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性別役割分業意識

written by 齊藤 貴義 on

1970年代以降、「男性は職場で働き、女性は家庭を守る」という性別役割分業意識は一貫して減少を続けました。男女雇用機会均等法も制定され、国や自治体も男女共同参画社会実現のために様々な施策を展開しています。しかし、実態としての就業構造はまだまだ男女間に大きな格差が存在しています。そのような中、研究者による社会調査を通じて、ある一つの傾向が浮かび上がってきました。それは、学歴の高い女性で専業主婦になる人が多いという傾向です。なぜこのようなことが起きているのでしょうか。

性別役割分業意識の変化

夫は仕事、妻は家庭
左から順に、賛成どちらかといえば賛成どちらかといえば反対反対の%。これ以外に「わからない」もある。出所は尾嶋史章,2000
女性
1972
48.8
34.4
7.6
2.6
1979
29.1
41.0
18.3
4.5
1992
19.8
35.8
26.4
11.9
1997
17.9
34.0
26.9
16.7
男性
1972
52.3
31.5
6.3
2.4
1979
35.1
40.5
13.4
4.0
1992
26.9
38.8
20.9
7.7
1997
23.9
41.0
20.5
10.3

右の表は、総理府(現・内閣府)が過去に行った四つの世論調査、「婦人に関する世論調査」(1972年、1979年)、「男女平等に関する世論調査」(1992年)、「男女共同参画社会に関する世論調査」(1997年)の結果をまとめたものです。「夫は仕事、妻は家庭」という性別役割分業意識についての賛否を尋ねています。

1972 年には実に8割もの男女が「夫は仕事、妻は家庭」に「賛成」「どちらかといえば賛成」と答えていますが、時代を経るにしたがって、男女とも「賛成」が顕著 に低下し、「反対」が増加していることが分かります。特に女性の「賛成」の減少が著しく25年間で30%以上も減少しており、「どちらかといえば賛成」と合わせても41.9%まで減少しています。男性も「賛成」は女性と同じくらい大幅に減少しましたが、「どちらかといえば賛成」も合わせると64.9%で、意識変化のスピードに男女間の大きな開きがあることが分かります。

それでは、女性の性別役割分業に否定的な意識はどのような要因によって形成されたのでしょうか。従来の議論で考えられてきたのは、女性の高学歴化です。女性が高等教育に触れる機会が増加したことにより、女性の社会進出が進み、性別役割分業に否定的な女性が増えたのではないかと言われてきました。実際に全体的に見た場合、大卒の女性は、高卒や中卒の女性と比較して性別役割分業に否定的な立場を取る傾向にあることが、統計資料などによってある程度証明されています(下の表を参照)。

しかし、高等教育に要因を求める見解に対し、その信憑性に疑問を投げかけるデータも出てきています。1980年と81年に高校三年生の女子を対象として行わ れた調査によると、進路志望の決定で「将来の職業とのつながり」を重視した生徒は進学希望者が多く、「結婚」をあまり重視しない生徒は重視する生徒と比べて4年制大学への進学希望率が高かったというデータが得られています。94年に高校2年生の女子を対象に行われた調査でも、性別役割分業に否定的な生徒や結婚後も仕事を続けようと思っている生徒の方が、そうでない生徒に比べて大学進学希望率が高いことが確認されています。これらのデータを考えると、高等教育が性別役割意識に強い影響を与えるのではなく、元々性別役割分業に否定的な女性が高等教育を受けようとする傾向にあるのではないか、と考えることもできます。この辺はまだ諸説入り乱れているようですが、近年の研究では両親の学歴、職業、就業形態など家庭環境の面から、性別役割意識に影響を及ぼしている要因がないかの分析が進められているようです

高学歴女性の専業主婦化

近年、女性の高学歴化はますます進展しています。上の段の最後に触れた「高学歴が女性の社会進出をもたらしているのか」「社会進出を求める女性が高学歴を受けたがるのか」という議論はひとまず置いておくとして、性別役割分業に否定的な傾向が強い高学歴の女性は、結婚・出産後も専業主婦とならずに仕事を続ける人が多いように見えます。しかし、実はそうなっていません。日本の社会学者達が行っているSSM調査(社会階層と社会移動の調査)によると、大卒の女性も専業主婦の割合が大きく、むしろ高学歴ほど主婦化率が上昇するデータもあるという結果が得られています。

有配偶女性の学歴と就業形態
経営・・・経営者・常時雇用
臨時・・・臨時雇用・パート・アルバイト
自営・・・自営業主・家族従業者
専業・・・専業主婦
単位は%  出所:木村邦博,2000
経営
臨時
自営
専業
30〜39歳
大学
32
11
12
45
短大
18
17
9
56
高校
20
21
10
49
中学
30
40
20
10
40〜49歳
大学
24
20
17
39
短大
33
23
11
34
高校
24
33
18
26
中学
25
33
17
26
50〜59歳
大学
10
20
20
50
短大
18
25
36
21
高校
21
24
22
34
中学
16
26
22
36

右の表は、1995年のSSM調査において既婚女性の学歴と就業形態をまとめたものです。大卒の女性も高い割合で専業主婦となっており、特に40〜49歳の年齢層では学歴が上昇するにしたがって顕著に専業主婦率も上昇していることが分かります。このような「学歴の高い女性ほど専業主婦になる割合も高い」という傾向は、欧米などの他の先進工業国における傾向と異なっており、日本独自のものであると考えられます(ただし韓国にも類似の傾向があるようです)。なぜ、このようなことになったのでしょうか。この点については様々な解釈があります。

学習院大学の脇坂明は、結婚を媒介した高等教育の経済効果に注目しています。大卒女性は、同じく大卒で高収入の男性と結婚するチャンスが大きいので(同類婚のページを参照)、家計補助のために就労する必要性は低下します。そして上級学校に進学する女性はある程度そのような経済効果に期待していると指摘しています。

一 方、M.ブリントンは、日本の親が大学教育に期待することが性別によって異なってくること、そして子供達が社会化の過程でその期待を受け入れていくことに 注目しています。男性の場合には就職に必要な準備を期待されるのに対し、女性の場合は子育てに必要な一般教養の獲得を期待されます。そのような中で性別ステレオタイプの認識が形成され、専業主婦への道を歩む大卒女性の要因となっているのではないかと指摘しています。

東北大学の木村邦博は、脇坂やブリントンの議論では「高学歴であるほど性別役割分業に否定的な女性が増える」という問題を説明できないとして、L.フェスティンガーの「認知的不協和」という社会心理学の概念を用いて説明を試みようとしています。

認知的不協和… 相容れない2つの認知を抱いた時に生じる心理的葛藤状態のこと。この状態の中で人は、葛藤や緊張を避けるために「協和」(心理的均衡)をつくる努力をする 傾向があるとされる。例えば、芸能界入りを目指していた女性が、オーディションを受けて失敗して、結果として会社員になってしまったとする。この女性の中には(1)何が何でも芸能人になりたい、(2)でも現実の自分は芸能人になれなかった、という2つの認知の葛藤状態にある。やがて女性は、葛藤を解消する ために「自分には芸能人は向いていない」「芸能人なんて大したことはない」「会社の方が楽しいし仕事も充実している」などのような考えを抱くようになるとされている。

このように認知的不協和理論においては、(1)自分の意思に反した行動を行うと、結局その行動に合致した方向に意思が変化してしまう、(2)複数の選択肢 の中から1つを選択すると、選ばれた選択肢の魅力は高くなり、選ばれなかった選択肢の魅力は低下する、(3)自分がもともと興味を持っていることを実行するのを制止されると、制止する圧力が弱いほどその行動に対する興味が減じるようになる、(4)ある目標を達成するために大きな努力を払った方が、払わなかった場合よりも、その目標を高く評価するようになる、などの予測が提起されている。この認知不協和理論は、実験によってある程度確からしさも実証されて きている。ただし、不協和要素の正確な摘出の困難性(観察者や被験者による偏りの入りやすさ)、個人の性格や社会による差異など、様々な問題も存在する。

この認知的不協和を低減するための圧力として、自分の就業に対する意識などを変化させたり転化させたりして合理的に説明が付くようにする作用が働くと考えられています。

このページの冒頭で見たように、まだまだ男性と女性の間には性別役割分業についての意識の開きがあり、また出産や育児をきっかけとしたM字型就業パターンも根強く残っています。残念ながら女性に対しても平等に開かれているのは、学歴やキャリアなどが問われることの少ないパートタイム労働が主流です。つまり特に高学歴の女性の意識は現実の女性を取り巻く社会の実態と一般的に乖離している部分が大きく、心理的な葛藤を生じやすい状況にあると考えられます。これらの社会状況の中で(元々は性別役割分業に否定的であったにもかかわらず)専業主婦にならざるをえなかった女性は、自己の内部で葛藤を解消へと昇華させていくために、強い自己合理化作用が働くのではないかと考えたわけです。

「男性は外で働き、女性は家庭を守るべきである」という質問に「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と回答した女性の割合
経営・・・経営者・常時雇用
臨時・・・臨時雇用・パート・アルバイト
自営・・・自営業主・家族従業者
専業・・・専業主婦
単位は%  出所:木村邦博,2000
学歴
経営
臨時
自営
専業
30〜39歳
大学・短大
13
25
30
47
高校・中学
22
39
36
43
40〜49歳
大学・短大
13
32
31
36
高校・中学
23
29
39
48
50〜59歳
大学・短大
29
27
21
43
高校・中学
32
32
54
55

右 の表は95年のSSMデータにおける性別役割意識についての調査結果を、学歴別・就業形態別に分類したものです。(一部の例外を除き)一般に高学歴の女性の方が性別役割分業に肯定的ではないことが分かります。ただし、高学歴の女性の中でも、就業形態に応じて格差が存在します。専業主婦に近い形態ほど、性別役割分業を肯定的に捉える人々が多くなっています。

認知的不協和が実際に働いているかどうかは今後の研究成果を待たなければなりませんが、女性の「性別役割分業」の意識が学歴・就業パターンなどの社会的属性と密接な関係にあることは確かであると考えられます。この社会的属性による影響をどのように解釈し、どのような施策を打っていくかが、男女共同参画社会を実現させていくために不可欠なのではないかと思われます。

インド・パキスタン分離独立の歴史

written by 齊藤 貴義 on

インド・パキスタン分離独立の歴史

1858年
ムガル帝国滅亡

1877年
イギリス領インド帝国成立

イギリスのインド統治… イギリスはインドを支配するにあたって、旧来の支配層を破壊するのではなく、巧妙に彼らを利用する方法を選んだ。ムガル帝国下の500以上の藩王国はイギリスの支配の下で存続できるようにし、イスラム教徒とヒンドゥー教徒との扱いについても区別を行った。このような統治方針のもとで、イスラムとヒンドゥー の内部衝突が生まれ、反英運動の組織化は大幅に抑制された。

