-size: x-small;">総数</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">中卒</span></td>
<td><strong><span style="font-size: x-small;">2.45</span></strong></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.52</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.13</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.03</span></td>
</tr>
<tr>
<td><span style="font-size: x-small;">高卒</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.62</span></td>
<td><strong><span style="font-size: x-small;">1.51</span></strong></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.48</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.19</span></td>
</tr>
<tr>
<td><span style="font-size: x-small;">短大・高専卒</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.20</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.93</span></td>
<td><strong><span style="font-size: x-small;">3.53</span></strong></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.79</span></td>
</tr>
<tr>
<td><span style="font-size: x-small;">大卒</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.10</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.87</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">2.66</span></td>
<td><strong><span style="font-size: x-small;">4.16</span></strong></td>
</tr>
<tr>
<td rowspan="4"><span style="font-size: x-small;">見合い</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">中卒</span></td>
<td><strong><span style="font-size: x-small;">2.23</span></strong></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.52</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.05</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">-</span></td>
</tr>
<tr>
<td><span style="font-size: x-small;">高卒</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.54</span></td>
<td><strong><span style="font-size: x-small;">1.61</span></strong></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.45</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.17</span></td>
</tr>
<tr>
<td><span style="font-size: x-small;">短大・高専卒</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.13</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">1.11</span></td>
<td><strong><span style="font-size: x-small;">3.00</span></strong></td>
<td><span style="font-size: x-small;">1.24</span></td>
</tr>
<tr>
<td><span style="font-size: x-small;">大卒</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.04</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.83</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">3.31</span></td>
<td><strong><span style="font-size: x-small;">4.75</span></strong></td>
</tr>
<tr>
<td rowspan="4"><span style="font-size: x-small;">恋愛</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">中卒</span></td>
<td><strong><span style="font-size: x-small;">2.65</span></strong></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.53</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.18</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.05</span></td>
</tr>
<tr>
<td><span style="font-size: x-small;">高卒</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.69</span></td>
<td><strong><span style="font-size: x-small;">1.45</span></strong></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.48</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.20</span></td>
</tr>
<tr>
<td><span style="font-size: x-small;">短大・高専卒</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.25</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.83</span></td>
<td><strong><span style="font-size: x-small;">3.72</span></strong></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.58</span></td>
</tr>
<tr>
<td><span style="font-size: x-small;">大卒</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.15</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">0.87</span></td>
<td><span style="font-size: x-small;">2.29</span></td>
<td><strong><span style="font-size: x-small;">3.78</span></strong></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>フランスの社会学者ブルデューは、現在のフランスにおいてもなおかつ、結婚は生涯の間で一度か二度の、数少ない資源最大化ゲームのための家族戦略であって、 それを「趣味の一致」という名において男女が自発的に行っていると指摘している。今の若い男女は「やっぱり趣味が一緒じゃなきゃね。冬はスキー、夏はテニス、一緒に遊べなきゃね」というが、それではその趣味はどのように形成されるのだろうか。ある名門女子大の卒業生のケースでは、仲良しの３人組がそれぞれ 恋愛結婚の結果、配偶者をみつけたが、その相手は、１人は医者、１人は一部上場企業の取締役の息子、１人はオーナー経営者の息子、というように驚くべきマッチングであった。彼らはどこで知り合ったのか、どういう「趣味の一致」を持っていたかというと、乗馬クラブであったり、ヨットであったり、最初から候補者のスクリーニングがおこなわれている。</p>
<p>データからは、愛する資格、愛される資格には、同類婚の認識が非常に強く働いていて、見合いでも恋愛でも、配偶者選択の落ち着く先はそれほど大きく変わらないという結果が出ている。社会学というのはまことに身もふたもない無粋な学問である。かつて親が「この人を」といって押しつけた相手は、当人にとっては強制に見えてそれに反抗する理由があったのだろうが、現在本人の意思で選んだ相手が親の意 に沿う相手と同じ傾向がある。選択基準は変わらないのに、その内面化が達成されて、人々が「主体的」に行動するとき、それを恋愛結婚と呼ぶにすぎない。 <strong>（上野千鶴子・東京大学教授「恋愛結婚の誕生」　『東京大学公開講座　家族』所収）</strong></p>
<p class="toplink">
