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恋愛結婚の社会史

written by 齊藤 貴義 on

最近、恋愛と結婚について考えることが多い。
以下はだいぶ前に私が恋愛について書いたエッセーです。

恋愛結婚の社会史

b603838c-s現在の私達にとって、恋愛結婚はごく一般的な結婚形態として広く普及しています。しかし、近年の社会学やジェンダー研究の発展によって、人々が恋愛と結婚を強く結びつけて考えるようになったのがごく最近になってから、より明確に言うならば「近代」になってからであることが明らかとなってきました。恋愛結婚はどのような歴史的経緯を経て普及してきたのでしょうか。
恋愛結婚は近代から

現在、日本人の結婚の約87%が恋愛結婚となっており、恋愛による結婚こそ男女の結合の自然な形態であるという考えが広く普及しています。しかし、歴史研究の進歩によって、恋愛と結婚が強く結びつけて考えられるようになったのは、ごく最近、厳密には近代に入ってからであることが明らかになってきました。そもそも日本で「恋愛」という言葉が使われるようになったのは、実は明治時代になってからのことです。当時、『女性雑誌』という雑誌の主宰者をしていた巌本善治が、英語の「love」に「恋愛」という言葉を当てはめた最初の人物であると言われています。彼は、「恋愛」とは「清く正しく」「深く魂(ソウル)より愛する」ことであり、「恋」のような「不潔の連感に富める日本通俗の文字」とは異なって、非常に崇高で価値あるものであると説きました。彼の恋愛論をきっかけとして、「恋愛」という言葉や感情・行為が広く社会に浸透していくことになります。

前近代社会では、恋愛が結婚にとって重要な要素となるとはあまり考えられていなかったようです。では、前近代社会では結婚や恋愛はいかなる形で営まれたのでしょうか。また、恋愛結婚はなぜ近代になってから普及したのでしょうか。この問題を考えるには、恋愛と結婚の相互関係を押さえておく必要があります。私達の恋愛感情は、ある時、突然わき起こることがあります。あるいは、ある時、突然消えることがあります。そしてその感情は、自分でどんなに否定しても否定しきれるものではありません。一方、結婚は共同生活も含めた持続的な関係であることが要求されます。つまり、恋愛感情は流動的なものであるのに対し、結婚制度は固定的なものであるわけです。結婚したからといって、配偶者に恋愛感情を抱き続けられるとは限りませんし、配偶者ではない別な人に恋愛感情を抱く場合もあります。このような恋愛と結婚の緊張関係を解消していくことが、それぞれの社会の一つの課題でもあるわけです。この緊張関係を解消するために、前近代社会では様々な方策が採られてきました。

前近代社会における恋愛と結婚の分離

その方策の一つに恋愛と結婚を分離させるというものがありました。民俗学や農村社会学の研究成果によって、夜這い(気に入った女性のいる家を夜に訪ねて性的行為に及ぶ)の慣行が日本各地の農村に戦前まで幅広く存在したことが明らかになっています。前近代社会の日本の農村には、「ネヤド」「ニセヤド」「ネンヤ」など同世代の若者が寝食を共にした家があり、その家を単位として交際や夜這いなどが行われていたようです。このような男女交際は「ホーバイ」「若者衆」などの集団によって管理されてきました。夜這いの相手は誰か1人とは限りません。貞操観念も今ほど強固なものではなく、比較的自由な恋愛関係や性的関係が存在したと考えられます

人類学では、この夜這いのような制度を制度化された婚前自由交渉と呼びます。日本の農村社会と同様の制度はポリネシアなどでも確認されています。なお、恋愛結婚に対してよく引き合いに出される「見合い結婚」は、前近代社会(特に西日本)では必ずしも主流ではありません。見合い結婚が全国的に広がってくるのは、人々の地域移動の活発化、貨幣経済の浸透による農村内の階層分化などによって、農村の若者衆や娘衆などが解体していった幕末になってからです。