1885年
インド国民会議開催

インド国民会議(派)…A.O. ヒュームらの後押しによって開催されたインド人の有識者会議。ヒュームらの狙いは、インド人に発言の機会を与え、イギリスのインド支配に対するインド人の不満を解消する安全弁とすることであったが、20世紀に入ってからは民族意識の高まりと共に政治集団としての様相を強くしてきた。1906年になると、会議派はスワラージ(自治)の達成を綱領とし、イギリス植民地政府の施策と激しく対立するようになった。

1939年
第二次世界大戦勃発。英領インドも連合国側として参戦。

第二次世界大戦…1939 年、第二次世界大戦が始まると、英領インドもドイツに対して宣戦布告を決定した。しかし、この決定はインド人の参画する州政府の意思に沿って行われたわけではなかったため、国民会議派の反発を招いた。国民会議派は、イギリスと共に戦うための条件として、インドに自治権を許容して自らの憲法を制定する権利を求めた。だがインド政庁はこの申し入れを拒否し、イギリスと国民会議派との間に深い対立関係が生まれた。国民会議派は、8つの州政権の閣僚を総辞職させ、 イギリスに対して協力拒否の姿勢を明確に打ち出した。

しかし、イスラム教徒の政党が政権を担当していたパンジャーブ、ベンガル、シンドなどの州は、イギリスの戦争への協力を表明し、多くのムスリム系インド人 が連合国軍として各地で戦った。会議派による戦争非協力・ムスリムによる戦争協力は、その後の分離独立に至る過程の中で、イギリスの政策に少なからぬ影響を与えることになった。

1940年
ムスリム連盟がラホール決議を採択(3月)

pak1ラホール決議・・・ラホールで開かれたムスリム連盟の大会でジンナ総裁がインド・ムスリムの民族自決要求を決議。インドのヒンドゥーとムスリムはそれぞれ別の国民であるとし、国民会議派の主導するインド独立とは別に、ムスリムの多住諸州での自治(独立)を要求した。

このムスリム連盟の決議の背景には、「民主主義の問題点」がある。英領インドにおいて、イスラム教徒は総人口の3割程度であり、ヒンドゥー教徒に比べて少数派である。したがって、独立後のインドで民主主義が採用されると、少数派であるイスラム教徒は不利な立場に立たされることになる。しかし、州レベルで見 ると、いくつかの州ではイスラム教徒が多数派を占めている。したがって、これらの州ではイスラム教徒が自分達の意思で新しい国家をつくろうとも、民主主義の発想としては正当となる。

1941年
タイで藤原機関が組織される(9月)

藤原機関・・・ 日本陸軍の参謀本部が設置した対印工作機関。藤原岩市少佐を機関長とし、バンコクを拠点にアジア各地のインド人の反英闘争を組織化することを目的とした。 日本が第二次世界大戦に参戦しマレー半島に侵攻すると、藤原機関はイギリス軍のインド人捕虜を中心に「インド国民軍」の編成に取りかかった。インド国民軍は日本軍のシンガポール攻略作戦に参戦。1942年8月には4万2千の兵力に達した。

日本が第二次世界大戦に参戦、アジア各地へ侵攻。

1942年
クリップス提案(3月)

クリップス提案…1941年の日本の参戦により、欧米がアジア各地に持っていた植民地にも動揺が広がった。日本は「大東亜共栄圏」「アジア人によるアジア」の建設を唱え、東南アジアのほぼ全域に軍を展開、ビルマを制圧してインドに迫った。事態を重く見たアメリカと中国は、インド民衆の内部に対日協力の動きが広がらないよう、イギリス政府のインド支配方針に対して再考を求めた。このような要請を受けて、イギリス首相チャーチルは、労働党のクリップス使節団をインドへ派遣した。クリッ プス使節団は会議派に対し、(1)戦後ただちに英領インド代表による憲法制定機関を設置する(参加を望まない州は独自憲法の採択を容認)、(2)完全な自治領としてのインド連邦の創設、(3)戦時体制へのインド諸政党代表の参加を拡大する、といった提案を行った(クリップス提案)。しかし、このクリップス 提案は、即時自治を求める会議派らによって拒否される。

1943年
チャンドラ・ボースが東南アジアへ到着(5月)

チャンドラ・ボース・・・ 元国民会議派議長。ガンジーやネルーらとの路線対立を経てドイツに滞在し、ヒトラーへ枢軸国の共同作戦としてのインド侵攻などを直訴した。だが対英妥協の可能性と対ソ戦を重視するヒトラーはボースの提案に耳を貸さず、ボースは日本に協力を求めた。1943年、ドイツの潜水艦に乗ったボースは東南アジアへ到着した。

日本、自由インド仮政府を承認(10月)

自由インド仮政府・・・ 1943年10月21日、チャンドラ・ボースはインド独立連盟東亜代表者大会において自らを首班とする自由インド仮政府の樹立を決定した。10月23日、 日本政府はこの自由インド仮政府を承認した。だが日本の外務省条約局には、政府を承認するには、国際法上、領土と人民を基礎とする国家の存在が不可欠であるとする見解があった。このため、11月に開催された大東亜会議において、東条首相は、日本海軍が占領中のアンダマン・ニコバル両諸島を自由インド仮政府 に帰属させるとする方針を発表した。これによって自由インド仮政府は名目上独立した領土を手にすることになった。しかしこの領土帰属方針は、日本の戦争遂行のため(連合国の戦争方針である大西洋憲章に対する挑戦のため)のジェスチャーにすぎなかった。実際、アンダマン・ニコバル諸島には日印共同防衛を理由として日本軍が継続して駐屯することとなった。

1944年
日本軍、インパール作戦を開始(3月)

インパール作戦・・・ 日本軍は1942年の段階でイギリスの屈服を目的とした東部インド侵攻作戦を立案していた(二一号作戦)。だが、ガダルカナル島を中心に展開された消耗戦がインド侵攻作戦の物的基盤を奪い、参謀本部はビルマ防衛とインド人による反英運動の煽動工作の方に力点を移していった。しかし、チャンドラ・ボースのインド侵攻要求などもあり、1944年3月、ビルマ防衛・太平洋戦局の敗勢打開・援蒋ルートの遮断・インド独立工作の進展などを目的としたインパール作戦が実施された。当初、戦況は順調に推移しているかに見え、インド国民軍も2個師団で作戦に協力したが、途中で日本軍の補給路が途絶えて戦況は逆転した。7月中旬、日本軍はインパール作戦の中止を決定した。

1945年
第二次世界大戦終結
9月声明

9月声明・・・ 第二次世界大戦後、イギリスの首相に就任したアトリー首相は、インド問題を討議するため、政府のインド委員会を開催した。委員会の議題の中心は「制憲議会 の開催」を交渉の基礎とすることであった。委員会での討議を経て、アトリーは9月声明を発表した。声明は、(1)1937年以来行われていなかった総選挙 を45-46年冬季に行う。州ではその結果、責任内閣が復帰する。(2)それにしたがって制憲議会が設置されるだろう。(3)主要政党すべての支持を得たインド人内閣をつくる。というものだった。この声明は基本原則を述べたにすぎず、終戦後すぐに独立を付与する意識をイギリスが持っていなかったことを改めて示すものであった。インドの民衆に動揺が広がり、それはインド人によって構成されたイギリス軍の反乱騒動にまで発展した。すでにインド独立運動はイギリスが鎮圧できるものではなくなっていたのである。

インド総督が交渉決裂案の検討を開始

交渉決裂案・・・ 即時独立要求を掲げて大衆運動を展開する会議派に対し、インド政庁はすでに組織的な鎮圧能力を大幅に低下させていた。この頃から、インド総督やインド政庁 を中心に「交渉決裂案」が検討され、何度か本国政府に報告されている。交渉決裂案では、会議派との交渉が決裂して大規模な大衆運動が発生した場合、イギリスの軍事力をパキスタンまで撤退させ、そこを自治領とするか、あるいは連盟との交渉が決裂した場合に会議派と共にムスリムを弾圧するという政策が検討され た。

1946年
イギリスの閣僚使節団がインドに到着。

閣僚使節団・・・ 交渉決裂案を背景に国民会議派と交渉を続けるウェーヴェル総督に対し、イギリス本国政府はしだいに不信感を強めるようになった。アトリー内閣は通商大臣クリップスを団長とする閣僚使節団をインドへ派遣、使節団は会議派やムスリムと公式・非公式に会談を行った。そうしてまとまったのが「閣僚使節団案」である。閣僚使節団案はインド統一連邦案であり、(1)インド人による制憲議会の樹立を提案するが、憲法ができるまで中間政府を樹立することを提案す る。(2)憲法が作られる前提として三層の「統一インド構想」を提案する。最下層には諸州が置かれる。その上の第二層には諸州を三つのグループに分け、それぞれ「ヒンドゥー連邦」「パキスタン連邦」「バングラディシュ連邦」に近いミニ政府的なものが置かれる。さらに最上層には外交、防衛、コミュニケーションなどを取り仕切る弱い連邦政府を構成する、というものだった。

この閣僚使節団はかなり曖昧な部分が大きかったが、当初は統一インドを指向する会議派からもパキスタン要求を掲げる連盟からも支持された。だが、7月7日、ネルーは会議派の全国大会で突如として、閣僚使節団案のような諸州のグループ分けは行われないだろうという見通しを示した。閣僚使節団がきわめて曖昧な交渉姿勢であったため、会議派はグループ分けを確約事項として受け止めていなかったのである。この事実はムスリム連盟に衝撃を与えた。ムスリム連盟は7月29日にボンベイで開かれた大会で「パキスタンを実現するための直接行動に訴えるべきときが来た」として直接行動の声明を採択した。

1947年
パキスタン独立(8月)
インド独立。ネルー首相就任(8月)
英領インドは事実上消滅する。

分離独立・・・ 1947年、英領インドは、インドとパキスタンにそれぞれ分離独立した(この時点ではパキスタンはインドの東西に国土を持っている。このうち東パキスタンが後に独立してバングラディッシュとなる)。インドは政教分離国家、パキスタンはムスリム国家として出発することとなった。このため、パキスタンとなった地域に住んでいたヒンドゥー教徒がインドへ、インドとなった地域に住んでいたイスラム教徒がパキスタンへ、それぞれ着の身着のままで大移動を開始するという事態が起きた。両国あわせて1500万人もの人々が移動したと言われている。この移動の過程で、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が各地で衝突を繰り広げ、 100万人近い人々が殺害されたと言われている。この時の憎しみが、現在も印パ両国の対立に尾を引いている。