<h3>ライフスタイル</h3>
<p>「恋愛結婚」という制度下では、結婚相手の階層はランダムになると思われるが、そうではない。近代的恋愛は、「結婚したいという気持ち」に置き換えられること を思い出してほしい。ただの「好き」という感情なら、階層を越えるかもしれないが、結婚を前提とする恋愛では同一のライフスタイルを志向するもの同士で行われるケースが圧倒的である。それゆえ、夫と妻の階層は、一致しやすい。</p>
<p>ブルデューが言うように、階層は、他の階層との「差異（ディスタンクシオン）」によって確認される。その差異を認識させるのは、趣味や生活習慣などの「ライフスタイル」である。ブルデューは明示的に述べていない が、「家族」こそ、趣味や生活習慣などのライフスタイルを共有する単位なのである。</p>
<p>どの程度の家に住んでいるか、どの程度のモノを所 有しているか、どの程度の趣味をもっているか、どの程度の食事をしているか、そして、どのような職業に就いているか。このようなライフスタイルの内容自体ではなくて、他の家族とのライフスタイルとの差異によって、社会の中での家族のランクが決まってくる。 <strong>（山田昌弘・東京学芸大学教授『近代家族のゆくえ』新曜社）</strong></p>
<p class="toplink">
<h3>文化資本</h3>
<p>商売をはじめる時には普通「資本金」が必要となります。いってみれば「元手」ですね。たとえば、ジュースを売りたいと考えて、ジュースを１つだけ仕入れた場合、損をするリスクは少ないですが、儲けも少なくなります。これに対して、大規模な店を開いて、大量のジュースを仕入れた場合、売れなかった場合のリスクもありますが、売れた場合は大きな見返りを期待することができます。</p>
<p>教育の中で、これに似た考え方をすることがあります。これが 「文化資本」と言われるものです。たとえば、中卒で裸一貫で就職した場合、教育への費用や、教育を受けている間のロス（機会費用）はかかりませんが、その 職業選択範囲や賃金の上昇には限界があることがあります。それに対し、学校で人脈や経営知識を得たり、あるいはどこかで訓練を受けてスキルを身につけた場合、それが職業に結びついた場合は専門家としての見返りを受けることができます。</p>
<p>いずれにせよ、資本が生まれつき平等に備わっているわけではありません。経済資本の問題で言えば、お金持ちの家に生まれる人と、そうでない人があります。では、文化資本の場合はどうであるか、たとえば、 職人の家庭に生まれた人は、その技術を多かれ少なかれ学び取って育つことになります。バイリンガルの家庭に生まれた 人は小さい時から外国語を話すことを覚えることができます。これを経済格差と同様に環境の不平等として捉えることもできるでしょう。</p>
<p>教育社会学の中で、しばしばこの文化資本が問題となることがあります。社会の中で、学歴が高いほど、職業選択の自由が多く、また、賃金や社会的威信が高い職業につく可能性が高いことになっているのですが、この学歴取得の決定因は日本では経済資本よりもむしろ学力にかかっていると考えられています。日本の国立大学の学費は私立よりも安く押さえられ、学力さえあれば家庭環境に関わらず入学できることから、経済的な格差というものが見えにくいからです。しかし、 その学力が学校で誰でも平等に身につくものではなく、家庭環境の影響が大きく、学校ではただ選抜だけを行っているのではないか、という指摘があります。</p>
<p>これまでの統計的な事実として、学歴の高い親の子供ほど、学力が高い、また学歴が高くなる傾向があります。これは学歴が高ければ収入が高い傾向にあり、そのために進学校に子供をやったり、塾に行かせたりという教育投資が可能なのが一つの理由です。しかし、それと同時に家庭で伝達される文化資本の格差の影響 も考慮しておく必要があります。経済格差は、社会のシステムを変えることである程度の是正は可能です。しかし、文化的格差を埋めることは簡単ではありませ ん。このために、学力に基づく学校での選抜が、経済的、文化的な社会の不平等を正当化させる機能を持っているという一面も存在しています。 <strong>（みらい　「文化資本って何だろう」）</strong></p>
<p class="toplink">
<h3>文化資本（２）</h3>
<p>文化が資本であることを理解するためには次のようなことを想起すればよい。劇場やコンサートは入場料自体はほとんどの人々がアクセスできる範囲にある。にもかかわらず現実にこれらを享受するのは特定の人々に限られている。クラシック音楽や古典劇を理解可能にするコードがなければ楽しくないし、意味不明である。したがって文化財を理解可能にするコード所有者には富めるものがますます富むという文化資本の拡大が生じる。資本の拡大は貨幣や財産に限らない。しかもこのような文化資本は教育達成（学力、学歴）に有利なコードとなる。上層階級の家庭には「正統」文化が蓄積されているからである。正統文化とは高級で価 値が高いと見なされる文化である。クラシック音楽や古典文学は正統文化であり、演歌や大衆小説は正統文化から距離がある。学校で教育されるのは文化一般で はなくこうした正統文化である。 <strong>（竹内洋・京都大学教授『日本のメリトクラシー』東京大学出版会）</strong></p>
<p class="toplink">
<h3>芸術資本</h3>
<p>社 会学者ブルデューらが1960年代にフランスの美術館に対して行った調査によると、観客全体に占める比率では、農業１％、生産労働者４％、商人・職人 ５％、事務職および中級管理職23％、上級管理職・専門職45％となっていました。全就業者の５％に満たない上級管理職・専門職が観客の４割以上を占め、 就業人口の４割近くを占めるはずの生産労働者は美術館の観客全体の４％でしかなかったのです。</p>
<p>・・・ブルデューは、現代美術のように 高度に抽象化された絵画を「鑑賞できる」のは、生まれつきの先天的な才能によるよりも、どれくらい鑑賞に必要な知覚を自分のものとして集められるかという、後天的な要素によるところが大きいと考えました。そしてこの鑑賞に必要な知覚は、財産のように各階層それぞれにばらつきがあると考え、それを芸術資本と呼びました。象徴財としての芸術作品そのものは、それを解読しうる鑑賞眼、すなわち芸術資本が必要であると説いたわけです。</p>
<p>・・・ 一方、上層階級の側については、ブルデューが「意識的に学ぶこと」なしに美的性向が獲得される傾向にあると指摘しています。実際、ブルデューらがインタ ビューしたパリの上層階級の少女は、両親から何の圧力を受けることもなく意図も努力も感じさせずに広汎な教養を示すことができました（下記参照）。</p>
<blockquote><p>「美 術館にはよく行きますか？」「あまり行きません。リセではあまり美術館には行かなくて、歴史博物館に行くことの方が多いですね。両親はどちらかというと劇 を見に連れていってくれます。美術館にはあまり行きません」「好きな画家は？」「ヴォン・ゴッホ、ブラック、ピカソ、モネ、ゴーギャン、セザンヌなんか。 でも、現物は見たことがありません。家で画集を見て知ったんです。ピアノは少しやります。それだけ。音楽を聴くのは大好きだけど、自分で弾くのはあんまり ね。バッハ、モーツァルト、シューベルト、シューマンなんかはたくさんあります」「ご両親は読書を勧めますか？」「自分の読みたい本を読みます。家にはたくさん本があるから、読みたいと思った本をとるんです」（大学教授の娘、13歳、古典教育課程第４学級（日本の中学２年から３年に相当））</p></blockquote>
<p>こうした態度形成は、第一に芸術作品への時間をかけた日常の慣れ親しみ、第二に親たちの非指示的ですが暗示に満ちた言葉や見方の取り込み、第三に知識としてよりも慣習的行動としてのそれらの内化（身体化）などが要因として挙げられると考えられます。  <strong>（みらい　「美術館」）</strong></p>
<p class="toplink">
<h3>野郎ども（leds）の文化 　（ブルデューとは別の人の研究ですが関連性があります）</h3>
<p>イギリスの社会学者ポール・ウィリスは、イギリスの学校の研究を通じて、「生徒の側の服従や礼儀や敬意に見合う反対給付」は、職業機会といった客観的な等価物に置き換えられなくても、「主体的な参加の気構えだとか、人間性だとか、社会的責任などといったあいまいな」道徳的なものへと移し替えられることを指摘し、これを「教育的交換の神秘化」と呼んでいます。ウィリスは次のように述べています。「教育の理念的な枠組みに立ち返っていえば、生徒が努力して獲得するに値するものは、いまや知識や成績証明ではなく、むしろ謙譲とか礼儀正しさといったようなものそれ自体である」と。</p>
<p>「勉強すること」は、それを通じて得られる知識や成績という「客観的な等価物」を生み出すだけではなく、「つらさを知る」という「道徳的な」意味をあわせもつということでもあります。「勉強をうんとやるということ」には、（良い成績を取って望ましい就職先の獲得につながるという）教育達成と職業機会との交換関係を越えた意味が与えられます。</p>
<p>ウィリスの描いた「野郎ども」（下層出身の子供達）は、その鋭い「洞察」によってこうした交換の虚偽性を見抜いたとされています。ウィリスの議論では、労働者階級の文化と密接に結びついた生徒の反学校的文化との対応の中で、教師達は教育的交換の基本パラダイムを変質せざるをえなくなります。さらにウィリスは、野郎どもが学校や教師に反発しながら、彼ら自身の「たくましい肉体労働への信仰」と「女々しい事務労働へ の軽蔑」から、自ら進んで過酷な肉体労働を引き受け、結果として野郎どもの文化が社会秩序を再生産しているという逆説を明らかにしました。日本でいうガテン系（リクルートの肉体労働専門雑誌『ガテン』に掲載されている仕事）へのあこがれにも、これに通じる部分があると思われます。</p>
<p>しか し、竹内も苅谷もイギリスの野郎どものような対抗文化の形成が日本の職業高校には見られなかったことを指摘しています。その理由はまだ明確になっていません。竹内は、日本の下層階層のライフスタイルがホワイトカラーに近似しているからではないかという仮説を提示しており、苅谷もイギリスの階級対立とは異なって日本にはそのような洞察を生み出す歴史的背景が存在しなかったのではないかとする考えを示しています。この点についてはさらなる研究が必要ですが、 学校への対抗文化の形成が見られないことも、日本の職業高校の安定作用として機能している面があることは確かであると言えます。 <strong>（みらい　「職業高校の内部過程」）</strong></p>
<h3>ディスタンクシオンの視点</h3>