そのような営みの中から気のあった相手と結婚したわけですが、結婚生活も農作業を含めた生活共同体という意識が強く、「1人の大切な人と精神的にも強く結ばれて結婚したい」「結婚後も愛情ある家庭を築いていきたい」という恋愛と結婚を結びつけた意識は現代より希薄であったと考えられます。実際、離婚率や再婚率もかなり高い水準にありました。明治時代から離婚の全国的な統計調査が開始されましたが、現代よりも明治時代初期の方が離婚率が高かったというデータが得られています。

明治15年から明治30年までの離婚率(対1,000人)は、最高3.39、最低2.26、平均2.82。1998年の離婚率は1.94。

江戸時代には離婚に関する全国的な統計はありませんが、文献史料などを検討するとかなりの割合で離婚が発生していたと推測されるようです。庶民だけではなく、平安朝貴族や富裕商人などでも、比較的結婚と無関係な異性関係が存在しました。「源氏物語」に象徴されるように、あらかじめ家柄や政略などで決定された婚姻関係とは別のところで、貴族達は異性関係を楽しんでいました。当時の和歌にも結婚とは別のところで異性に慕情を抱いているものが数多く残されていますし、貴族の女性が義父(夫の父)と関係を持ってその子供を妊娠したというケースもけっこうあります。富裕商人などの間でも、「妾」を設けたり「おいらん遊び」をしたりなど、結婚とは別の場所で恋を楽しんでいたことをうかがい知ることができます。

恋愛と結婚を分離させて考えるという発想は、夜這いのような形は取っていませんが、西洋の前近代社会でも確認されています。歴史家ドニ・ド・ルージュモンの『西洋の愛の歴史』によれば、西洋中世、少なくとも近世までは恋愛と結婚は相互に矛盾するものであったとされています。結婚の中に恋愛はなく、恋愛の中に結婚はないというわけです。庶民の間では結婚に至らない男女交際が活発に行われ、中世の騎士階級では貴族の既婚女性の寵愛を得たいという行動欲求が社会的に価値づけられていきました。当時の文学作品を調査したデュビーという人物は、「この愛は社会秩序や道徳的秩序を乱すどころか、むしろ結婚から離れたところに位置するという点において、秩序の堅持に寄与するのである」と結論づけています。

ロマンチックラブの隆盛

90343e4d-sこのような状況が一変して、恋愛と結婚を結びつけた「恋愛結婚」の発想が広く普及していくのは、17世紀から18世紀にかけて西洋でロマンチックラブの隆盛が起きてからでした。産業革命で飛躍的に発展しつつあった西洋では、社会構造が急激に変化し、一部の商工業者が富裕市民(ブルジョワジー)として台頭します。富裕市民の出自は必ずしも高い身分であったわけではありませんが、やがて旧来の支配階級であった貴族をおびやかすまでになります。まず、この富裕市民の中で恋愛観に変化が生じます。

富裕市民は、貴族と同様に豊かな暮らしを送り、余暇時間も増大しましたが、貴族のように政略結婚や家の格式に拘束されることはありませんでした。豊かな暮らしと余暇時間の拡大が、女性を生産労働から切り離し、主婦の誕生をもたらしました。主婦は、庶民階級のように共同体全体で生活役割を共有するのではなく、貴族階級のように使用人なども含めて間接的に生活役割を共有するのでもなく、家事や育児などの生活役割を家庭内で一手に引き受けて、完結させる役割を負うことになりました。今日的な意味での「家族愛」や「母性愛」が唱えられるようになってきたのは、実はこの「主婦の誕生」が生じた時代と重なります。

さらに、女性が生産労働から切り離されていったことにより、家族は(今までの庶民階級のような)生産単位としての傾向は薄れ、性的結合体としての傾向を濃くしていきました。また、富裕市民は当時はまだごく少数であったため、男女交際はそのまま結婚へと結びつきやすい傾向にあったようです。これらの要因が合わさって、富裕市民の中で「恋愛による結婚こそが自然な姿だ」「庶民階級や貴族階級のような性的自由は不道徳だ」「結婚後も家族には愛情がなければならない」というロマンチックラブ・イデオロギーが勃興してきました。