PAKISTAN・・・ウルドゥー語で「清浄な国」を意味する。この国名は、英領インド時代のイスラム教徒多住州の文字(パンジャブPunjap、アフガンAfghan、カシミールKashmir、シンドSind、バローチスタンBaloochistan) をつなげて作られたと言われている。パキスタンは当初、インドの東西に国土を持って生まれた。しかし、経済的にも人口的にも豊かな東パキスタンと乏しい西パキスタンとの格差は大きかった。また、民族構成も東と西では大きく異なっていた。このことが後に東パキスタンがバングラディッシュとして独立する背景と なった

パキスタン、カシミール侵攻(10月)
カシミール藩王、インドへの帰属を受託(10月)

カシミール問題・・・ インド・パキスタン両国の分離独立に際して、マハラジャ(藩王)の支配下にあった約500もの藩王国は、インドとパキスタンどちらに帰属するかは自分達で決めて良いとされた。中国・インド・パキスタンと国境を接するカシミールの藩王は、カシミール独立を考えていた。しかし、カシミールの人口の70%はイス ラム教徒である。パキスタンはカシミールの独立を阻止しようと、1947年10月、カシミールに軍を派遣した。カシミール藩王はインドに保護を求め、インドもカシミールへ軍を派遣、軍事衝突へと発展した(第一次印パ戦争)。この軍事衝突は国連の調停によって停戦を迎えたが、その後もカシミールを巡ってインドとパキスタンは激しく対立している。

現在、カシミールではヒズブル・ムジャヒディンなどのパキスタン寄りの武装勢力が活動しているが、その背景には、パキスタン軍統合情報部(ISI)による 資金・武器・訓練の提供があると言われている。このように、カシミール問題は単にインド・パキスタン両国による領有権争いとしての性格だけではなく、インド支配地域でのイスラム教徒のエスニック問題としての側面も重要となってきている。さらに、インド・パキスタン両国とも政権への不満を外へ向けさせるためにカシミール問題を政治的に利用する傾向があり、問題を一層複雑なものとしている。

1948年
インド、パキスタンのカシミール侵攻を国連安全保障理事会に提訴(1月)
マハトマ・ガンジー暗殺される(1月)

gandhi ガンジー暗殺・・・インド独立の精神的指導者であり、ヒンドゥー教とイスラム教の融和を説いてきたガンジーは、1948年、急進派のヒンドゥー教徒が放った銃弾によって暗殺された。

インド軍、ハイデラバードを武力併合(9月)

1949年
カシミール休戦成立(1月)

1950年
インド憲法発布(1月)

1954年
インド政府、チベットを「中国の一地方」と承認(4月)

1955年
バンドン会議(4月)

1956年
ネルー、チトー、ナセル、非同盟運動を結成(7月)
パキスタンで新憲法発布。

1958年
パキスタンでクーデター発生。アユーブ・ハーンが政権の座に就く。

パキスタンのクーデター・・・ 独立後、ほぼ一貫して議会制民主主義を維持してきたインドとは対照的に、パキスタンは何度もクーデターによって政府が転覆し、独立後約半分の時期が軍政下におかれてきた。しかし、パキスタンでは民政・軍政にかかわりなく、政策決定過程では常に軍が大きな役割を果たしてきた。また、軍政であっても文民の政権参加を積極的に求め、民政移管を公約する場合もある。

1959年
ダライ・ラマ、インドへ亡命(3月)

1963年
中印紛争(10-11月)

中印紛争・・・ チベット仏教の指導者で、中国からのチベットの独立運動を唱えていたダライ・ラマが1959年にインドへ亡命。この事件によって中国とインドの関係は一気に悪化した。事件以降、中国・インド国境では小規模な小競り合いが頻発するようになっていたが、1962年10月、中国軍がインドの主張する国境線を越えて、インド軍への攻撃を開始した。この中印紛争は中国の圧倒的勝利のもとに終わり、中国はチベットへと通じる幹線道路を含む地域を占拠、その実効支配は現在も続いている。

1965年
第二次印パ戦争(9月)

第二次印パ戦争・・・ 1965年9月1日、カシミールでインド・パキスタン両軍が軍事境界線を越えて武力衝突。パキスタンが正規軍と戦車70両を投入して優位に立った。しかし、9月6日、インド軍はパキスタンとの国境の中央部にあたるパンジャブ平原からパキスタン領内への侵攻を開始。インド軍は快進撃を続けて商業都市ラホールに迫ったため、パキスタンは9月22日に国連の停戦協定を受け入れる。この戦争によって、パキスタンがカシミールで攻勢に出ても、総兵力で圧倒的優位を誇るインドはいつでもパキスタンの心臓部へ攻め込めることが浮き彫りとなった。

1971年
印ソ平和友好協力条約締結(8月)
第三次印パ戦争(12月)
バングラディッシュ誕生(12月)

第三次印パ戦争・・・ 1970年12月のパキスタン総選挙で、東パキスタンを地盤とするアワミ連盟が躍進、国民議会の過半数を占める。アワミ連盟と西パキスタンの政治・経済的優位を維持しようとする大統領やパキスタン人民党との対立が深まり、アワミ連盟のラーマン総裁は、東パキスタンの独立を要求する。このため西パキスタンは東パキスタンへ軍隊を派遣、バングラ人と内乱状態になる。1971年12月、インド軍が東パキスタン問題に武力介入を開始。パキスタンは14日間で無条件降伏し、東パキスタンはインドの支援のもとに「バングラディッシュ」として独立する。

この戦争によって、パキスタンは国土の2割近くと人口の60%を失うこととなった。一方インドはバングラディッシュの独立によって、東西パキスタンに挟ま れる形で受けていた軍事的圧迫のうち、東からの圧力を完全に除去することに成功した。さらにこの戦争の過程で、アメリカがソ連との対抗上重要な位置にあるパキスタンを失うことを怖れ、第7艦隊の空母エンタープライズをインド洋へ派遣してインドに停戦を迫ったことがあった。この事件を契機に、インドは海軍の増強に力を入れ、「外部の大国」の干渉を排除する方向性を模索し始める。

1972年
パキスタン、英連邦から脱退。

1974年
インド、ラージャスターン州ポクランで核実験(5月)

1977年
パキスタンでクーデター発生。ジヤウル・ハックが政権の座に就く。

1979年
ソ連軍がアフガニスタンへ侵攻

アフガン内戦とパキスタン・・・ 1979年、アフガニスタンへソ連軍が侵攻する。共産圏の拡大に危機感を募らせたアメリカはパキスタンへ大規模な軍事援助を行い、アフガンが共産化した場 合の西側諸国の防波堤にする計画を進めることとなった。また、ソ連と対立関係にあった中国もパキスタンへの軍事援助を行い、パキスタン軍の戦力は大幅に強化された。パキスタン軍統合情報部は、アメリカ中央情報局(CIA)と共にアフガンのイスラムゲリラへの支援を行った。しかし、ソ連軍がアフガンから撤退 すると、アメリカの関心は南アジアから遠ざかるようになり、今まで黙認してきたパキスタンの核開発にも口を挟み始め、軍事援助も停止された。このため、パキスタン国内で反米感情が高まった。

またパキスタン軍統合情報部によるアフガンゲリラへの支援は、冷戦後も継続された。特にパキスタンの難民キャンプを中心にパシュトゥン人によるイスラム原理主義勢力「タリバン」が組織され、アフガニスタンの大部分を実効支配するに至った。パキスタンが冷戦後もタリバンを支援し続けた背景には、アフガニスタ ンにパキスタンの友好政権を樹立する野心と共に、タリバンがカシミール方面でのインドへの反政府活動への支援を申し出てきたことがあると言われている。だが、やがてタリバンの行動はパキスタンの手に負えるものではなくなってゆき、逆にパキスタン国内へイスラム原理主義が浸透する格好となってしまった。

1985年
南アジア地域協力連合(SAARC)発足(12月)

1987年
インドがスリランカへインド平和維持軍(IPKF)を派遣

スリランカ紛争・・・ スリランカでは独立以来、多数民族のシンハラ人(仏教徒が多い)と少数民族のタミル人(ヒンディー教徒が多い)との対立が続いていた。シンハラ人の政権が シンハラ唯一政策を掲げ、シンハラ語を公用語にしようとすると、タミル・イーラム解放の虎(LTTE)などのタミル人過激派との武力紛争が激化した。このため、タミル人の一部が難民となってインドへ逃れた。事態を重く見たインド政府は、スリランカ政府と和平協定を結び、スリランカへインド平和維持軍を派遣した。ここには、南アジア域内の警察活動を自ら行うことにより、域外大国(アメリカや中国など)の干渉を防ごうとするインドの外交戦略もあったと言われて いる。しかし、インド平和維持軍はLTTEと全面的な戦闘に突入し、1990年までにスリランカから撤退することになった。

1988年
インド海軍、原子力潜水艦を導入(2月)
インド軍が短距離ミサイル「プリビト」発射実験成功(2月)
インドが国産地球資源探査衛星を打ち上げ(3月)

プリビト・・・ インド軍の地対地ミサイル。「地球」を意味する。推進装置はソ連の地対空ミサイルSA−2のもので、20年間の研究開発と5年間の評価テストを経て、 1997年から実戦配備された。タイプ1〜3まである。タイプ1の射程距離は150kmであり、配備地点はハイデラバード北方の陸軍ミサイル旅団であると言われている。タイプ2の射程距離は250kmであり、空軍が滑走路破壊用に用いると言われている。タイプ3の射程距離は350kmだが、これはまだ発射実験に成功していない。

1989年
インド軍が中距離ミサイル「アグニ」発射実験成功(5月)

アグニ・・・ インド軍の長距離ミサイル。「炎」を意味する。94年2月の発射実験をもってプロジェクトが終了するまで、3回の発射実験が行われ、射程距離は1450kmに達した。しかし、技術的にも資金的にもアグニの開発は様々な課題を抱えており、現状では実用化まで至っていないと見られる。

1993年
印中平和安寧条約締結(9月)

1996年
インド政府、包括的核実験禁止条約(CTBT)の署名を拒否(6月)

1998年
パキスタン、中距離ミサイル「ガウリ」の発射実験成功を発表

ガウリ・・・ ヒンドゥー王朝を倒しイスラム王朝を開いた英雄の名前を冠した核弾頭の搭載可能な中距離ミサイル。現在、ガウリ1(射程距離1,300km)、ガウリ 2(射程距離2,000km)、ガウリ3(射程距離3,000km)のシリーズが存在する。ガウリシリーズの技術開発と製造には北朝鮮が関与した疑いが持 たれている。

インド・パキスタン両国が相次いで核実験を行う(5月)

1999年
カシミール地方カルギルのインド支配地域にパキスタン側が武力侵攻、インド軍が空爆で撃退する(5月)
パキスタンでクーデター発生。ムシャラフが政権の座に就く。