<p class="toplink">いま一つ、文化における不平等にきわめて特徴的なことは、それ が容易に「不平等」としては意識されにくいということである。所得や財産の不平等、納税の不平等、金銭による「不正」入学などは世間の憤激を引き起こす が、言語能力とか芸術的能力あるいは数学の学力などが諸個人間にきわめて不均等に配分されていることに人々は「不平等」として非難を加えることはない。たとえそれら能力の背後になんらかの社会的不平等が効いているという予感があっても、である。Ｍ．ルイスはアメリカ社会における不平等の理由づけとして「個人中心という感情」（individual as central sensibility）が働いているとし、この感情は、個人の能力、さらにパーソナリティに責めを負わせることで不平等を説明しているとしたが、これはいってみれば文化の不平等による社会的不平等の正当化なのである。「能力の相違」というものは、人を納得させるのであり、そうでなくても、努力の多少ということで諦めを誘うのである。</p>
<p class="toplink">ここでもう一つの観点を導入する必要がある。ある人々の示すある能力 を「すぐれている」「優秀」と判断させる基準は、社会的なものでないといえるかどうか。この問題こそ、ブルデューの『ディスタンクシオン』等が追究してい るもので、そこで提起された解釈は、支配的な社会階層の文化が当該社会の正統的文化とされ、他の諸文化を序列づける基準ともなる、というものである。このことの経験的検証には問題も残されているが、有力かつ重要な視点の提示であることに変わりはない。 <strong>（宮島喬・立教大学教授『文化と不平等』有斐閣）</strong></p>
<h3>ブルデュー死去</h3>
<p class="toplink">「現代を代表する知性」と言われるフランスの社会学者でコレージュ・ド・ フランス名誉教授のピエール・ブルデュー氏が２３日夜、がんのためパリで死去した。７１歳だった。スペイン国境に近い農民の家に生まれ、哲学を学んだが、 兵役でアルジェリアに動員されたのをきっかけに民族学、社会学に転換。３４歳で社会科学高等研究院教授に就任。同研究主任も務めた。</p>
<p>６８ 年学生運動のバイブルといわれたＪ・Ｃ・パスロンとの共著「遺産相続者たち」（６４年）で注目を集め、その後「ディスタンクシオン」（７９年）、「実践感 覚」（８０年）などの著書で広く世界に知られた。「ハビトゥス」「文化資本」などといった独自の概念を駆使。綿密な社会調査の結果と突きあわせながら、教育や階層化の問題などに取り組み、広い分野の研究者に影響を与えた。また、積極的な社会的発言でも知られ、近年では、グローバリズムに反対する代表的な論者の一人だった。 <strong>（朝日新聞　１月24日付）</strong></p>
<p>ピエール・ブルデュー氏（仏社会学者）２４日、 パリ市内の病院でがん闘病の末、死去。７１歳。１９６０年代初め、仏高等教育の硬直性を批判した共著書「遺産相続者たち」で注目され、６８年のパリ大学紛争に影響を与えた。現代を代表する社会学者で、「実際行為」「場」など独特の概念を駆使しながら、階級、大学、芸術など幅広い世界に潜む権力や差別の構造を分析した。代表的著作に「ディスタンクシオン」「芸術の規則」などがある。 <strong>（読売新聞　１月24日付）</strong></p>
<p>ひとりの社会学者が死んだ。時を移さず、その国の大統領、首相が哀悼のコミュニケを発表する。それをラジオが繰り返し報道する。続いて社会党、共産党、緑の党、トロツキスト党、さらには保守政党までが、また共産党系、社会党系、独立系の諸労組が同じく惜別のメッセージを流す。その時のテレビ各局のニュースが トップで取り上げる。前に放送したインタビュー、あるいは討論番組を再放送して回顧特集を組む。その国を代表する新聞が翌日の一面でトップ報道した上、中の二頁を費やして、その生き様と業績を紹介する。その翌日はさらに六頁の特集。しかも社説でその人柄と行動を論評する。翌週、知識層を対象とした週刊誌二つがそれぞれ十六頁、二二頁の特集を組む。読者がそれぞれの思いをメールや手紙で寄せ、それが日刊紙の投書欄の全面を埋める。ピエール・ブルデューの死が 巻き起こした反響はそのようなものだった。 <strong>（加藤晴久・恵泉女学園大学教授「ブルデュー追悼」　『現代思想』（青土社）３月号所収）</strong></p>
<p>とても古くからの友人で、多くのことをともに経験してきました。わたしたちの友情はつねに激しく、そしてとても豊かで、緊張感のあるものでした。たしかにときには難しいこともありましたが。彼の死のニュースには動揺しています。  <strong>（デリダが『ル・モンド』誌に寄稿した文章）</strong></p>
<p>ピ エール・ブルデュー氏の訃報に接した瞬間、しばし言葉を失った。かねてから病気だとは聞いていたが、まさかこれほどにも死期が間近に迫っていようとは。バルトの事故死に始まって、ラカン、フーコー、アルチュセール、ドゥルーズ、レヴィナスと、二十世紀を代表する思考者たちがついに今世紀の訪れを目にするこ となく次々と世を去った後、デリダとともに世紀を越え、フランスの、いや世界の言論界を牽引してきたブルデューの死は、まさに「思想家の時代」の終焉を告げる象徴的な出来事である。私にはそう思えてならない。 <strong>（読売新聞　１月30日付　石井洋二郎氏の言葉）</strong></p>
<p>「世界でももっとも才能にあふれ、もっとも有名な知識人のひとりだった」「ブルデュー氏は社会参加と不可分の科学として社会学を実践した。世界の悲惨に見舞われている人々のための彼のたたかいはそのことを見事に示している」  <strong>（シラク大統領の言葉）</strong></p>
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		<title>ジェンダー用語</title>
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		<pubDate>Fri, 15 May 2009 08:28:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>齊藤 貴義</dc:creator>
				<category><![CDATA[社会科学]]></category>
		<category><![CDATA[ジェンダー]]></category>

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		<description><![CDATA[ジェンダー・・・女性存在と男性存在の生物学的側面を指すセックスと区別され、男性と女性の違いの社会・文化的側面、すなわち「非生物学的側面のすべて」を意味する概念を指す。元々は文法上の「性」をあらわす言葉であったジェンダーが [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>ジェンダー</strong>・・・女性存在と男性存在の生物学的側面を指すセックスと区別され、男性と女性の違いの社会・文化的側面、すなわち「非生物学的側面のすべて」を意味する概念を指す。元々は文法上の「性」をあらわす言葉であったジェンダーがこのような使われ方をするようになったのは、第二期フェミニズム運動以降である。あらゆる社会は何らかの形でジェンダー秩序を生産し、ジェンダーを正しく実践できるかどうかに応じてサンクション（賞罰）が公式・非公式とわず組み込まれている。社会における性差別は、ジェンダーを生物学的性差と混同させるという社会観念を活用することによって巧妙に構築されており、このような性差別の実態を告発していくために、第二期以降のフェミニズム運動において、ジェンダー概念の創出とその構造の分析が不可避となったのである。</p>
<p><strong>学校</strong>・・・一般に現代社会において、学校は社会の平等化に寄与する重要な機関の一つであると見なされている。しかし、先進国でいわゆる「教育爆発」が生じ、高等教育進学率が男女とも急激に増加した後も、男女のジェンダーは形を変えて様々な教育過程で確認されている。近年のジェンダー研究においては、学校は社会の平等化に寄与する一方で、ジェンダー秩序の再生産に寄与している側面も併せ持っているのではないか、という視点に立った業績が多数出てきている。欧米における教室観察を通じた実証研究により、学校には以下のような傾向の存在することが指摘されている。</p>
<blockquote><p>    １．教室運営の慣習や教師の言動の中に、男女の差異や対比、固定的な性役割を伝達するメッセージが「隠れたカリキュラム」として含まれている。<br />
    ２．教師−生徒間の相互作用において、教師からの働きかけにジェンダー・バイアスが確認されている。まず、教師は女子よりも男子に多く働きかけるという量的差異が見いだされた。発言を求める指名も、励ましも賞賛も、叱責も、男子は女子よりも多くのものを教師から受け取る。つまり、教師は教育の対象として女子よりも男子を優遇し、差別的対応をしていると指摘されている。さらに、教師は生徒の性別によって異なる評価、異なる対応をするという質的差異も見いだされている。学業については、女子の好成績はまじめな努力の賜物とされるのに対して、男子の場合は悪い成績を取ったときも隠された潜在能力が評価され、より高い達成に向けて叱咤激励される。また、女子は繊細で動揺しやすいという認識から、教師は叱責や間違いの指摘といった批判的対応を控えがちとなる。<br />
    ３．生徒の側の行動として、男子の方が女子よりも活発に学習活動に参加している。男子は女子よりも多く発言し、教師に質問して手助けを求め、グループ活動をリードする。教室空間は質的にも量的にも男子によって支配される傾向にある。</p></blockquote>
<p><strong>性別役割分業意識</strong>・・・「男は仕事、女は家庭」などのように、性別と社会における役割や職業を結びつけようとする意識を性別役割分業意識と呼ぶ。性別役割分業意識は歴史的にあらゆる場面で確認されてきたが、とりわけこのような意識が強くなったのは近代になってからである。産業化の進展や職住分離、法律によって規定された家制度などによって、性別役割分業意識が強化され、専業主婦率の向上に影響をもたらした。近年では、男女共同参画社会を目指す諸政策の推進や、女性の教育水準の高まり、経済の不安定性の増大などによって、性別役割分業意識は徐々に薄れてきている。だが、女性の社会的属性によって性別役割分業意識がある程度規定される傾向があり、この問題をどう捉えていくかが男女共同参画社会の重要な争点となっている。</p>
