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優生学の歴史

written by 齊藤 貴義 on

ナチス政権下のドイツでは、遺伝病子孫予防法という法律が制定され、障害者や精神病患者など「低価値者」と呼ばれた人々に対して強制不妊手術が実施されました。さらに1939年からは、彼らを大量に安楽死させる計画が始まりました。このようなナチスの政策は優生学という考え方に基づいて行われました。優生学とは、劣った遺伝形質を持つ人々の子孫が増えることを阻止し、優れた遺伝形質を持つ人々の子孫を増やしていこうとする差別主義的な考え方のことです。

優生学はナチスだけの問題ではありません。ナチスの法律がカリフォルニア州の「断種法」を参考にしていたこと、日本にも1948年から1996年まで「優生保護法」という法律が施行され、1万6500件もの本人の同意を必要としない不妊手術が行われてきたことをご存じでしょうか? 

優生学とは何か

優生学とは、人間の性質を規定するものとして遺伝的要因があることに着目し、その因果関係を利用したりそこに介入することによって、人間の性質・性能の劣化を防ごうとする、あるいは積極的にその質を改良しようとする学問的立場、社会的・政治的実践を指します。ここでいう「遺伝的要因による人間の劣化」として想定されているものは、遺伝性精神病質、遺伝性身体疾患、遺伝性奇型、精神病、精神薄弱などです。つまり、障害者や精神病患者などは遺伝によって子孫にも影響して人間の質を劣化させると考え、劣悪な遺伝子を持つ人々が子孫を残すことを抑制し、優良な遺伝子を持つ人々の子孫を増やしていこうとする研究視点や政策実践のことを指します。

優良な人間の子孫のみを残していこうという発想そのものは、遺伝子が発見される遙か以前、古代ギリシアの哲学などにも見られます。しかし、優生学が学問として本格的に展開されるようになったのは19世紀になってからです。19世紀、産業革命によって大きな発展を遂げたヨーロッパ社会では科学万能主義が広く普及していました。チャールズ・ダーウィンは『種の起源』という本を著し、今まで支配的であったキリスト教の生命観を根底から揺るがす進化論の考え方を提唱しました。さらに生物学の研究も大きく進展し、遺伝子の機能や生物の遺伝法則などが次第に明らかにされていきました。このような状況下で、人間の能力や社会の構造もダーウィンの自然淘汰や適者生存の考え方で説明できるのではないかという考え方が起きてきました。このような考え方は社会的ダーウィニズムと呼ばれています。優生学は社会的ダーウィニズムの一つの典型です。

優生学の歴史(イギリス・アメリカ)

「優生学」という言葉を最初に使い始めたのは、イギリスのフランシス・ゴルトンという人物です。彼は『種の起源』を著したチャールズ・ダーウィンのいとこにあたり、優生学の基礎を築きました。ゴルトンは、人間の才能がどの程度遺伝によるのかを明らかにするために、家系に関する資料を集めて統計学的手法でアプローチを試みました。つまり、ダーウィンの「自然淘汰」や「適者生存」の考え方を人間や社会の分析に持ち込んだわけです。ゴルトンは1865年に「遺伝的才能と性質」という論文を発表し、この論文の中で、精神的特徴が遺伝的であることを述べ、優れた素質の男女間の早期結婚、劣った素質の男女間の結婚遅延を奨励しています。さらに1869年には『遺伝的天才』という著作を発表、天才の家系調査によって人間に関する遺伝論の実証が試みられています。

そして1904年、世界初の社会学会であった「第一回イギリス社会学会」の席上で、ゴルトンは「優生学 −その定義、展望、目的」という講演を行いました。彼はここで、「優生学とは、ある人種の生得的質の改良に影響するすべてのもの、およびこれによってその質を最高位にまで発展させることを扱う学問である」と唱えました。

この発表をきっかけとして、 1907年にロンドンで優生教育協会が設立されます。ゴルトンは主に統計学的手法を用いて人間の遺伝的要因を分析しようとしたのに対し、優生教育協会は早い段階からメンデル説の立場に立ち、さらに優生学の重要性を国家に認めさせるための社会的な影響力を獲得していきました。特に当時のイギリスで社会問題として認知されていた「精神障害女性の出産問題」では、精神障害が遺伝によって継承されるのではないかという当時の社会意識を利用し、「劣悪家族の女性は平均7.3人の子供をつくる」という多産論を唱えました。このような調査報告を重くみたイギリス政府は、1913年に精神障害者の強制収容と性的隔離を含めた精神病法を成立させました。