2001年
アメリカで同時テロが発生。パキスタンはアメリカからアフガニスタン攻撃のための軍事協力を要請される。

学歴の収益率

written by 齊藤 貴義 on

私達の日常生活の中で「学歴」は将来の収入に影響するというイメージが存在します。このような学歴の実利の側面が、多くの人々が大学まで進学しようと思い、高学歴を巡って競争が発生する大きな要因となっていると考えられます。それでは、実際のところ、学歴が収入に及ぼす効果はどれくらいなのでしょうか。日本ではまだこの点について本格的な研究を行ったデータは極めて少ないのですが、教育経済学者の矢野眞和らによるいくつかの資料が存在します。それを 基に、学歴による収益率について考えてみましょう。

学歴による「収益率」とは何か

学歴収入の関係はどうなっているのでしょうか。私達は日常生活の中でこのようなことを深く考えないかもしれませんが、漠然と高学歴(中卒よりも高卒、高卒よりも大卒)の方が将来の就職や生活に有利であるというイメージを持っています。高い学歴を取得するにはそれだけ費用がかかりますが、それを補って余りあるほどの便益(利益)が将来に渡って継続すると思っています。そして、この漠然としたイメージが社会に広く行き渡っていることが、多くの人が高校あるいは大学に進学する大きな要因となっていると考えられます。もし学歴が何の実利も生まず、ただ何百万円も費用のみがかかるだけであったら、今より大学へ進学したいと思う人は ずっと少なくなるはずです。また、親も子供を大学へ行かせるための教育費を熱心に支出したいとは思わないでしょう。つまり、教育に費用を掛けるということは、将来への投資としての側面も持っていると言えます。

それでは実際のところ、大学へ進学した 場合には、進学しなかった場合に比べてどれくらい所得に差が出るのでしょうか。また、大学へ行くにはそれだけ費用がかかりますが、費用に対してどれくらい見返りとなる便益が期待できるのでしょうか。ちょっと複雑になりますが、この問題を考えてみましょう。

まず、大卒の平均的な生涯所得の推計値は3億1600万円(97年予測)であると言われています。一方、高卒の22歳以降の生涯所得は2億4500万円であると言われています。つまり、大学に進学した場合は進学しなかった場合よりも、平均して7000万円ほど生涯所得に差がつくことになります。したがって、この7000万円は大学教育の効果であると考えられます。しかし、この7000万円を得るには費用がかかっています。その費用とは、まず年間100万円ほどの大学の授業料が4年分含まれるでしょう。そして、大学進学者は、高卒のまま就職したら得られたであろう所得を4年分放棄しています。この放棄所得は4年間で1200万円ほどであると考えられています。授業料と放棄所得を合計した1600万円の費用を支出(放棄)することによって、7000万円の便益が生まれるわけです(もちろんこれは平均値であって個人差があります。個人によっては大卒の人でも高卒より下の年収で働く人もいれば、高卒の人が大卒を上回る所得を得る場合もあるでしょう。あくまで全体的に見た傾向であることに留意してください)。

それではこの「1600万円の費用によって生涯7000万円の便益が得られる」という状況をどのように解釈すれば良いのでしょうか。冒頭で、教育は将来への投資としての側面を持っていることを指摘しました。1600万円を投資した(貯金したと捉えても良いでしょう)と考えると、それが生涯に7000万円にまで増加する利子率は、複利計算をすると約6%となります。この6%の利子率が、教育という投資活動による収益率です。 1600万円かけて収益率6%の効果が期待できるということを大きいと見るか小さいとみるかは、それぞれの主観的な判断によるでしょう。超低金利の時代、 銀行に預金しても雀の涙くらいの利子しかつかないのに、6%もの利子が期待できるのは大きいと言えるかもしれません(あくまで平均値ですが)。あるいは、 1600万円も1度に支出しなければならないのに、その効果が徐々にしか出てこないのは小さすぎると考えることもできます。

国際的に見ると、日本の大卒学歴による収益率は低い水準にあるようです。98年のOECD(経済協力開発機構)レポートには17カ国の収益率が掲載されています。 そのデータでは、日本よりも収益率が低いのはスイスの5.5%だけです。アメリカは12.6%となっています。各国の単純平均も12.4%であり、日本の 2倍以上も収益率が高いことになります。「学歴社会」という言説が広く唱えられている日本ですが、実は諸外国に比べて学歴による所得格差が小さい社会であることはあまり知られていません。

私的収益率と社会的収益率の関係

所得には必ず税金がかかることになります。先ほどの収益率の説明で提示した大卒の生涯所得(3億1600万円)は、税引き前のものです。税引き後の所得を計算すると大卒では2億8100万円になると言われています。つまり、大卒が生涯に納める税金総額は3600万円ほどになると考えられます。この大卒の税金総額は、高卒の人が納めている税金と比較してどれくらい多いのでしょうか。この問題を考えるためには、(18歳以降ではなく)22歳以降の高卒の生涯所得を大卒の生涯所得 がどれくらい上回っているかを推計する必要があります。

22歳以降の高卒の生涯所得は2億3400万円であると言われています。したがって大卒の収益増加分は、税引き前では8200万円、税引後では6600万円となり、高卒よりも税金の支払額は1600万円増加している計算になります。この点を考えると、大卒者が1人増えるごとに政府は平均して1600万円の税収増が見込めることが分かります。大卒者の増加は、一見すると大卒の価値を下げ、大卒全体の収益率も減少しそうに見えますが、日本では大学進学者が急激に増加しても一貫して一定の収益率を維持しており、減少の傾向は見られていません。大卒者の増加によって、大きな収益を得られやすい(=税収増を生みやすい)産業構造へと変化していったことが要因になっていると考えられます。つまり、大卒者の増加は政府にとっても利益のある投資であると考えることができます。

今まで、大学進学が個人にとっても政府にとっても平均的に見て利益をもたらしていることを見てきました。それでは、(大学進学によって)より多くの利益を得 ているのは、個人でしょうか?政府でしょうか? 個人は大学の学費や高卒者4年分の機会費用を支出しています。一方、政府は国立大学に予算を支出し、私立大学にも私学助成金を支出しています。これらの点も含めて、大学教育の直接費用を暫定的に測定した矢野眞和の研究によると、国立大学においては私的収益率(個人の収益率)の方が社会的収益率(政府の収益率)よりも大きいという結果になりましたが、私立大学においては社会的収益率の方が私的収益率よりも大きいという結果になりました。つまり、国立 大学では政府よりも個人の方が収益率が高く、私立大学では個人よりも政府の方が収益率が高いというデータが得られたわけです。

国立・私立の社会的・私的収益率と教育の直接費用
矢野眞和『教育社会の設計』における暫定的な推計値
社会的収益率 (年間費用) 私的収益率 (年間家計負担)
国立大学
5.2%
(200万円)
6.3%
(50万円)
私立大学
6.1%
(120万円)
5.6%
(120万円)

国立大学は私的収益率>社会的収益率であり、私立大学は社会的収益率>私的収益率である構造。そして税金を払い、大学の学費も払うという構造。これらについては様々な解釈が可能であり、様々な議論が可能でしょう。また、ここで述べられているのはあくまで推計や単純なモデル化であって、現実には様々な要因が影 響してより複雑なものとなります。しかし最大の問題として考えなければならないのは、日本では政府機関でも大学でもこのような教育と経済の実証的な研究がほとんど行われてこなかったことです。イギリスは国が大学へ多額の支援金を支出していますが、その学費負担のあり方を巡って、政府機関の報告書でも私的収 益率や社会的収益率を用いた議論が展開されています。日本ではこのような実証的な研究成果はほとんど蓄積されておらず、何となくのイメージで国立大学の独立法人化、私立大学への私学助成金の減額などが議論されています。議論の前提段階として、実証研究への支援を行っていく必要があると言えます。

進学率の地域差

written by 齊藤 貴義 on

進学率の地域差に関する統計

大学・短期大学への現役進学率(2000年3月)
男子の進学率
女子の進学率
順位
進学率
順位
進学率
全国平均

01 愛知
02 兵庫
03 広島
04 京都
05 奈良

06 石川
07 富山
08 大阪
09 福井
10 滋賀

11 岐阜
12 静岡
13 山梨
14 東京
15 愛媛

16 三重
17 神奈川
18 徳島
19 岡山
20 福岡

21 栃木
22 香川
23 群馬
24 島根
25 和歌山

26 茨城
27 千葉
28 埼玉
29 大分
30 長野

31 山口
32 北海道
33 新潟
34 長崎
35 高知

36 鳥取
37 熊本
38 宮崎
39 秋田
40 宮城

41 佐賀
42 鹿児島
43 山形
44 青森
45 福島

46 岩手
47 沖縄

42.6

52.9
52.2
51.9
51.7
51.6

51.5
49.7
47.9
47.7
47.7

46.9
46.9
46.8
46.1
45.9

45.8
43.9
43.7
43.6
43.6

43.5
43.5
43.3
41.9
41.6

40.3
39.3
38.8
38.6
38.5

37.0
36.9
36.1
36.1
35.1

34.5
34.5
33.9
33.5
33.2

33.1
33.0
32.9
31.1
30.7

30.5
26.4

全国平均

01 京都
02 兵庫
03 奈良
04 東京
05 愛知

06 滋賀
07 広島
08 山梨
09 大阪
10 岡山

11 香川
12 神奈川
13 石川
14 徳島
15 愛媛

16 福井
17 三重
18 静岡
19 富山
20 和歌山

21 岐阜
22 長野
23 茨城
24 埼玉
25 山口

26 福岡
27 高知
28 大分
29 栃木
30 千葉

31 群馬
32 島根
33 鳥取
34 鹿児島
35 佐賀

36 長崎
37 宮崎
38 山形
39 秋田
40 熊本

41 新潟
42 福島
43 宮城
44 北海道
45 岩手

46 青森
47 沖縄

47.6

60.6
59.1
57.8
56.9
54.7

54.1
53.7
53.5
53.3
53.3

52.7
51.5
51.4
50.9
50.9

50.8
49.7
49.6
49.5
48.5

47.5
46.9
46.1
46.0
46.0

45.9
45.6
44.9
44.6
44.4

44.1
43.1
41.5
41.2
40.1

39.9
38.1
37.3
36.9
36.3

36.0
35.3
35.2
34.0
33.8

33.6
33.1

科学技術博物館

written by 齊藤 貴義 on

科学技術博物館では、科学技術に関する様々な情報を集めていきます。専用のパビリオンを設置し、何よりも科学に触れて楽しむということを重視していきたいと思っています。科学は遠い研究室のお話だけではなく、私達にとっても身近なものであり、そして楽しいものです。一緒に科学の世界を探求しましょう!
 

科学って何だろう?

科学というと、何だかとても難しい言葉を使って、難しいことをやっているようなイメージがありますね。でも、科学とは本来そんなに難しいものではありません。小学校や中学校の理科の授業を思い出してみてください。小学校や中学校の理科の授業では、様々な「実験」をした記憶があると思います。ヘチマを育てたり、リトマス紙に酢をつけてみたり、豆電球と電池の配列を変えてみたり・・・。そういう実験をするとき、皆さんはどんな目的を持っていたでしょうか?