<p><strong>家父長制</strong>・・・社会学における家父長制（patriarchalism）は、「家長である男子が家父長権によって家族員を支配・統率する家族形態」を意味するが、フェミニズムにおける家父長制（patriarchy）は、「男性が女性を支配し、年長者が年少者を支配する権力構造」を意味する。フェミニズムにおける家父長制は社会学における家父長制よりも包括的な概念であり、とりわけマルクス主義フェミニズムにおいては家父長制を可能とする物質的基盤について様々な議論が交わされている。だが、従来の家父長制研究では文化的相違に関する考慮が十分ではなかった。文化を越えた普遍的な家父長制という概念は、家父長制が見いだされる具体的な文化の脈絡でジェンダーの抑圧がどのように行われているかをうまく説明できない、また、例え具体的な文化の脈絡を考慮しても、それが普遍的な家父長制を前提とした議論である限り、最初に仮定した普遍原理の「実例」や「例証」をそこに見いだしているにすぎないという批判もある。</p>
<p><strong>ハビトゥス</strong>・・・Ｐ．ブルデューによれば、ハビトゥスとは、持続性をもち移調が可能な心的諸傾向のシステムであり、構造化する構造として、つまり実践と表象の産出・組織の原理として機能する素性をもった構造化された構造のことを指す。人々は様々な社会経験の中で、様々な意識や言説をつくりだし、その社会の中で有利に暮らせるような身体技法を身につけていく。つまり、社会構造はハビトゥスによって身体化され、さらに身体化された様々なレベルの個人の活動が社会構造を再生産していく。</p>
<h3>身体の支配</h3>
<p><strong>体育</strong>・・・身体に関連した分野では男女を意識的に区別した上で文化が構築されることが多い。特にその典型的な例が、学校教育過程で行われる「体育」の授業である。日本でも明治時代に近代的な学校制度が整備され、「体操科」が教育科目に組み込まれることとなったが、男子は「普通体操」と「兵式体操」の二本立てであったのに対し、女子は「遊技」が適当とされ、授業時間数も男女間に格差が存在した。日清戦争以降、女子教育における体育の重要性が指摘されることになったが、そのモデルは「容儀を整え、精神を快活に」（1901年「高等女学校令施行規則」）することにあった。戦後、教育機会の男女平等の推進がはかられたが、体育教育に関しては「男女の特性に応じて」という名目のもと、男女間のカリキュラムや授業時間の格差が温存された。体育科における男女の制度上の格差が撤廃されたのは1989年の学習指導要領の改訂によってである。</p>
<p>しかし制度上の格差が撤廃されても、体育に関する男女のジェンダーは根深く残っている。例えば「体力テスト」は一般にどの年齢層でも男子の値が女子の値より高く、思春期の13歳頃から男女差が拡大していく傾向にあるが、「ソフトボール投げ」「ハンドボール投げ」は男女間の成績の格差が最も大きく、６歳という極めて早期の段階から男女格差が進行している。さらに12歳を過ぎると女子の「ハンドボール投げ」にはほとんど成績の上昇が見られなくなる。この点は思春期における男女の性ホルモンの分泌の差異だけでは説明が困難であり、広く遊びやスポーツ文化の中で男女の身体構成が「社会化」されていっていることへの配慮が必要となっている。また、体育の授業における教師の働きかけについても、男子をサッカーや野球などを通じてより競争的なからだにしていこうとしているのに対し、女子をダンスなどを通じてより表現向きのからだにしていこうとしているなどの差異が存在する。現在の男女の体力格差は、そのような体育教育の差異を経て形成されたものであり、必ずしも生得的差異を忠実に反映したものとは言えない。</p>
<h3>習俗用語</h3>
<p><strong>恋愛</strong>・・・恋愛という言葉が用いられるようになったのは、明治時代になってからである。しかもその由来は輸入概念であった。当時、『女性雑誌』という雑誌の主宰者をしていた巌本善治が、英語の「love」に「恋愛」という言葉を当てはめた最初の人物であると言われている。彼は、「恋愛」とは「清く正しく」「深く魂（ソウル）より愛する」ことであり、「恋」のような「不潔の連感に富める日本通俗の文字」とは異なって、非常に崇高で価値あるものであると説いた。彼の恋愛論をきっかけとして、「恋愛」という言葉や感情・行為が広く社会に浸透していくことになった。</p>
<p><strong>主婦</strong>・・・近代の中産階級において、豊かな暮らしと余暇時間の拡大が女性を生産労働から切り離し、主婦の誕生をもたらした。主婦は、庶民階級のように共同体全体で生活役割を共有するのではなく、貴族階級のように使用人なども含めて間接的に生活役割を共有するのでもなく、家事や育児などの生活役割を家庭内で一手に引き受けて、完結させる役割を負うことになった。今日的な意味での「家族愛」や「母性愛」が唱えられるようになってきたのは、実はこの「主婦の誕生」が生じた時代と重なる。</p>
<h3>生物的性差用語</h3>
<p><strong>生物学的性差</strong>・・・雄と雌の配偶子が１セットになることで行われる生殖は有性生殖と呼ばれる。ヒトは有性生殖をする生物の一種である。有性生殖では、雄と雌によって精子と卵子という２種類の配偶子が生産される。雄によって生産される精子は、比較的小さな配偶子であり、それ自体はほとんど栄養を持たず、生産頻度は高い。雌によって生産される卵子は、比較的大きな配偶子であり、それ自体豊富な栄養を含んでおり、生産頻度は低い。</p>
<p>一般に、有性生殖をする生物においては、このような繁殖方法の差異だけではなく、形態や行動に関しても様々な性差を見せる。例えばクジャクの羽は雄は派手な飾りとなっているが、雌は地味なものとなっている。バッタの雄は鳴いて雌を呼ぶが、雌は鳴かない。このような生物学的性差には、種や個体を越えて一貫している傾向も存在する。それは、「武器」や「装飾」などの派手な形質を持っているものは雄、同性どうしで闘争を繰り広げるのは雄、鳴いたり踊ったりして求愛行動を積極的に行うのも雄、そして早死にするのも雄、などの傾向である。少数の種では、これらの形質や行動が雄と雌とで逆転しているケースもある。このような生物学的性差がなぜ存在するかを巡っては、進化生物学の見地などから様々な仮説が提起されている。</p>
<p><strong>親の投資</strong>・・・トリヴァースが提唱した概念。親の投資とは、「親が以後の繁殖機会を犠牲にして、今いる子の生存率を上げるようにする世話行動のすべて」を指す。具体的には、卵の保護や抱卵、育雛、授乳、子守りなどが含まれる。トリヴァースは、性淘汰の強度は両性間の親の投資量の差が大きいほど強く、親の投資が小さな方の性が、大きな方の性との配偶機会を巡って争うと指摘した。一般に生物界の中では、雄の方が雌よりも投資量が低いため、雄どうしの闘争が激しくなる。ヒカレシアやレンカクのように性役割が逆転した生物では、雌が雄を巡って争っている。このように「親の投資」という概念は、ダーウィンの性淘汰の理論を一歩拡張して理論化することに成功した。</p>
<p><strong>実効性比と潜在的繁殖度</strong>・・・「親の投資」をさらに一歩拡張した理論。実効性比とは、ある時点を取ったときに繁殖の準備ができている雄の数と雌の数との比を指す。潜在的繁殖速度とは、「配偶子を生産するまでに要する時間」＋「配偶に要する時間」＋「子育てに要する時間」によって決定される、両性が１回の繁殖から次の繁殖に取りかかるまでに要する潜在的な時間を指す。一般に、小さな精子を生産する雄よりも、大きな卵子を生産する雌の方が、潜在的繁殖速度は遅く、実効性比も（雄・雌がほぼ同数であった場合）雄の方が雌よりも高くなる。したがって、実効性比が高く潜在的繁殖速度が速い方の雄が、そうではない雌を巡って争うと指摘されている。</p>
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		<title>華族用語の基礎知識</title>
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		<pubDate>Fri, 15 May 2009 08:22:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>齊藤 貴義</dc:creator>
				<category><![CDATA[社会科学]]></category>
		<category><![CDATA[華族]]></category>

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		<description><![CDATA[1947年、新しく制定された日本国憲法によって、それまで国内に残存してきた旧来の身分制度は否定されました。その旧来の身分制度の１つに華族があります。華族は近代日本の特権的身分の形成史と文化史を理解するための貴重な手がかり [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>1947年、新しく制定された日本国憲法によって、それまで国内に残存してきた旧来の身分制度は否定されました。その旧来の身分制度の１つに華族があります。華族は近代日本の特権的身分の形成史と文化史を理解するための貴重な手がかりであり、さらに身分制度が否定された現行憲法下においても、一種独特な家柄や家風を今もなお維持している、いわゆる「名家」が多数残存しています。近年になって、そのような華族をブルデュー社会学や民族誌の観点から分析している研究成果が出始めています。ここではその基礎用語を概観していきたいと思っています。</p>
<h3>前提・理論用語<a name="theory"></a></h3>
<p><strong class="kyou">華族</strong>・・・ 大政奉還と明治維新によって、それまでの士農工商を基礎とした身分秩序は否定されたが、明治政府は天皇を頂点とした近代国家の建設を志向していたため、身分制度は完全に解体されることなく再編成されることになった。このうち、公家や大名家などの旧支配層が世襲制の「華族」という身分として統合されることになった。当初の華族総数は427家。うち公家が136家、大名家が248家、公家と同格が28家、大名と同格が15家であった（同格とは、位の高い一部の公家の分家・徳川諸家・付家老家など）。さらに華族令が公布される1884年までに、特定の分家・社寺住職・神職僧侶など、さらに76家が新たに加えられた。さらに、やがて国家に対して功績のあった士族や平民も勲功華族として華族の１員となることが認められるようになった。当初は少数だった勲功華族も、 1928年頃には倍増している。1947年、日本国憲法第14条によって華族制度の存在が否認された。</p>