優生学はイギリスで大々的に展開されることになりましたが、優生学的政策を最初に本格的に実施していったのはアメリカ合衆国です。1902年、インディアナ州の少年院付き外科医であったH.シャープは、アメリカで犯罪者や精神障害者が急増しつつあることを憂慮し、その解決策として断種(手術で生殖器官を切り取って子孫を残せないようにすること)を説きました。そして彼は42人の犯罪者に対して実際に断種手術を行っています。この事件をきっかけとして、1907年にインディアナ州は世界初の断種法を制定、他の州でも続々と同様の法律を制定するところが現れ、最終的には1937年までに32もの州で断種法が成立しました。

特にカリフォルニア州では、精神病患者は断種を行ったものだけが施設の外に出られると定め、精神病者以外に梅毒患者や性犯罪の累犯者にも断種手術を行いました。1921年の全米での断種件数3233件のうち、カリフォルニア州の断種手術は2558件にのぼりました。このカリフォルニア州の断種政策はドイツにも伝えられ、のちにナチス政権はカリフォルニア州の断種法を参考として遺伝病子孫予防法を制定しています。

1927年、連邦最高裁は、「犯罪傾向の子孫を放置し、精神遅滞の子供を餓死に追い込むのを座視するよりは、社会が、明らかな不適応者が子供を作らないようにすることは全体にとって善である。強制的な種痘の法理は、充分輸卵管切断にまで拡大しうる」とし、強制断種を合憲としました。アメリカで断種法や優生学が問題視されてきたのは、1960年代後半の公民権運動の高まりで、社会的弱者の権利も注目されるようになってからのことです。実際1962年にも、オハイオ州の下級裁判所は、17歳の知的障害を持つ女性に対し断種手術を命じる判決を下しています。

優生学の歴史(ドイツ)

ドイツの優生学というと、「生きるに値しない生命の抹消」(Vernichtung lebensunwerten Lebens)というスローガンを掲げ、精神病患者や障害者への強制不妊手術と安楽死を行ったナチスが注目されがちですが、ドイツも19世紀後半からイギリスやアメリカの影響を受けて優生学が発達しつつありました。ヒトラーの政策は突然実施されたのではなく、すでに下地はそれ以前から形成されていたのです。

ドイツ優生学の基礎を築いたのは、アルフレート・プレッツという人物です。プレッツは「社会」という概念と「種」という概念の違いを強調しました。「社会」に支配的な原理は、隣人愛や愛他主義といった相互扶助であり、闘争と淘汰を本質とする「種」と逆方向にあることを指摘しています。「種」とは「持続する生命体」であり、時間的連続性を持っており、個々の要素を超越した全体性であり、闘争と淘汰のメカニズムによって特定の品種のみが生き延びると説きました。そして彼は、「社会」が「種」の進化の可能性を遅らせていると主張し、「種」を中心とした「社会」へと再編成するべきだと主張しました。

プレッツは1905年に民族衛生学会を設立します。この学会はやがてドイツ優生学の拠点となります。さらに彼は1910年に、「種という概念と社会という概念」と題した講演を行い、「種」を中心とした「社会」の再編について次のように述べています。

「解決策は、二つの方法による以外には考えられないと思います。まず第一に、暫定的な処置として、いわゆる自然淘汰を性的なものに転換させること。これによって、劣った資質の個人が子孫を持つこと、そして自らの欠陥を遺伝させることが防げます。第二に、最終的な処置として、淘汰の過程そのものを有機体としての個人の段階から、細胞、とりわけ生殖細胞の段階に移行させることです。言い換えれば、淘汰の過程を変異と遺伝の操作へと、あるいは低価値であることが何らかの形で観察ないし推定できる無能力な生殖細胞の除去へと切り替えるということです」

この講演内容から、プレッツが遺伝性の欠陥を持つ人々に対して不妊手術を実施するべきだと説いていることがわかります。さらに、彼の述べる「最終的な処置」は、当時の医療技術のはるか先を見越していました。この時代にはまだ生殖細胞の分析を通じて「子供がどのような体質的な問題を抱えて生まれてくるか」を把握する医療技術は確立されていません。しかし、プレッツはすでに、現代の出生前診断(超音波診断、羊水検査、絨毛生検、母体血清マーカー検査などで胎児の障害の有無を診断する)や着床前診断(体外受精の際に遺伝的欠陥の見つかった卵子や精子や受精卵を除去する)などの技術の出現を予見して待ち望んでいたことが分かります。

(現代、この出生前診断の普及に伴って、障害が見つかった胎児を中絶する母親達も存在します。この点について「決定権が社会から母親に移っただけで、実はかたちを変えた優生学ではないか。私達はプレッツが待望した『生命の価値を選別する社会』へ足を踏み入れているのではないか」という問題が、専門家や障害者団体から提起されています。出生前診断や着床前診断は、実は非常に深刻な倫理的問題です。この点については後で詳述します)

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