先生は実験前に皆さんに何かプリントを配って、「実験をしたらこういう結果になる」ということを説明したり、「実験によってどういう結果になると思うか、自分の考えを書きなさい」などのような指示を出したりしたと思います。そして、本当にその結果が得られるかどうかを検証するために、実験が行われたと思います。

それが科学です。科学とは、仮説を立てて、その仮説が本当に正しいのかどうかを様々なデータや論理を使って検証する行為です。このことは、自然現象の解明を目指す自然科学でも、社会現象の解明を目指す社会科学でも、変わりはありません。

ただ、それだけではまだ充分とは言えません。科学には、「反証可能性」というものが必要です。たとえば、「明日世界は滅亡します。私の神様が、枕元でそのように告げてくださったからです」と主張する人がいたとします。この人の言っていることは科学的でしょうか? これは科学的とは言えません。なぜなら、神様が枕元で告げたとするデータや論理は、その人以外の誰も本当かどうか再検証することができないし、そのため、論理的に反論することができないからです。誰もが検証できるようなデータや論理ならば、「そのデータは古いから、最新のこちらのデータの方が正確だよ」とか「その論理ではこういう状況を説明できない」などの反論を行うことができます。このように科学は、反証可能性を認めつつ相互に欠点を補い合いながら発展してきました。

一昔前まで世界の多くの人々は、宇宙は地球を中心に回っていると考えていました。しかし、17世紀、ガリレオ・ガリレイは自作の天体望遠鏡で木星を観測し、木星を取り巻く4つの衛星が地球ではなく木星を中心に回転しているという事実を発見しました。このことから彼は、地球もまた衛星と同じように太陽の周りを回転しているのではないかと考えました。このガリレオの考えは、当時の社会の常識を根底から覆すもので、当時の人々に大変な衝撃を与えました。このため、彼は宗教裁判にかけられてしまいます。

このように科学は、事実をありのままに見ていくことを目指すために、世間の常識と対立することがあります。常識とは、ある場所、ある期間、ある時代に、多くの人々が「真実として検証されている」と信じている知識のことです。したがって、常識は必ずしもウソではありません。しかし、その検証の仕方が間違っていたかもしれないし、あるいは、その時には正しかったものが時が経つにつれて前提条件が変わってしまっているかもしれません(社会現象にはそういうことがよく起きます)。科学は、常識に対して「本当にそうだろうか」と疑うところから始まると言えます。

ガリレオの時代から400年が過ぎた現代、世界の多くの人々は、地球が太陽の周りを回転する惑星の1つであることを知っています。そして1989年、人類は1つの探査機を宇宙へと打ち上げました。その探査機の名は「ガリレオ」。「ガリレオ」は1995年に木星の周回軌道に到達し、木星の鮮明な画像データを地球に送信してきました。かつてガリレオが天体望遠鏡で観測した地球の遙かかなた、木星へと、「人類の眼」が届いたのです。これも反証可能性によって発展した「科学の力」です。(左上の画像はNASAのホームページより)

皆さんは、フライパンで魚を煮ることができますか? 魚を煮るには鍋が必要で、フライパンで魚を煮るなんてうまくいかないよ、と思うでしょう。しかし、だからといって「フライパンは役立たず」だと思うでしょうか? フライパンは確かに魚を煮るには適しませんが、魚を焼いたり、野菜を炒めたりするのには大きな力を発揮します。つまり、すべてに万能とは言えないが、その能力に適った使い方をするならば所定の効果を発揮できるわけです。

科学もこれと同じです。科学を批判する意見の中に、「科学はすべての疑問に答えられない」とするものがあります。確かにそのとおりです。科学はすべての疑問(特に私達の心の問題)に答えられるものではありません。しかし、だからといって「科学は役立たず」と言ってしまうのは正しくないでしょう。科学もまた1つの手段であり、目的を持って活用するならば有効な効果をあげることもできます。

そして、私達は「知ること」に喜びを感じる素敵な生き物でもあります。「科学者」を意味する”scientist”という単語は、1840年頃にヒューエルという人が使い始めたのが起源と言われ、実はまだ起源の浅い言葉です。では、それまでの科学者は何と呼ばれていたかというと、それぞれに興味のある分野を探求した「哲学者」と呼ばれていました。この考え方の名残は、現在でも「博士」を意味する”Ph.D.”の表記にも残っています。”Ph.D”の”Ph”は、”Philosophy”の略、つまり「哲学」の略です。科学者はごく限られた人しかなれませんが、知る喜びを忘れていないならば、人は誰もが哲学者(元々の意味の科学者)になれます。科学は決して遠い研究室のお話だけではありません。

美術館と文化資本

written by 齊藤 貴義 on

美術館では、美術に関する様々な情報を集めていきます。社会の中での美術の位置づけや、美術の歴史、現代美術の展開などについても取り扱っていく予定です。将来的にはネット上での美術作品も展示していくことも考えています。一緒に美術について考えてみましょう。

美術館に集まる人々

多 くの美術館は誰にでも開放されています。例えば「大卒以上でなければ入館できません」「農家の人は入館できません」などのように、その人の社会的な属性によって入場制限している美術館はほとんど存在しません。また、美術館の入館料も多くの人々にとって大きな負担になるような額ではありません。しかし、「開放されている」ことと「実際に行く」ことは別問題です。では、どういう人達が美術館へ行っているのでしょうか。

社会学者ブルデューら が1960年代にフランスの美術館に対して行った調査によると、観客全体に占める比率では、農業1%、生産労働者4%、商人・職人5%、事務職および中級 管理職23%、上級管理職・専門職45%となっていました。全就業者の5%に満たない上級管理職・専門職が観客の4割以上を占め、就業人口の4割近くを占めるはずの生産労働者は美術館の観客全体の4%でしかなかったのです。

観客の好む「好きな画家」
ブルデュー他『美術愛好』(1969年)
無回答 19世紀までの
西欧絵画
印象派絵画 現代絵画
庶民階級
67%
18%
10%
5%
中流階級
36
32
22
10
上流階級
21
48.5
14
16.5
全体
30
36
21
13

左の表は、ブルデューらがヨーロッパの主要美術館の観客に対し、好みの画家の流派や時代について調査した結果をまとめたものです。まず、「好きな画家」を挙名できるかどうかに階級差があることが分かります。庶民階級で好きな画家を挙名できた者は3分の1にすぎないのに対し、上流階級では8割が何らかの回答をしています。また、印象派の作家を挙げた者は各階級でそれほど差もなく存在しますが、(形式的要素への興味と中立化された対象関与などが鑑賞の鍵となる) 現代絵画の画家を挙げた人の割合は庶民階級と上流階級とで3倍以上の開きがあります。

ブルデューは、現代美術のように高度に抽象化された絵画を「鑑賞できる」のは、生まれつきの先天的な才能によるよりも、どれくらい鑑賞に必要な知覚を自分のものとして集められるかという、後天的な要素によるところが大きいと考えました。そしてこの鑑賞に必要な知覚は、財産のように各階層それぞれにばらつきがあると考え、それを芸術資本と呼びました。象徴財としての芸術作品そのものは、それを解読しうる鑑賞眼、すなわち芸術資本が必要であると説いたわけです。

D. ホールがニューヨークで行った調査でも、「家に抽象画がある」とする者は都心上層階級では60%に上ったのに対し、郊外労働者階級では5%にすぎませんで した。さらに、「抽象画なんて、アスファルトにしたたり落ちたペンキの跡を壁に飾っているようなものさ」(ニューヨーク郊外の大工)という言葉のように、 抽象画を「ばかばかしい」とし、上層の芸術趣味をもったいぶった態度で揶揄する「反芸術」の言辞を用いていることも確認されました。(この点は、P.ウィ リスの指摘した反学校文化とも関連性があると考えられます)

一 方、上層階級の側については、ブルデューが「意識的に学ぶこと」なしに美的性向が獲得される傾向にあると指摘しています。実際、ブルデューらがインタビューしたパリの上層階級の少女は、両親から何の圧力を受けることもなく意図も努力も感じさせずに広汎な教養を示すことができました(下記参照)。

「美 術館にはよく行きますか?」「あまり行きません。リセではあまり美術館には行かなくて、歴史博物館に行くことの方が多いですね。両親はどちらかというと劇 を見に連れていってくれます。美術館にはあまり行きません」「好きな画家は?」「ヴォン・ゴッホ、ブラック、ピカソ、モネ、ゴーギャン、セザンヌなんか。 でも、現物は見たことがありません。家で画集を見て知ったんです。ピアノは少しやります。それだけ。音楽を聴くのは大好きだけど、自分で弾くのはあんまりね。バッハ、モーツァルト、シューベルト、シューマンなんかはたくさんあります」「ご両親は読書を勧めますか?」「自分の読みたい本を読みます。家にはたくさん本があるから、読みたいと思った本をとるんです」(大学教授の娘、13歳、古典教育課程第4学級(日本の中学2年から3年に相当))

こうした態度形成は、第一に芸術作品への時間をかけた日常の慣れ親しみ、第二に親たちの非指示的ですが暗示に満ちた言葉や見方の取り込み、第三に知識としてよりも慣習的行動としてのそれらの内化(身体化)などが要因として挙げられると考えられます。

日本の学歴別美術館訪問者
山下雅之「美術館と教養」より
総サンプル数は5128
大学卒・在学 45%
短大高専卒・在学 14%
専門学校 7%
高校卒・在学 19%
中学校 2%
NA 8%
その他 5%

上 記の例はあくまでフランスを中心とした欧米の事例であり、日本では欧米ほど上層と下層の芸術資本の格差が広がっていないことが各種の研究で明らかになっています。しかし、美術館が幅広く人々を呼び込もうとする企画を打ってもなかなか人が集まらないこと、芸術的素養が先天的なものであると思われがちなことなどは、この芸術資本の視点からも分析を行っていく必要があるように思います。

銭湯の現状

written by 齊藤 貴義 on

銭湯は現在でも多くの人々にとって身近な存在であると同時に、国家や地方自治体の公衆衛生政策の中で様々な変遷を遂げてきた施設でもあります。このページでは銭湯に関する資料を集めていきます。

都道府県の入浴料金

銭湯の入浴料金については、旧厚生省による「公衆浴場入浴料金の統制額に指定等に関する省令」に基づき、各都道府県の知事が決定する価格となります。省令に関してはこちらのページを参照してください。最近は公衆浴場の数が減少しているため、入浴料金の値上げを検討している県も多いようです。