<hr size="2" /><strong class="kyou">華族令</strong>・・・ 1884年に公布された法律。公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五段階の格付けを定め、旧支配層のほぼ全員が子爵以上の爵位を授けられた。公家華族の爵位は古くからの家格、主に先祖が就いた最高の官職が基準となった。先祖が摂政・関白を務めた五摂家はすべて公爵、太政大臣を務めた精華家は侯爵、左大臣・右大臣を務めた大臣家や大納言の位の中流の公家は伯爵、その他の公家は子爵となった。大名華族の爵位は主に石高によって定められ、15万石以上の大藩は侯爵、 5万石以上の中藩は伯爵、それ未満の小藩は子爵となった。徳川家だけは例外で、家格により本家は公爵、御三家は侯爵、御三卿は伯爵となった。</p>
<h3>華族の教育制度</h3>
<p><strong class="kyou">学習院</strong>・・・ 1847年、仁徳天皇が京都御所内に公家のための学習所を設けた。この学習所は幾度かの再編成を経て、1876年に東京で「華族学校」という校名で正式に発足した。華族学校は皇室から与えられた土地に建てられ、華族会館が設立を支援した。さらにその翌年には、明治天皇や皇后の親臨のもとで開校式が行われた際、「学習院」と改名された。</p>
<p>学習院は文部省ではなく宮内省が管轄した。華族の子弟は原則として無償で学習院に入ることができた。平民は当初はごく限られた人数しか受け入れられず、授業料は有償であり、幼稚園や高等科への入学は禁止された。これらの差別的待遇は、1924年の制度改革まで継続し、1924年以降も授業料の金額格差・平民の幼稚園への入学禁止などのかたちをとってしばらく存続した。第二次世界大戦後、新憲法によって華族などの身分制度が否定され、宮内省の後ろ盾も失った学習院は、私立学校として再出発した。</p>
<p>タキエ・スギヤマの調査では、戦前の華 族の情報提供者のうち、71％が学習院で教育を受けていた。帝国大学の入学者が徐々に平民出身者で占められていく中で、学習院は華族階級を中心とした一定の閉鎖性とエリート教育を維持してきた。これにより華族階級は、学習院での教育を通じて、ある程度同質な文化を形成することとなった。</p>
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		<title>新聞社の報道姿勢</title>
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		<pubDate>Thu, 14 May 2009 15:30:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>齊藤 貴義</dc:creator>
				<category><![CDATA[社会科学]]></category>
		<category><![CDATA[マスコミ]]></category>
		<category><![CDATA[新聞]]></category>

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		<description><![CDATA[新聞社は報道機関であると同時に、言論機関でもあり、営利企業でもあります。したがって各社とも他社との差別化をはかり、できるだけ多くの固定読者層を獲得しようとします。このため、各社の報道姿勢や言論内容は表向きは公正中立である [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img class="alignright size-full wp-image-328" title="yomi" src="http://www.mirai-city.org/wp-content/uploads/2009/05/yomi.jpg" alt="yomi" width="150" height="166" />新聞社は報道機関であると同時に、言論機関でもあり、営利企業でもあります。したがって各社とも他社との差別化をはかり、できるだけ多くの固定読者層を獲得しようとします。このため、各社の報道姿勢や言論内容は表向きは公正中立であると言われますが、実際にはそれぞれの新聞社ごとに独自の色がつくことになり ます。</p>
<p><strong>読売新聞</strong>は、スポーツ面で自社がスポンサーとなっている野球チームの読売巨人軍について大きく取り扱ったり、カラーを活用して文字の大きい紙面構成にしたり、読者の興味を引きそうな記事は大きな写真入りで掲載するなど、興行的な手法も多用しています。言論においては、過去に「読売新聞憲法改正試案」 という読売独自の憲法改正案を発表、社会へ向けて改憲の必要性を強くアピールしました。通常の特集の中でも、自衛隊の法制面・装備面の問題を指摘した記事を多数掲載し、危機管理や国際貢献に自衛隊を活用することに前向きな姿勢の社説も展開しています。読売新聞の渡辺恒雄会長が中曽根元総理のブレーンだったこともあり、社説も自民党の保守本流の意見に近い論調が多く、この姿勢が時として「政府寄り」「政府の広報紙」と批判されることがあります。</p>
<p>一方の<strong>朝日新聞</strong>は、 戦前は最も国家主義的な論調の新聞でありながらも、戦後は護憲と反権力の論陣を張ってきました。非軍事・住民自治・戦争責任・基地問題・社会福祉・環境問題などを扱った特集を多く掲載し、国際的な危機が発生した場合には、軍事による解決よりも対話と協調を唱える社説を展開しています。特集や解説も、他紙と比較して理念的で専門性が高い傾向にあります。このような報道姿勢は、主にインテリ層（朝日は他紙と比較して高学歴層・高収入層の購読率が高いと言われています）や革新層などの固定読者層の獲得につながっている一方で、視点が一面的であり中立性を欠くとする批判があります。</p>
<p><strong>毎日新聞</strong>は全国紙の中では比較的リベラルですが、固定読者層の対象を絞り込めていないため部数が低迷しています。このため、紙面の大幅な刷新と署名記事の増加によって記事の読みやすさ・信頼性に力を入れています。<strong>産経新聞</strong>も 「新しい歴史教科書をつくる会」の一つの活動拠点となり、さらに国際情勢（とりわけ中国や北朝鮮の脅威）に対応するための自衛隊の増強を主張するなど保守層にターゲットを絞った報道姿勢をとっています。夕刊の廃止も決定してニュース解説に力を入れていく姿勢を打ち出しています。</p>
<p>このように全国紙だけ見ても各新聞はそれぞれ独自の報道姿勢を持ち、言論活動を行っていますが、その一方で「これらの新聞報道は単に同一の情報源を各社独自に&#8221; 脚色&#8221;しただけであり、日本の新聞社の取材体制は画一的だ」とする批判もあります。このような批判は、新聞社の「記者クラブ体質」の問題に依拠しています。</p>
<h3>記者クラブと番記者</h3>
<p>記者クラブとは、名目上、政府機関、地方自治体、各界団体、大企業などのニュース・ソースに出入りする取材記者が、相互の親睦のためにその内部に自発的に結成された会、ということになっています。しかし実際には、取材記者が情報源に接するための前線基地として機能しており、日本の報道活動の上で重要な機能を担っています。全国に400以上ある大小の記者クラブでは、膨大な発表内容の処理が共同で行われ、記者同士の情報の共有や記者会見の主催なども行われます。一般に記者クラブに加入できるのは、日本新聞協会か民間放送連盟に加盟している会社がほとんどで、記者クラブ室や共同記者会見へは関係者以外の出入りが厳しく制限されています。定例記者会見へ外国人プレスやフリージャーナリストなどにも参加を認めているクラブはごくわずかです。</p>
<p>記者クラブは「内輪の仲間」という意識が強く、情報の安定供給も目的としているため、加盟社のどこかが他社を出し抜いて報道することを極端に嫌います。このため記者クラブは特定の社の出し抜きに対して、クラブからの除名などの制裁措置を取ることがあります。さらに、共同で情報源（情報提供者）と接触するため、仲間うちの連帯意識の中で「記事にできる情報」と「記事にできない情報」の分類が成立することになります。したがって、記者クラブ体制の元では取材競争は抑制され、画一的な情報源を各社が自社のスタンスに見合うように脚色しただけの記事が新聞に掲載される傾向が強くなります。</p>
<p>この記者クラブと対照的な役割を担っているのが、「番記者」の存在です。番記者とは、特定の政治家・派閥・政党の周囲に四六時中張り付いて、その動静を切れ目なく追う記者のことで す。番記者は基本的に個人単位で行動し、いかにして大物政治家から重要な情報を引き出すかに腐心します。しかし、この番記者にも弱点があります。日本の政治は欧米と比較して密室性が高く、表にならないところで様々な取引が行われます。このような環境の中で他社を差し置いて有力な情報を得るには、政治家といかに関係していくかが重要になってきます。したがって、政治家に近い位置にある番記者は重要な情報を得ることができますが、それゆえに「記事として書けないこと」も出てきてしまいます。</p>
<p>特に自民党においては、派閥の領袖の動向が政策過程や権力過程に大きな影響を与えているため、各新聞社は派閥の構造に合わせて番記者を配置しました。やがて新聞社内でも、政権派閥（自民党主流派）を担当する番記者が「花形」とされ、社内の政治部における出世にも関係してくるようになりました。大手新聞各社の政治部長は、その多くが自民党の主要派閥の番記者から、自民党担当のキャップ、政党担当のデスクを経ていました。政治部の記者教育において、特定の政治家に食い込んでいくことが重視されていたわけです。</p>
<p>このような体制は、記者と政治家との癒着を生むことになりました。特に55年体制下では、派閥の番記者が担当派閥の利益のために、政界工作の一翼を担った場面もあったようです。また、番記者の中から国会議員へ転身し、担当していた派閥に所属するようなケースも見られました。政治家側も番記者を積極的に利用しようとしました。懇談などは気に入った番記者以外には応じないなどして、記者の系列化を生むことになりました。このような番記者のあり方を巡って、新聞社内でも制度改革の動きが試みられましたが、有力な情報を握る政治家と個人的関係を持つことのメリットは捨てがたく、失敗に終わっています。</p>
<h3>渡辺恒雄氏と政治<a name="seiji"></a></h3>
<p>このような新聞記者と政治家との「個人的つながり」は、様々な記者経験者の証言や著作からもうかがい知ることができます。その中でも特に、現在、読売新聞会長と日本新聞協会会長の職に就いている渡辺恒雄氏は、自らの回顧録の中で、政治部記者時代の政治家とのつながりを詳細に語っています。</p>
<p>例 えば1960年に起きた「樺美智子さん事件」において、政治部記者であった渡辺氏は、自らが政府声明の文章を執筆した事実を認めています。（樺美智子さん 事件・・・1960年６月、日米安全保障条約反対を叫ぶ全学連の学生達が国会内に突入。警官隊との激しい衝突の中で、デモに参加していた東京大学の学生だった樺美智子さんが圧死した事件）</p>