このような恋愛観は、次第に庶民にも普及していくことになります。なぜ恋愛結婚のイデオロギーは富裕市民に限らず、庶民層にも急速に拡大していくことになったのでしょうか。この点については諸説ありますが、一部のフェミニストの間から、「近代産業の発展と恋愛結婚には何らかの関連性があったのではないか」という指摘が提起されています。

近代産業においては、農業労働や伝統的な職人芸は衰退し、工場労働が主流となっていきます。このため、従来の「生産単位としての家族」や「地域社会」は存立基盤を失っていきます。しかし、近代産業においては、労働者は長時間家族生活を離れて生産労働に従事しなければなりません。家族が解体してしまっては、余暇時間も家事に忙殺されて生活に支障をきたしますし、育児などが困難になるため新しい労働力を生み出すこともできません。したがって、労働力の再生産を目的として、何らかの形で家族を再統合していく必要性が生まれます。「恋愛結婚」は、「労働力の再生産を行うユニット」として家族が再編成されていく社会的適合性の中から普及していったのではないか、と考えることができます。

恋愛結婚や主婦の誕生、そして「家族愛」や「母性愛」の発想が定着したことにより、「男は仕事、女は家庭」という性別役割分業意識も広く共有されることになりました(性別役割分業意識が強くなったのは、庶民が男女共に農業に従事していた封建社会ではなく、実は近代社会になってからのことです)。女性は、愛情表現として自発的かつ無報酬で家事労働や育児を担当することになりました。「愛情が湧くから家族になる」という意識は、やがて「家族には愛情があってしかるべき」という意識へとつながり、前近代社会で確認されていた性的自由や高い離婚率を抑制することになりました。現実の家族生活に矛盾が存在しても、愛情を持って乗り越えていかなければならないという考え方が定着していきます。また、性的な純潔を尊ぶ貞操意識や処女概念も、この頃に明確に確立されてきたと指摘されています。このようにして、恋愛と結婚はカップリングされていったと考えられます。

日本の見合い結婚

9a15b48f一方、日本の場合はどうだったのでしょうか。日本でも性的自由はやがて失われてくるのですが、その経緯については西洋と大きく異なります。近代西洋ではロマンチックラブ・イデオロギーが勃興して恋愛結婚が活発化しましたが、日本では近代になって勃興してきたのは恋愛結婚ではなく、見合い結婚でした。日本と西洋はなぜそれぞれ別の道を歩んだのでしょうか。以下でその歴史を見ていきましょう。

江戸時代後期になると農村まで貨幣経済が浸透し、それまで売買が厳しく制限されてきた田畑を負債の担保に当てる農民が増えてきました。負債を返しきれなくなった農民はやがて田畑を手放し、他人の田畑を小作人として耕す「水呑み百姓」となります。この水呑み百姓の激増によって、今まで生活水準がほぼ同じ人々が生活していた農村社会の中に、「豊かな家」と「貧しい家」の階層分化が進むことになりました。「豊かな家」にとって、夜這いなどの性的自由で「貧しい家」の異性と結ばれてしまうことは、家の存続・発展にとって割に合わない戦略になっていきます。やがて豊かな家は、夜這いを拒むようになります。そして、多少地域が離れていても、自分達と同じ豊かな生活水準の相手を探すようになりました。そのような結婚活動のために「仲人」にあたる人が介在するようになります。このように、農村内の階層分化の進展によって、現代の見合い結婚に近い形が全国的に形成されていくことになったと考えられています。

一部の豊かな家が拒絶しだしたことにより、夜這い慣行は徐々に衰退していくのですが、それに追い打ちをかけたのが、明治政府が実行した諸改革でした。近代西洋に倣って国内を開明化する必要に迫られた明治政府は、明治31年に民法を制定します。この民法によって、今まで村落・家・個人などの取り決めに委ねられてきた結婚や離婚が、国家の法制度の中に組み込まれることになりました。例えば、今までは「三行半(みくだりはん)」と呼ばれる離縁状を夫が書けば離婚が成立することになっていたわけですが、民法の規定によって離婚届を裁判所に提出することが義務づけられ、場合によって裁判が起こることになりました。今まで恋愛と同様に流動的であった結婚制度が、国家の政策によって固定的なものへと変化したわけです。

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