都道府県名
施行年月日
入浴料金(円)
大人
中人
小人
洗髪
北海道
平成13年 9月 1日
370 140 70
青 森
平成 9年 7月29日
350 150 60
岩 手
平成10年 4月15日
350 100 70
宮 城
平成 9年 4月20日
360 140 80
秋 田
平成12年 4月 1日
360 130 90
山 形
平成 7年 4月 1日
300 120 80
福 島
平成10年 3月10日
350 130 80
茨 城
平成10年 3月 1日
350 130 70
栃 木
平成13年 3月10日
370 150 80
埼 玉
平成12年10月 1日
380 180 70
群 馬
平成 9年12月 1日
360 150 70
千 葉
平成 9年11月 8日
385 170 70
東 京
平成12年 5月21日
400 180 80
神奈川
平成11年 8月 1日
400 180 80
山 梨
平成11年12月24日
350 170 70
長 野
平成13年 3月10日
360 150 70
新 潟
平成 9年11月 1日
350 140 70
静 岡
平成10年 3月10日
340 120 60
愛 知
平成12年 7月19日
380 150 70
岐 阜
平成13年 4月 1日
360 150 70
三 重
平成 8年 1月 1日
300 150 70
石 川
平成 9年10月15日
350 130 50
富 山
平成11年 5月25日
350 120 60
福 井
平成12年 9月25日
350 120 60
滋 賀
平成13年 3月 1日
355 140 80
京 都
平成12年10月 1日
350 140 60
大 阪
平成12年10月20日
360 130 60 10
兵 庫
平成11年 7月10日
340 130 60
奈 良
平成13年 2月 1日
350 140 80
和歌山
平成12年 1月15日
340 140 80
岡 山
平成 9年 3月10日
310 130 60 40
広 島
平成11年12月 1日
350 150 70
山 口
平成 9年 2月15日
340 150 80
鳥 取
平成12年 9月 1日
310 120 60
香 川
平成 9年 2月 1日
300 110 60
愛 媛
平成 9年 5月 1日
300 120 60
徳 島
平成 8年 4月 1日
300 100 60
高 知
平成13年 4月 1日
330 130 60
福 岡
平成12年 6月 1日
370 170 60
長 崎
平成 9年11月10日
300 150 80
佐 賀
平成 8年 2月15日
280 130 80 50
大 分
平成 5年12月 1日
300 140 70
熊 本
平成10年 3月 1日
330 120 60
宮 崎
平成 9年 4月 1日
300 130 60
鹿児島
平成12年 4月20日
330 130 70
沖 縄
昭和55年11月 6日
200 100 70 30

東京都の公衆浴場対策協議会と入浴料金の推移

東 京都の入浴料金は、「公衆浴場対策協議会」で決算書をもとに原価を計算し、東京都知事が告示しています。この協議会では、(1)公衆浴場入浴料金の改定に 関すること、(2)確保浴場の選定に関すること、(3)施設確保対策事業の推進に関すること、(4)その他公衆浴場対策に関することなどを協議していま す。協議会は都知事が依頼した、学識経験者7人以内、利用者代表4人以内、業界代表4人以内、関係行政機関の代表4人以内の合計19人以内をもって構成さ れます。

施行年月日
入浴料金(円)
大人
中人
小人
洗髪
昭和23年 3月 5日
昭和23年 8月 1日
10 10
昭和26年10月 1日
12 10 10
昭和28年 2月 7日
15 12 10
昭和32年11月 1日
16 12 10
昭和35年 7月 1日
17 13 10
昭和37年 1月 2日
19 15 10
昭和38年 9月 1日
23 15 10
昭和40年 6月 7日
28 15
昭和42年12月18日
32 15
昭和44年 3月31日
35 15 10
昭和45年 5月 1日
38 20 10
昭和46年 5月23日
40 20 10
昭和47年 5月21日
48 20 10
昭和48年 6月11日
55 25 10
昭和49年 5月 7日
75 30 15
昭和50年 5月 7日
100 50 20
昭和51年 5月 7日
120 60 25
昭和52年 5月 7日
140 60 25
昭和53年 5月 7日
155 70 30
昭和54年 5月 7日
170 80 30
昭和54年12月21日
180 80 30
昭和55年 5月21日
195 90 40
昭和56年 5月 7日
220 90 40
昭和57年 5月 7日
230 110 60
昭和58年 5月 7日
240 120 60
昭和59年 5月14日
250 120 60
昭和60年 5月 7日
260 120 60
昭和62年 5月12日
270 130 60
昭和63年 5月16日
280 140 70
平成 1年 5月10日
295 145 70
平成 2年 5月14日
310 150 70
平成 3年 5月20日
320 150 70
平成 4年 5月18日
330 150 70
平成 5年 5月14日
340 160 70
平成 6年 5月18日
350 170 70
平成 7年 5月18日
360 170 70
平成 8年 5月18日
370 170 70
平成 9年 6月20日
385 170 70
平成12年 5月21日
400 180 80

公衆浴場法

公衆浴場法

昭和23年7月12日 法律第139号
昭和23年7月15日 施行
最終改正 平成6年 法律84号

第一条(定義)
1 この法律で「公衆浴場」とは、温湯、潮湯又は温泉その他を使用して、公衆を入浴させる施設をいう。
2 この法律で「浴場業」とは、都道府県知事(保健所を設置する市又は特別区にあつては、市長又は区長。第七条の二を除き、以下同じ。)の許可を受けて、業として公衆浴場を経営することをいう。

第二条(経営の許可、配置基準)
1 業として公衆浴場を経営しようとする者は、政令の定める手数料を納めて、都道府県知事の許可を受けなければならない。
2 都道府県知事は、公衆浴場の設置の場所若しくはその構造設備が、公衆衛生上不適当であると認めるとき又はその設置の場所が配置の適正を欠くと認めるとき は、前項の許可を与えないことができる。但し、この場合においては、都道府県知事は、理由を附した書面をもつて、その旨を通知しなければならない。
3 前項の設置の場所の配置の基準については、都道府県が条例で、これを定める。
4 都道府県知事は、第二項の規定の趣旨にかんがみて必要があると認めるときは、第一項の許可に必要な条件を附することができる。

第二条の二(相続・合併)
1 浴場業を営む者(以下「営業者」という。)について相続又は合併があつたときは、相続人(相続人が二人以上ある場合において、その全員の同意により当該浴 場業を継承すべき相続人を選定したときは、その者)又は合併後存続する法人若しくは合併により設立した法人は、営業者の地位を継承する。
2 前項の規定により営業者の地位を継承した者は、遅滞なく、その事実を証する書面を添えて、その旨を都道府県知事に届け出なければならない。

第三条(衛生・風紀の措置)
1 営業者は、公衆浴場について、換気、採光、照明、保温その他入浴者の衛生及び風紀に必要な措置を講じなければならない。
2 前項の措置の基準については、都道府県が条例で、これを定める。

第四条(入浴の拒否)
営業者は伝染性の疾病にかかつている者と認められる者に対しては、その入浴を拒まなければならない。但し、省令の定めるところにより、療養のために利用される公衆浴場で、都道府県知事の許可を受けたものについては、この限りでない。

第五条(有害行為の禁止)
1 入浴者は、公衆浴場において、浴そう内を著しく不潔にし、その他公衆衛生に害を及ぼす虞のある行為をしてはならない。
2 営業者又は公衆浴場の管理者は、前項の行為をする者に対して、その行為を制止しなければならない。

第六条(報告の要求・立入検査)
1 都道府県知事は、必要があると認めるときは、営業者その他の関係者から必要な報告を求め、又は当該吏員に公衆浴場に立ち入り、第二条第四項の規定により付した条件の遵守若しくは第三条第一項の規定による措置の実施の状況を検査させることができる。
2 当該吏員が前項の規定により立入検査をする場合においては、その身分を示す証票を携帯し、且つ、関係人の請求があるときは、これを呈示しなければならない。

第七条(行政処分)
1 都道府県知事は、営業者が第二条第四項の規定により附した条件又は第三条第一項の規定に違反したときは、第二条第一項の許可を取り消し、又は期間を定めて営業の停止を命ずることができる。
2 前項の規定による許可の取消しに係る聴聞の期日における審理は、公開により行わなければならない。

第七条の二(指定都市等の特例)
この法律に別段の定めがあるもののほか、この法律中都道府県が処理することとされている事務又は都道府県知事の権限に属するものとされている事務で政令 で定めるものは、地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)第二百五十二条の十九第一項の指定都市(以下「指定都市」という。)及び同法第二百五十二条の 二十二第一項の中核市(以下「中核市」という。)においては、政令で定めるところにより、指定都市若しくは中核市(以下「指定都市等」という。)が処理 し、又はこの法律中都道府県又は都道府県知事に関する規定は、指定都市等又は指定都市等の長に関する規定として指定都市等又は指定都市等の長に適用がある ものとする。

第七条の三(再審査請求)
第二条、第四条ただし書、第六条第一項又は第七条第一項の規定により保健所を設置する市若しくは特別区の長が行う処分又は前条の規定により指定都市等の長が行う処分についての審査請求の裁決に不服がある者は、厚生大臣に対して再審査請求をすることができる。

第八条(罰則)
次の各号の一に該当する者は、これを六月以下の懲役又は一万円以下の罰金に処する。
一 第二条第一項の規定に違反した者
二 第七条第一項の規定による命令に違反した者

第九条(同前)
第六条第一項の規定による報告をせず、若しくは虚偽の報告をし、又は当該吏員の立入検査を拒み、妨げ、若しくは忌避した者は、これを二千円以下の罰金に処する。

第十条(同前)
次の各号の一に該当する者は、これを拘留又は科料に処する。
一 第四条又は第五条第二項の規定に違反した者
二 第四条の規定により営業者が拒んだにもかかわらず入浴した者又は第五条第一項の規定に違反した者

第十一条(両罰規定)
法人の代表者又は法人若しくは人の代理人、使用人その他の従業者が、その法人又は人の業務に関して、第八条、第九条又は前条第一号の違反行為をしたときは、行為者を罰するほか、その法人又は人に対しても、各本条の罰金又は科料を科する。


附 則 (抄)

第十三条
この法律の施行の際、現に従前の命令の規定により営業の許可を受け、又は営業の届出をして、浴場業を営んでいる者は、第二条第一項の許可を受けたものとみなす。

第十四条
1 昭和二十三年一月一日から、この法律の施行の日までに新に浴場業を営み、この法律の施行の際現に浴場業を営んでいる者は、この法律の施行の日から、二月間は、第二条第一項の規定にかかわらず、引き続き浴場業を営むことができる。
2 前条の規定に該当する者は、この法律施行後二月以内に、都道府県知事にその旨を届け出なければならない。
3 前項の届出をした者は、第二条第一項の許可を受けたものとみなす。


附 則 (平成5年11月12日 法律89)(抄)

第一条(施行期日)
この法律は、行政手続法(平成五年法律第八十八号)の施行の日(平成6年10月1日)から施行する。

第十四条(聴問に関する規定の整理に伴う経過措置)
この法律の施行前に法律の規定により行われた聴聞、聴問若しくは聴聞会(不利益処分に係るものを除く。)又はこれらのための手続は、この法律による改正後の関係法律の相当規定により行われたものとみなす。