<blockquote><p><span style="color: #660000;"> −他にこの安保騒乱で憶えていることはありますか。</span><br />
<span style="color: #000099;"><strong>渡辺</strong> 騒乱のほうはないな。ただ政府声明を書いたよ。</span><br />
<span style="color: #660000;"> −政府声明をですか？</span><br />
<span style="color: #000099;"><strong>渡辺</strong> そうです。六月十五日に樺美智子さんが亡くなったでしょう。そのとき内閣が声明を出すんだけど、僕が書いたんだよ。</span>（略）<span style="color: #000099;">僕に「書いてくれ」と言うんだよ。だから首相官邸裏の官房長官官舎で、僕は政府声明を書きましたよ。そしてその原稿が閣議にかかる。結局、一行を除いて全文そのまま政府声明として、発表されることになるんだ。</span><br />
（渡辺恒雄『<strong>渡辺恒雄回顧録</strong>』中央公論新社）</p></blockquote>
<p>さ らに渡辺氏は、「盟友」と呼ぶほど親しい関係にある中曽根康弘首相（当時）に対し、「死んだふり解散」につながる提案書（建白書）を手渡し、その後の党則改正問題についても中曽根氏の代理として後藤田氏に相談に行ったことについても回顧録で語っています。（死んだふり解散・・・1986年、野党に対して 「解散しない」と公言して「死んだふり」をしていた中曽根康弘首相が、衆議院の定数是正が実現すると直ちに衆議院を解散。初の衆参同日選挙が実施され、自民党が空前の大勝利を収めた）</p>
<blockquote><p><span style="color: #000099;"><strong>渡辺</strong> （略）こうして僕は、調べつくした建白書を中曽根さんに持っていって、「死んだふり、寝たふりしなきゃダメですよ」と言ったんだ。</span><br />
<span style="color: #660000;"> −それはいつごろから調べ、いつ渡したのですか？</span><br />
<span style="color: #000099;"><strong>渡辺</strong> もちろん、解散の一ヶ月以上前ですよ。もっと前だったかな。</span><br />
<span style="color: #660000;"> −結局、六月二日、中曽根首相は臨時国会を召集して即日解散しますが、噂はされていたものの、よく話が漏れませんでしたね。</span><br />
<span style="color: #000099;"><strong>渡辺</strong> そうだよ。僕がいちばん危惧したのは、中曽根さんが漏らすこと。しゃべったら即おしまいだよ。側近にでもおしまいだからね。でもあのとき中曽根さんはよく死んだふりをしたと思うね。芸術的に死んだふりをしたよ。（笑）</span><br />
（略）<br />
<span style="color: #660000;"> −結局、「死んだふり解散」は、衆議院で追加公認を入れれば三○四議席と自民党に大勝利をもたらしますね。そして中曽根総裁任期延長の話が出てきます。このあたりはどうご覧になっていましたか。</span><br />
<span style="color: #000099;"><strong>渡辺</strong> 大勝した後、すぐ辞めるというのはおかしいからね。しかし通常二年という任期が党則改正で一年にされてしまう。中曽根さんはこれを嫌がって、「二年やらなくて一年でいいから、形式上は任期を二年延長しておいてほしい」と僕に言うんだ。それで僕に、「後藤田さんに会って相談してくれ」と言う。後藤田さんのところへ、僕は行きましたよ。ところが行ったら怒鳴られるんだ。「この大勝を背景にして、もう驕りが出たのか」と言われてね。とにかく「それは驕りだ、一年だ。二年に延長なんてとんでもない」と言われたよ。</span><br />
（渡辺恒雄『<strong>渡辺恒雄回顧録</strong>』中央公論新社）</p></blockquote>
<h3>テレビの台頭<a name="tv"></a></h3>
<p>このような記者クラブ・番記者を中心とした閉鎖的な情報収集体制も、今日では大きな転機を迎えています。その一つのきっかけをつくったのがテレビの台頭で す。テレビは新聞に比べて後発のメディアであり、（提携している新聞社の強い影響下にありながらも）記者クラブや番記者のしがらみからは比較的自由な状態 にありました。また、当初はテレビの報道番組がそれほどビジネスにならなかったので、テレビ局の政治部の規模は小さく、新聞社の半分程度の人数で動いてき ました。人数的な制約によって、テレビ局は新聞社のように各派閥に番記者を張り付けることができず、派閥の政界工作に深く関与する機会も少なかったようで す。</p>
<p>そして、1985年からテレビ朝日で放送が開始された「ニュース・ステーション」が今までの報道番組の概念を塗り替えることにな ります。「ニュース・ステーション」は報道局が制作していますが、バラエティー番組の製作会社であったオファイス・トゥー・ワンの支援を受け、同社の下でバラエティー番組の司会を務めていた久米宏をメインキャスターとして起用しました。キャスターの話術に加え、現場からのレポート、地図や模型を使った解説、専門家のゲストによる解説などを多用して高視聴率を維持、報道番組もビジネスとして成立することを証明しました。その後、筑紫哲也をメインキャスター とする「ニュース２３」、ワイドショーを担当するテレビ朝日の社会情報局がワイドショーと同じ感覚で当事者の生の声を伝える「サンデープロジェクト」なども放送が開始され、報道番組も視聴率競争の時代へと突入しました。</p>
<p>視聴者はテレビを通じて政治家の生の発言を聞くことができ、さらに 新聞社の番記者が隆盛であった時代には表に出られなかった若手議員が歯切れの良い議論を展開します。言外に様々なことを匂わせつつ問題への明言を避ける派閥領袖との違いを見せつけました。政治家の中にもテレビの存在を前提として、それを積極的に活用しようとする人々が現れます。このようにして、徐々にテレビは報道メディアとしての重要性を確立していき、番記者を中心とした「取材」と「報道」の二面性（取材では政治家と接近し、報道は各社独自の色づけをする）に対抗する勢力となってきました。</p>
<p>このようなテレビの役割を特に印象づけたのが、宮澤内閣不信任から自民党の一時野党転落へと移る一連の動きです。番記者の反対を押し切って行われた「総理と語る」というテレビ番組において、田原総一郎が政治改革を巡る姿勢について質問したのに対し、宮澤総理は「私は嘘をつかない」と発言。この発言が自民党の分裂に大きく影響することになります。さらに、その後の宮澤内閣不信任案の可決と、総選挙では、テレビは公正中立を主張しながらも実際は「非自民政権誕生に向けて報道した」（椿貞良：テレビ朝日取締役報道局長）という当事者の発言があり、このことが選挙の結果に大きな影響をもたらしたと言われています。一方、新聞社の方は番記者の制度に縛られ、自民党の分裂へと向かう若手を中心とした一連の動きを必ずしも充分には捕捉できずにいました。</p>
<p>さらに2000年には、森内閣の低支持率に対して、加藤派の加藤紘一議員が野党の内閣不信任案に同調する姿勢を表明、いわゆる「加藤の乱」が起きますが、ここでもテレビは重要な役割を果たしています。「サンデープロジェクト」に生出演した加藤紘一と野中広務幹事長に、司会の田原氏が総裁選についての質問を投げかけ、詰め寄られた野中氏が「加藤氏が不信任案に賛成せず、補正予算案をはじめとする重要法案を通したら、代わりに総裁選を前倒してもいい」と取れる発言をします。この発言によって、森内閣の早期退陣を求めていた加藤氏の主張は腰砕けの格好となり、加藤氏は不信任案への同調を取りやめることになります。</p>
<p>さらに、小泉内閣の誕生にもテレビは大きな影響を果たしました。 小泉内閣の「応援団長」である田中真紀子氏は、テレビへの出演機会が多く（新聞では登場機会が限られていました）、テレビで自民党執行部を激しく攻撃する発言によって人気を高めた政治家です。その田中真紀子氏と、同じくテレビを中心に郵政三事業の民営化を唱え続けてきた小泉氏が向かう場所には、必ず大きな人だかりができました。さらに、その模様が映像として繰り返し報道され、小泉・真紀子ブームは一種の社会現象にまで発展しました。圧倒的な人気で自民党の総裁に選出された小泉総理は、閣僚としてテレビなどで国民の人気も高い石原伸晃氏や竹中平蔵氏の起用を決定しています。</p>
<p>このようにテレビは、今や政局にまで大きく影響するようになり、派閥の番記者による報道機能はそのあり方の変更を迫られています。しかし、一方でテレビは時間的・内容的制約によって単純な善悪二元論に陥りやすいという欠点を持ち、メインキャスターのコメントによってニュースの評価が一面的になりがちであるという問題点もあります。また、現実には派閥や政党間のやり取りが存在していても、テレビでそれを巧妙に演出することによって人々の支持を獲得することが可能となる、 という危険性も指摘されています。新聞はそのような環境を是正していくメディアとして再注目されていますが、現在はまだその過渡期にあると言えます。</p>
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		<title>テーマパークの社会学</title>
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		<pubDate>Wed, 13 May 2009 12:23:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator>齊藤 貴義</dc:creator>
				<category><![CDATA[社会科学]]></category>
		<category><![CDATA[テーマパーク]]></category>

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		<description><![CDATA[東京ディズニーランドを管理するマニュアル 日本を代表するテーマパークの一つ、東京ディズニーランド。毎年1,700万を越える人々が来園し、数多くのアトラクションを楽しんだり、ミッキーマウスなど愉快な仲間達のパレードを観覧し [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>東京ディズニーランドを管理するマニュアル</h3>