第十五条(政令への委任)
附則第二条から前条までに定めるもののほか、この法律の施行に関して必要な経過措置は、政令で定める。


附 則 (平成6年7月1日 法律84)(抄)

第一条(施行期日)
この法律は、公布の日から施行する。(後略)

第十三条(その他の処分、申請等に係る経過措置)
この法律(中略)の施行前に改正前のそれぞれの法律の規定によりされた許可等の処分その他の行為(以下この条において「処分等の行為」という。)又はこ の法律の施行の際現に改正前のそれぞれの法律の規定によりされている許可等の申請その他の行為(以下この条において「申請等の行為」という。)に対するこ の法律の施行の日以後における改正後のそれぞれの法律の適用については、(中略)改正後のそれぞれの法律(これに基づく命令を含む。)の経過措置の関する 規定に定めるものを除き、改正後のそれぞれの法律の相当規定によりされた処分等の行為又は申請等の行為とみなす。

第十五条(その他の経過措置の政令への委任)
この附則に規定するもののほか、この法律の施行に伴い必要な経過措置は政令で定める。

公衆浴場の確保のための特別措置に関する法律

公衆浴場の確保のための特別措置に関する法律

公布:昭和56年6月9日法律第68号
施行:昭和57年4月1日
改正:平成11年5月28日法律第56号
施行:平成11年10月1日

第一条(目的)
この法律は、公衆浴場が住民の日常生活において欠くことのできない施設であるにかかわらず著しく減少しつつある状況にかんがみ、公衆浴場についての特別措 置を講ずるように努めることにより、住民のその利用の機会の確保を図り、もつて公衆衛生の向上及び増進に寄与することを目的とする。

第二条(定義)
この法律で「公衆浴場」とは、公衆浴場法(昭和二十三年法律第百三十九号)第一条第一項に規定する公衆浴場であつて、物価統制令(昭和二十一年勅令第百十八号)第四条の規定に基づき入浴料金が定められるものをいう。

第三条(国及び地方公共団体の任務)
国及び地方公共団体は、公衆浴場の経営の安定を図る等必要な措置を講ずることにより、住民の公衆浴場の利用の機会の確保に努めなければならない。

第四条(貸付けについての配慮)
1 国民生活金融公庫又は沖縄振興開発金融公庫は、その業務を行うに当たつて、公衆浴場を経営する者に対し、その公衆浴場の施設又は設備の設置又は整備に要する資金を貸し付ける場合には、通常の条件よりも有利な条件で貸し付けるように努めるものとする。
2 前項の通常の条件よりも有利な条件を定めるに当たつては、この法律の施行の際現に定められている条件及びその後の通常の条件の推移等を勘案して、有利なものになるように配慮するものとする。

第五条(助成等についての配慮)
国又は地方公共団体は、公衆浴場について、その確保を図るため必要と認める場合には、所要の助成その他必要な措置を講ずるように努めるものとする。


附 則

この法律は、昭和五十七年四月一日から施行する。


附 則 [平成11年5月28日法律第56号] [抄]

第一条(施行期日)
この法律は、平成十一年十月一日から施行する。

公衆浴場の設置場所の配置及び衛生処置等の基準に関する条例

公衆浴場の設置場所の配置及び衛生処置等の基準に関する条例

昭和39年 8月 1日
東京都条例第184号
[沿革]昭和45年10月22日条例143号、55年7月18日第79号、平成3年12月25日第91号、11年7月23日第80号改正

第1条(趣旨)
公衆浴場法(昭和23年法律第139号。以下「法」という。)第2条第3項の規定による公衆浴場の設置の場所の配置の基準及び法第3条第2項の規定による 浴場業を営む者(以下「営業者」という。)が講じなければならない公衆浴場についての換気、採光、照明、保温及び清潔その他入浴者の衛生及び風紀に必要な 措置の基準は、この条例の定めるところによる。

第2条(設置場所の配置の基準)
温湯等を使用し、男女各一浴室に同時に多数人を入浴させる公衆浴場であって、その利用の目的及び形態が地域住民の日常生活において保健衛生上必要な施設と して利用されるもの(以下「普通公衆浴場」という。)の設置の場所は、既設の普通公衆浴場と次の距離(浴場本屋の四壁中最近の部分間でこれを測定する。) を保たなければならない。ただし、土地の状況、構造設備、予想利用者の数、人口密度等を考慮し、法第2条第1項の許可を行う者(以下「許可権者」とい う。)が公衆衛生上必要であると認める普通公衆浴場の設置場所については、この限りでない。
1 設置場所が特別区の区域であるとき 200メートル以上
2 設置場所が市町村の区域であるとき 300メートル以上
法第2条第1項の規定により許可を受けた公衆浴場のうち、普通公衆浴場以外の公衆浴場(以下「その他の公衆浴場」という。)を普通公衆浴場に変更しようとするときは、前項の規定を適用する。
一部改正[昭和55年79号・平成3年91号]

第3条(衛生及び風紀に必要な措置の基準)
普通公衆浴場の営業者が講じなければならない入浴者の衛生及び風紀に必要な措置の基準は、次のとおりとする。
1 下足箱、脱衣室、浴室、便所、廊下その他入浴者が直接利用する場所は、床面において20ルクス以上の照度を有するようにすること
2 浴場の施設は、常に清潔を保持し、下足箱、脱衣室、浴室、便所、廊下、洗いおけ、腰掛けその他入浴者が直接利用する施設及び設備は、毎日一回以上掃除し、又は洗浄すること。
3 脱衣室及び便所は、毎月一回以上消毒すること。
4 浴場の設備は、ねずみ、衛生害虫等の生息状況について毎月一回以上点検し、適切な防除措置を講ずること。
5 洗い場及び下水溝は、水流を良好にし、汚水を滞留させないようにすること。
6 浴槽水の水質基準については、次のとおりとすること。ただし、許可権者は、この基準(ハの基準を除く。以下この号において同じ。)により難く、かつ、公衆衛生上支障がないと認めるときは、この基準の一部又は全部を適用しないことができる。
イ 濁度は、5度以下とすること。
ロ 過マンガン酸カリウム消費量は、1リットルにつき25ミリグラム以下とすること。
ハ 大腸菌群数は、1ミリリットル中に1個以下とすること。
7 浴槽水は、常に満杯を保ち、湯栓及び水栓には、清浄な湯水を十分補給すること。
8 浴槽水は一日一回以上換水すること。
9 善良の風俗を害するおそれのある文書、絵画、写真、物品、広告又は装飾設備を置き、掲げ、又は設けないこと。
10 手ぬぐい、くし、かみそり等を入浴者に貸与しないこと。ただし、入浴者一人ごとに消毒した清潔なものを貸与するときは、この限りでない。
11 10歳以上の男女を混浴させないこと。
12 物品の販売等を行うときは、入浴機能及び清潔保持を阻害しないようにすること。
13 下足箱、脱衣室、便所、浴室及びかま場は、それぞれ区画して設けること。
14 下足場には、入浴者の履物を安全に収納し、又は保管するための設備を設けること。
15 脱衣室及び浴室は、それぞれ男女を区別し、その境界には障壁を設ける等相互に、かつ、浴場外から見通せない構造とすること。
16 脱衣室の床面積は、男女各15平方メートル以上とすること。
17 脱衣室の床面は、リノリウム、板等の不浸透性材料を用いること。
18 脱衣室には、入浴者の衣類その他携帯品を安全に収納し、又は保管するための設備を設けること。
19 入浴者用便所は、脱衣室から入浴者の利用しやすい場所に、男子用及び女子用を区別して設け、流水式手洗いを備えること。
20 脱衣室及び浴室には、採光のための設備を設けること。
21 脱衣室及び浴室には、室内を適温に保つために必要な設備を設けること。
22 脱衣室及び浴室には、換気のための開口部又は換気に必要な機械設備を設けること。
23 洗い場の床面積は、男女各15平方メートル以上とすること。
24 洗い場の床面は、不浸透性材料を用い、滑りにくい仕上げとすること。
25 洗い場には、浴室の床面積5平方メートルにつき、湯栓及び水栓を各1個以上設け、湯又は水であることを表示すること。
26 洗い場は、適切なこう配を付し、浴室内の使用後の湯水を屋外の下水溝等に、完全に排出させる構造とすること。
27 浴室内の浴槽の床面積は、男女各4平方メートル以上とすること。
28 浴槽は、タイル等耐水材料を用い、浴槽内には、入浴者に直接熱気及び熱湯を接触させない設備をすること。
29 屋外に浴槽を設けるときは、次のとおりとすること。
イ 屋外の浴槽及び浴槽に附帯する通路等は、適当な広さのものを設けること。
ロ 屋外の浴槽に附帯する通路等には、脱衣室、浴室等の屋内の保温されている部分から直接出入りできる構造とすること。
ハ 屋外には、洗い場を設けないこと。
ニ 屋外の浴槽は、それぞれ男女を区別し、その境界には障壁を設ける等相互に、かつ、浴場外から見通せない構造とすること。
30 入浴者の見やすい位置に、浴槽水の温度を明示するための温度計を設けること。
31 ろ過器等を使用して浴槽水を循環させるときは、入浴者の誤飲等による事故を防止するための措置を講ずること。
32 貯水槽及び調節槽は、ふた付きとすること。
33 排水溝、排水ます等は、耐水材料を用い、臭気の発散及び汚水の漏出を防ぐために必要な設備をすること。
34 かまは、浴槽水と上がり湯とが混合しないものを使用すること。
35 灰、燃え殻等が発生し、又は置かれる場合には、灰、燃え殻等の飛散を防ぐために必要な設備をすること。
36 入浴者用飲料水の設備をするときは、その旨の表示をすること。飲料水の水質については、水道法(昭和32年法律第177号)第4条第1項に定める要件につ いて、それぞれ水質基準に関する省令(昭和53年厚生省令第56号)に定める水質基準に適合するものとし、かつ、浴用貯水槽を経由しないで供給すること。
37 入浴機能及び清潔保持を阻害するおそれのある設備を設けないこと。その他の公衆浴場の営業者が講じなければならない入浴者の衛生及び風紀に必要な措置の基 準は、第1号に規定する公衆浴場にあっては前項第1号から第12号まで、第2号に規定する公衆浴場にあっては前項第1号から第13号まで、第15号、第 17号、第21号、第24号、第26号、第28号及び第30号から第37号までに規定する基準のほか、当該各号に定めるところによる。