<p>日本を代表するテーマパークの一つ、東京ディズニーランド。毎年1,700万を越える人々が来園し、数多くのアトラクションを楽しんだり、ミッキーマウスなど愉快な仲間達のパレードを観覧したり、ディズニーの世界観を持ち込んだショッピングモールで買い物をしたりします。ディズニーランドの強みは97%とも言われる驚異的なリピーター率です。一度来園した人に大きな満足を与え、さらにもう一度来たいと思わせる。このような顧客の満足感を支えたのは、アトラクションの内容もさることながら、高度なマニュアルに基づく徹底した従業員教育であったのではないかと指摘されています。</p>
<p>1983年の開園以来、ディズニーランドは本家アメリカのディズニーワールドを手本として、従業員の職種別に300冊以上のマニュアルを作成しました。膨大な量のマニュアルに基づいた運営ではマクドナルドも有名ですが、「こういう時にはこうしなさい」という風に細部まで行動手順があらかじめ決定されているマクドナルドに対して、ディズニーランドのマニュアルは「こういう時にはどういう風に考えるべきか」という行為規範を中心に書かれてあるようです。当然ながらマニュアルは公開されていないため、断片的な情報しかないのですが、例えば次のようなものがあるそうです。</p>
<blockquote><p>    チケットブース（入場券販売）</p>
<p>    目的　：あなたの仕事はチケットを売ることではありません。東京ディズニーランドへおいでになったゲストと最初にコミュニケーションをとることです。<br />
    形　　：目と目を合せて<br />
    　　　　ニッコリ笑って<br />
    　　　　ひとこと声をかける<br />
    注意　：「いらっしゃいませ」とはいわないで下さい。例えば、「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」。なぜ「いらっしゃいませ」ではいけないのか。それは日本では「いらっしゃいませ」には誰も返事をしない習慣（デパート、銀行その他）になってしまっている。ゲストから返事をいただいてはじめてコミュニケーションがとれたことになるのだから。<br />
    （http://www.d1.dion.ne.jp/~masehts/mahts/kou9606.html）</p></blockquote>
<blockquote><p>ディズニーランドが、「転んだ子供は立ったまま抱き上げず、しゃがんで目線を合わせて抱きなさい」という行動様式を逐一示したアメリカの300冊を超すマニュアルとともに開園したのが83年。<br />
    （『ＡＥＲＡ』（朝日新聞社）2002年4月8日号　「脱マニュアルが勝負の決め手」）</p></blockquote>
<p>このようなマニュアルに従って行動するため、ディズニーランドの従業員はいつも親切です。運悪く愛想の悪い従業員に当たったりすることはないし、不測の事態が起きても顧客優先で行動してくれます。日常生活で起きるような人間関係のトラブルも起きず、人間の嫌な面を見ることもあまりありません。園内は清掃が行き届き、あらゆる配置が訪れた者を楽しませるために合理的に工夫されています。親切な従業員に案内されたアトラクションの多くがハラハラドキドキの冒険の世界が待っていて、最後はハッピーエンドか満足のいく結末で終了します。アトラクションの中での冒険が失敗することはありません。決まった時刻になるとパレードが始まり、ディズニーアニメの仲間達が愛想良く訪れた人達に手を振ってくれます。</p>
<p>社会の様々な部門がマクドナルド化していることを指摘した社会学者ジョージ・リッツァ（詳しくはファーストフードのページ参照）も、ディズニーワールドの観察を通じて、ディズニーワールドにはマクドナルドによく似た（そして様々な社会の中で進行するマクドナルド化によく似た）特徴を有していることに注目しています。それは、効率性、計算可能性、予測可能性、制御です。</p>
<blockquote><p>ディズニーワールド（代表的なディズニーのテーマパークを取り上げる）は、多くの点で効率的である。とくに、多くの人びとをてきぱきと処理する方法では、あまり合理化されていない他のテーマパークをまったく圧倒している。１日入場券、あるいは週間入場券によるセット価格は、あるアトラクションの予想待ち時間を示す、多すぎるほどの標識と同じく、その計算可能性を証明している。ディズニーワールドはきわめて予測可能性が高い。客を「だます」ような「詐欺師」は存在しない。従業員のなかではチームが組まれていて、日常の清掃業務の一環として、夜のパレードの後について、ゴミ−動物の落とし物も−を拾い集めている。そのために、客は、うっかり落とし物を踏んで不愉快な驚きを経験することもない。ディズニーのテーマパークは、確実に客が１つも驚きを経験することのないように懸命になっている。その上、ディズニーワールドでは、人間によらない技術体系が人間の技能に勝利を収めている。これは、多数の機械や電気によって動くアトラクションだけではなく、パフォーマンス（たとえば口パクによって）や仕事（マニュアルに従うことによって）が、人間によらない技術体系に管理されている人間の従業員にもあてはまる。<br />
    （ジョージ・リッツァ『マクドナルド化の社会』早稲田大学出版会）</p></blockquote>
<p>ディズニーランドはディズニーアニメを中心にメルヘンの世界を構築しています。しかし、その運営方法や顧客管理には極めて近代的な手法が使われています。すべてが予測の範囲、マクドナルドと同じく満足へと至る過程が計算可能であり予測可能であるわけです。そして私達がそのような環境を選好するようになってきていることもうかがい知ることができます。</p>
<h3>テーマパークとオウム真理教</h3>
<p>1995 年３月、東京の営団地下鉄で毒ガスを使ったテロ事件が発生し、5,500人もの被害者が出ました。このテロを起こしたのは新興宗教「オウム真理教」（現・アレフ）の教団メンバーであることが明らかとなり、警察は上九一色村の教団施設「サティアン」に対して強制捜査に踏み切りました。それまでもマスコミを通じて断片的な情報は入っていたとはいえ、強制捜査以降に明らかになったサティアンの全貌は世間に強い衝撃を与えました。無機質で極めて不衛生な無数の小部屋とそこに数多く貼られた教祖・麻原彰晃の写真、サティアンへの毒ガス攻撃に備えた巨大空調設備「コスモクリーナー」、世界最終戦争に備えた化学工場、そしてその中で「ヘッドギア」を頭につけて一心不乱に修行に没頭する信者達・・・。サティアンの光景を見て「虚構性」や「異質性」を感じた人達も少なくなかったと思います。</p>
<p>しかし、社会学者の中には、オウム真理教と私達の社会は「合わせ鏡」のような関係になっており、私達がオウムに対して抱いた虚構性や異質性は私達の社会の中にも内在していると指摘している人もいます。例えば大澤真幸は『虚構の時代の果て　オウムと世界最終戦争』（筑摩書房）という著書の中で次のように述べています。</p>
<blockquote><p>1970年代−とりわけその後半−以降の虚構の時代とは、情報化され記号化された疑似現実（虚構）を構成し、差異化し、豊穣化し、さらに維持することへと、人々の行為が方向づけられているような段階である。「情報社会」、「脱産業社会」、「消費社会」等々と名付けられ、いくぶんニュアンスを違えながらさまざまな角度から分析されてきたのが、虚構の時代の下にある社会であった。</p>
<p>虚構の時代の黄金期は、1980年代である。虚構の時代は、見田宗介が指摘するように、たとえば「（東京）ディズニーランド」（1983年開園）によって象徴されよう。ディズニーランドは、慎重な配慮によって−たとえば入場者が自然に使用してしまう視線の配備を巧妙に計算に入れることで−外部の現実を徹底して排除しており、このことによって虚構の（幻想の）空間として自律している。ディズニーランドの興行的な成功は、日本社会が虚構の時代のただ中にあったことを示している。</p></blockquote>
<p>さらに、同じく社会学者の吉見俊哉も次のように指摘しています。</p>
<blockquote><p>現実とは、地域の人々との日常的なつきあいの中から発生してくるものではなかった。（中略）ディズニーランドが外部の現実に対して徹底的に閉じた自己完結的な空間であるのと同じように、波野村や上九一色村の教団施設からは、彼らの「解脱」や「救済」の物語と矛盾する外部の易化的な現実が入り込む可能性が最大限排除され、自己完結的なリアリティの整合性が保たれていったように見える。</p></blockquote>
<p>サティアンと東京ディズニーランドの共通する傾向は、以下のように整理されるのではないでしょうか。</p>
<blockquote><p>    １．人間が人工的につくった虚構空間である<br />
    ２．施設の中では外部（日常空間）の要素は徹底的に排除され自己完結性を持っている<br />
    ３．ほぼ同時期に設立され（オウムの起源は1984年、ディズニーランドの開園は1983年）拡大の一途をたどった<br />
    ４．これらの虚構空間は実態としては教義・科学技術・マニュアル・ルール・システムなどに高度に制御されて運営されているが、空間内にいる人々がそのことに違和感や不都合を感じることは少ない<br />
    ５．むしろ虚構空間に自分の理想の楽園を志向している<br />
    ６．虚構空間に対する日常からの直接の批判を観念的に寄せつけない（例えばディズニーランドを「しょせんは作り物」「商売」と言うと「夢がない」「発想が貧困」というまなざしで見られる）</p></blockquote>
<p>もちろん、サティアンに集うオウム信者と、東京ディズニーランドに集う人々とを完全に同列に比較することはできません。またその空間の位相も大きく異なります（最大の違いは、東京ディズニーランドには１日の中に「時間的な終わり」があることでしょう）。しかし、ここで最も注目すべきは、「虚構の空間」がオウム信者においても私達の社会にとっても近年になって「強く要請されるようになった」ということです。さらにその要請された虚構世界は、日常世界よりもはるかに計算可能性や予測可能性に満ちた「制御された世界」であるのに、人々が自ら進んでそこに積極的な意味を見いだそうとしていることです。</p>
<p>今までのオウム事件分析では、オウム真理教信者の世界観におけるリアリティの欠如の要因として、専ら受験勉強やテレビゲーム・アニメなどが挙げられてきました。しかしそれだけでは、私達が虚構の世界を現実空間に再構築していることの分析を見落とすことになります。私達はなぜテーマパークを強く要請するようになったのか、その点についても含めて考えていくことが、リアリティが欠如した社会を分析していくカギとなるのではないでしょうか。</p>
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		<title>出版とは何か</title>
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		<pubDate>Wed, 13 May 2009 10:02:59 +0000</pubDate>
		<dc:creator>齊藤 貴義</dc:creator>
				<category><![CDATA[社会科学]]></category>
		<category><![CDATA[出版]]></category>

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		<description><![CDATA[日本は年間に約五万冊もの新刊書籍が発行される世界有数の出版大国です。出版社は、活字を通じて情報を伝え、文化を形成する役目を担っています。現在、この国の出版社の数は４千社を越え、多彩な出版活動を展開しています。 しかし、電 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>日本は年間に約五万冊もの新刊書籍が発行される世界有数の出版大国です。出版社は、活字を通じて情報を伝え、文化を形成する役目を担っています。現在、この国の出版社の数は４千社を越え、多彩な出版活動を展開しています。 しかし、電子メディアの出現、大手古本チェーンの台頭、再販売価格維持制度の見直し、書籍や雑誌の「使い捨て」傾向の強まりなどによって、出版業界は大きな変革の時期を迎えています。</p>
<h3>出版とは何か</h3>
<p>「出版」は狭義と広義の定義が可能です。狭義には、書籍あるいは雑誌を生産し流通する過程を指します。言い換えれば、書籍あるいは雑誌の企画を立て、原稿を入手し、印刷・製本手段によって複製し、出来上がったコピーを流通機構を通じて読者に届けるという、出版者の担当する機能を意味しています。これに対して広義の出版は、狭義の出版過程によって生み出され伝達された書籍・雑誌を整理・保管・提供する図書館業務、読者の読書行為、さらには読者の反応を受けての著者の再生産活動までを含めて、情報・知識の全流通過程を意味して用いられます。後者の定義は私達にとってあまりなじみ深いものではないかもしれません。しかし、歴史的な過程の中での出版文化の形成を追っていく際や、発展途上国等における図書開発を分析していく際には、広義の出版概念の活用が不可欠となります。</p>
<p>出版の歴史は古く、活字を通じた印刷方法のみに焦点を絞っても、その起源は木版印刷を発明した宋代の中国や銅活字を発明した高麗時代の朝鮮にまでさかのぼります。さらに、人間の手を使って書物を印刷する「写本」の技術は活字よりもはるか以前から世界中の様々な地域で（植物繊維を原料に製造した「紙」というハードウェアに限定されず）極めて多様な発展をみせていました。</p>
<p>しかし、出版はある時点を境にユーラシア大陸の西方で急速な拡大と普及を遂げ、近代国家を形成し維持していく大きな原動力となりました。出版は社会の産業化や教育化、再統合に寄与する一方、社会を批評する空間をも大量に生み出すことになります。それは日本においても例外ではありません。日本では江戸時代から「出板」という言葉が草双紙・錦絵・暦などの不定期刊行物に対して使われはじめていましたが、明治20年になると政府が初めて「凡ソ機械舎密其他何等ノ方法ヲ以テスルヲ問ハス文書図画ヲ印刷シテ之ヲ発売頒布スルヲ出版ト云」として「出版の定義」を打ち出し、出版活動を統制していく姿勢を明確にしています。出版の歴史を知るということは、近代を知るための一つの手がかりを探す行為でもあり、私達の社会の存立構造を内側からみる行為でもあります。 </p>
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		<title>伊藤博文の憲法演説</title>
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		<pubDate>Wed, 13 May 2009 09:34:59 +0000</pubDate>
		<dc:creator>齊藤 貴義</dc:creator>
				<category><![CDATA[社会科学]]></category>
		<category><![CDATA[憲法]]></category>

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		<description><![CDATA[伊藤博文、特に一般にあまり知られていない「大日本帝国憲法に関する伊藤博文の演説」を中心に情報を集積しています。この情報を集積することによって、大日本帝国憲法の歴史的性質についての認識がより多面的になるのではないか、と思っ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>伊藤博文、特に一般にあまり知られていない「大日本帝国憲法に関する伊藤博文の演説」を中心に情報を集積しています。この情報を集積することによって、大日本帝国憲法の歴史的性質についての認識がより多面的になるのではないか、と思っています。文明開化冷めあがらぬ頃の政治家は、憲法政治をどのように認識していたのでしょうか。</p>
<h3>枢密院会議筆録　　京都での憲法演説</h3>
<p>憲法草案枢密院会議筆記 第一審会議第一読会における伊藤博文枢密院議長の演説（明治21年６月18日）</p>
<p>各位、今日より憲法の第一読会を開くべし。就ては注意の為め開会に先ち、此原案を起草したる大意を陳述せんとす。但し此原案の逐条に渉ては今日素より一々之を弁明すべきにあらず。</p>
<p>憲法政治は東洋諸国に於て曽て歴史に微証すべきものなき所にして、之を我日本に施行するは事全く新創たるを免れず。故に実施の後、其結果国家の為に有益なるか、或いは反対に出づるか、予め期すべからず。</p>
<p>然りと雖、二十年前既に封建政治を廃し各国と交通を開きたる以上は、其結果として国家の進歩を謀るに此れを捨てて他に経理の良途なきを奈何せん。夫れ他に経理の良途なし、而して未だ効果を将来に期すべからず。</p>
<p>然れば則ち宜く其始に於て最も戒慎を加はへ、以て克く其終あるを希望せざるべからざるなり。已に各位の暁知せらるる如く、欧洲に於ては当世紀に及んで憲法政治を行わざるものあらずと雖、是れ即ち歴史上の沿革に成立するものにして、其萌芽遠く往昔に発せざるはなし。反之我国に在ては事全く新面目に属す。</p>
<p>故に今憲法を制定せらるるに方ては、先ず我国の機軸を求め我国の機軸は何なりやと云ふ事を確定せざるべからず。機軸なくして政治を人民の妄議に任す時は、政其統紀を失ひ、国家亦随て廃亡す。苟も国家が国家として生存し、人民統治せんとせば、宜く深く慮つて以て統治の効用を失はざにん事を期すべきなり。</p>
<p>抑欧洲に於ては憲法政治の萌芽せる事千余年、独り人民の此制度に習熟せるのみならず、又た宗教なる者ありて之が機軸を為し、深く人心に浸潤して人心之に帰一せり。然るに我国に在ては宗教なる者其力微弱にして、一も国家の機軸たるべきものなし。</p>
<p>佛教は一たび隆盛の勢いを張り上下の人心を繋ぎたるも、今日に至ては已に衰替に傾きたり。神道は祖宗の遺訓に基き之を祖述すとは雖、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し。我国に在て機軸とすべきは独り皇室にあるのみ。</p>
<p>是を以て此憲法草案に於ては専ら意を此点に用い、君権を尊重して成る可く之を束縛せざらんことを勉めたり。或は君権甚だ強大なるときは濫用の慮なきにあらずと云ふものあり。一応其理なきにあらずと雖も、若し果して之あるときは宰相其責に任ずべし。</p>
<p>或は其他其濫用を防ぐの道なきにあらず。徒に濫用を恐れて君権の区域を狭縮せんとするが如きは、道理なきの説と説と云はざるべからず。乃ち此草案に於ては君権を機軸とし、偏りに之を毀損せざらんことを期し、敢て彼の欧洲の主権分割の精神に拠らず。</p>
<p>固より欧洲数国の制度に於て君権民権共同すると其揆を異にせり。是れ起案の大綱とす。其詳細に亘りては各案項につき就き弁明すべし。</p>
<h3>伊藤博文の憲法演説<br />
京都府会議員に対して（明治22年３月25日）</h3>
<p>憲法既に発布せられ、明二十三年を期して議会を開設せられんとするに当ては、余は先づ議会開設の効用に就き其大要を開陳せんとす。余は本論に入るに先ち、抑国家は何を以て其目的とせざるべからざるかの学理より立論せざるを得ず。</p>
<p>既に諸君の熟知せらるる如く、国家の目的と云ふの解義に付ては古今欧洲学者の説区々に渉りて未だ帰一を見ざるを以て、茲に喋々するの要なきに似たりと雖も、既に国家の目的と云ふに至ては憲法政治に関要最も重きに居るを以て、少しく之を論述するも亦敢て無益の業にあらざるべきを信ず。</p>
<p>抑々国家の目的と云ふの解義に付、欧洲学者の唱道する所二様あり。一は国家の目的は其国の彊域内に在る各個人の権利を保護し、以て専ら其身体財産を保全するに在りとする説なり、他の一は国家の目的は社会に存生する万般の事物を規定し、専ら社会の安寧幸福を保持するに在りとする説なり。</p>
<p>如此一は各個人を以て機軸と為し、各個的を旨とする偏理の説にして、一は国家を以て標準と為し、社会的を専らとする極端の論たることを免れず。是等の説を包持する者は、古の希腦の「アリストートル」「プラトー」「ヘーゲル」「カント」及「ホンボルー」「シユルチエー」「ミル」等にして、古来未だ満足すべきの定説あらずと雖も、余は唯だ其両説の存するを述るのみ。</p>
<p>而して各個人を以て機軸とするの説は、一個人の権利自由を尊重するに傾き、国家を以て標準とするの説は、国家全体の利害にのみ注目するより、両者各々極端に馳せて、其間云ふ可らざる弊害あり。故に必ずや一個人と国家との幸福を併進するを以て目的とせざる可らずとするの中庸説あり、是近世学者の専ら唱道する所たり。</p>
<p>往昔専ら国家を以て目的とし、各個人の権利を度外に措きたる時代に在ては、国家の安全を保維する為には人民の利益は其犠牲となり、又何等の程度に迄之を減滅せらるるも絶て怪まざりき。当時に在ては人民の権利は安固ならず、其自由も亦甚き制限ありて完全に幸福を享受し得ざりしなり。</p>
<p>為に国家の権力は最上無限の勢いを占むるに至れり。然るを近世文化の盛域に進み、富力と財力との増加するに随ひ、漸く反動の勢を生じ、立法は社会的の制度を破壊するの傾向を生じ、専ら各個人の権利と自由を以て政治の肯けいと為し、之が為に社会の道徳を破壊し、軽佻俘虜に流れて国家の元気を衰耗し、其結果の帰する所竟に各個人をして弱肉強食の惨状に陥らしめたり。</p>
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