1 風俗営業等の規則及び業務の適正化等に関する法律(昭和23年法律第122号)第2条第6項第1号に該当する公衆浴場
イ 従業員に、風紀を乱すおそれのある服装をさせないこと。
ロ 従業員に、風紀を乱すおそれのある行為を行わせないこと。
ハ 各個室の床面積は、5平方メートル以上とすること。
ニ 待合室は、適当な広さのものを設けること。
ホ 従業員用休憩室は、適当な広さのものを設け、従業員用鍵付きロッカーを備えること。
ヘ タオルの保管用戸棚は、個室以外の適当な場所に設けること。
ト 入浴者用便所は、入浴者の用に供する施設がある各階に、入口から男子用及び女子用を区別して設け、流水式手洗いを備えること。
チ 個室内は、個室の出入口から見通しのきく構造配置とすること。
リ 個室の出入口は、幅0.7メートル以上、高さ1.8メートル以上とし、扉等を設けるときは、その扉等の適当な位置に0.3メートル平方以上の透明ガラス窓を設ける等の措置をし、遮へい物を設けないこと。この場合扉には、鍵を付けないこと。
ヌ 個室には、使用のたびに浴槽水を取り替えることができる浴槽又は湯及び水の出るシャワー並びに適当数の湯栓及び水栓を設けること。
ル 個室内には、換気のための開口部又は換気に必要な機械設備を設けること。
ヲ 個室内には、適当な脱衣場所及び入浴者の衣類その他携帯品を収納するための設備を設けること。
ワ 個室内の照明用電灯は、一つのスイッチで全部を点滅できる装置とすること。
カ 個室内には、蒸し機等熱気による入浴設備を設け、適当な位置に熱気の温度を明示するための温度計を設けること。
ヨ 個室内には、入浴に必要でない物を置かないこと。ただし、入浴者の所持する物は、この限りでない。
タ 午前零時から日出時までの時間において営業を行わないこと。
2 前号に規定する公衆浴場以外のその他の公衆浴場
イ 入浴者の履物安全に収納し、又は保管するための設備を設けること。
ロ 脱衣室は適当な広さのものを設けること。
ハ 脱衣室には、入浴者の衣類その他携帯品を安全に収納し、又は保管するための設備を設けること。
ニ 浴室は、適当な広さのものを設けること。
ホ 浴室内には、浴槽又は湯及び水の出るシャワー並びに適当数の湯栓及び水栓を設けること。
ヘ 脱衣室及び浴室には、換気のための開口部又は換気に必要な機械設備を設けること。
ト 熱気による入浴設備を設けるときは、適当な位置に熱気の温度を明示するための温度計を設けること。
チ 屋外に浴槽を設けるときは、前項第29号の規定に準じた構造とすること。
リ 入浴者用便所は、入浴者の用に供する施設がある各階に、入口から男子用及び女子用を区別して設け、流水式手洗いを備えること。
一部改正[昭和45年条例143号・55年79号・平成3年91号・11年80号]

第4条(基準の特例)
前条の規定にかかわらず、普通公衆浴場の営業者にあっては同条第1項第16号、第23号、第25号及び第27号に規定する基準について、同条第2項第2号 に規定するその他の公衆浴場の営業者にあっては同条第1項第15号に規定する基準について、土地の状況、建物の種類、施設の規模その他特別の理由によりこ れらの基準により難い場合であって、かつ、許可権者が公衆衛生上支障がないと認めるときは、これらの基準によらないことができる。
一部改正[昭和55年条例79号・平成3年91号]

第5条(委任)
この条例の施行について必要な事項は、東京都規則で定める。


附 則
1 この条例は、公布の日から施行する。
2 公衆浴場衛生措置基準等に関する条例(昭和23年9月東京都条例第110号)及び公衆浴場設置場所の配置の基準に関する条例(昭和25年11月東京都条例第76号)は、廃止する。
3 この条例施行の際、現に法第2条第1項の規定により許可を受けている公衆浴場の営業者が講じなければならない入浴者の衛生及び風紀に必要な措置の基準のう ち構造設備に関するものについては、この条例第3条の規定にかかわらず、この条例施行の日から1年間(第3条第1項第19号。同条第2項第2号ニ及び同条 同項同号へに規定する基準については、この条例施行後最初の改築または大修繕をするときまでの期間)は、なお従前の例による。


附則(昭和45年10月22日条例第143号)
この条例は、公布の日から施行する。


附則(昭和55年7月18日条例第79号)
この条例は、公布の日から施行する。


附則(平成3年12月25日条例第91号)
1 この条例は、公布の日から施行する。
2 この条例による改正後の公衆浴場の設置場所の配置及び衛星措置等の基準に関する条例第2条の規定は、この条例の施行の日以後に申請を受理した公衆浴場法 (昭和23年法律第139号)第2条第1項の公衆浴場の営業の許可(以下「営業の許可」という。)に係る配置の基準から適用し、同日前に申請を受理した営 業の許可に係る配置の基準については、なお従前の例による。

附則(平成11年7月23日条例第80号)
この条例は、公布の日から施行する。

墓地とは何か

written by 齊藤 貴義 on

私達人間は誰か大切な人が亡くなると墓をつくります。そして墓の中に亡くなった人の遺体を埋めます。このような営みは、人類が文明を築くはるか以前から確認されてきました。私達人間の一つの特徴として「墓をつくる生物である」ということが挙げられるかもしれません。しかし、「死」の解釈が文化・宗教によって多様に存在するのと同様に、墓への思いも文化によって多様に存在することに注意する必要があります。

日本人の墓地と葬儀

現代の日本では火葬した骨を土中に埋めて、その上に石を置いた墓が一般的ですが、沖縄の南西諸島の一部では風葬の習慣が今でも根強く残っています。南西諸島の風葬では、死体は島の洞窟などに安置され、自然に白骨化するのを待ちます。そして白骨になったら、洗骨をし、遺骨をかめの中に入れて、また洞窟の中に置きます。私達が通常行っているような墓参りや年回法要などは存在せず、肉親が遺体をかえりみることもほとんどありません。

南西諸島では、人は死ぬとカミになると考えられています。人間にとって最も大切なのは、肉体ではなくタマシイであると考え、タマシイのぬけがらである遺体に執着するよりも、タマシイに対する祭祀が念入りに行われます。実はこのような発想は大昔の日本本土にも広く存在しました。本土でも近畿地方や関東地方を中心に、遺体を埋めた場所に立てる「埋墓」と、タマシイを祭る「詣墓」という二つの墓が存在する「両墓制」を採用していた地域がありました。両墓制の地域での墓参りは埋墓よりは詣墓を中心に行われていたようです。

また、「葬式仏教」という言葉に象徴されるように、日本では、葬儀や先祖供養と仏教が密接な関係にあると思われがちです。例えば家族の誰かが亡くなると、お寺の僧侶がきて経文を読みます。死者に対して戒名や法名が与えられます。そして一定の期間が過ぎるごとに、法要や年忌が僧侶を招いて行われます。しかし、仏教の開祖である釈迦が説いた教えでは、実は葬儀や供養はほとんど触れられていません。釈迦自身も、自分が死んでも葬式は在家の信者に任せて、弟子達は修行に励むように、と教えています。このため、インドの仏教徒の葬式は、7世紀後半ごろまで火葬場で簡単な経文を読み上げるだけでした。法要についても、インドの初期仏教では中陰の習俗、つまり死後49日まで7日間ごとに供養をする習俗が成立していましたが、百日忌、一周忌、三回忌などが加わったのは、儒教の国・中国に仏教が伝わってからのことです。さらに七回忌、十三回忌、三十三回忌を加えて十三仏事が成立したのは、日本に仏教が入ってきてからのことです。なぜ日本では仏教と葬儀が密接に結びつくようになったのでしょうか。

近代ナショナリズムと墓地

東京の千鳥が淵には戦没者墓苑があります。アメリカのアーリントンには国立墓地があります。いずれも戦争で亡くなられた方々の遺骨を集め、(複雑な政治事情によって)宗教性を取り払った埋葬施設として運営されています。しかし、このように国家の政策として戦没者のための墓地がつくられるようになったのは、近代になってからのことです。なぜ近代になってから、国家は墓地をつくる必要性が生まれたのでしょうか。コーネル大学のベネディクト・アンダーソンは、この「無名戦士の墓」をナショナリズムとの関係で次のように指摘しています。

無名戦士の墓と碑、これほど近代文化としてのナショナリズムを見事に表象するものはない。これらの記念碑は、故意にからっぽであるか、あるいはそこに誰が眠っているのか誰も知らない。そしてまさにその故に、これらの碑には、公共的、儀礼的敬意が払われる。これはかつてまったく例のないことであった。それがどれほど近代的なことかは、どこかの出しゃばりが無名戦士の名前を「発見」したとか、記念碑に本物の骨を入れようと言い張ったとして、一般の人々がどんな反応をするか、ちょっと想像してみればわかるだろう。奇妙な、近代的冒とく! しかし、これらの墓には、だれと特定しうる死骸や不死の魂こそないとはいえ、やはり鬼気せまる国民的想像力に満ちている。(これこそ、かくも多くの国民が、その不在の住人の国民的帰属を明示する必要をまったく感じることのない理由である。<そこには>ドイツ人、アメリカ人、アルゼンチン人・・・以外、だれが眠っていよう。)

こうした記念碑の文化的意義は、たとえば、無名マルクス主義者の墓とか自由主義戦没者の碑とかをあえて想像してみれば、さらに明らかとなろう。いいしれぬ滑稽さを感ぜずにはおられまい。それは、マルクス主義も自由主義も、死と不死にあまり関わらないからである。一方、ナショナリズムの想像力が死に関わるとすれば、このことは、それが宗教的想像力と強い親和性を持っていることを示している。この親和性は決して偶然ではない。(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』より)

ドメスティック・バイオレンスとは何か

written by 齊藤 貴義 on

本来ならば愛情で深く結びついているはずの、カップル、そして夫婦・・・。しかし、近年になって「ドメスティック・バイオレンス」という行為が社会問題として注目されるようになってきました。ドメスティック・バイオレンスとは、男性の恋人や夫が女性に向けて行う「暴力」のことです。

ドメスティック・バイオレンスとは何か

ドメスティック・バイオレンスとは、「親密な関係」にある男性(恋人・夫など)から女性に対して行われる暴力を指します。教育レベル、収入、職業などに関係なく、様々な女性がこのドメスティック・バイオレンスの被害に遭っています。ドメスティック・バイオレンスは近年になってから注目されるようになった社会問題ですが、その歴史は古く、また、私達にとってとても身近な問題です。1998年に東京都民4500人を対象にして行われた調査によると、女性の3人に1人がパートナーの男性から身体的暴力を受けた経験を持ち、2人に1人が精神的暴力を受けた経験があると解答しています。また、日本の殺人事件の女性被害者の約3割は、夫もしくは内縁の夫によるものと言われています。さらに離婚調停を申し立てる女性の3分の1は夫の身体的暴力を理由にあげています。

ドメスティック・バイオレンスの種類は、殴る・蹴るなどの身体的暴力だけではありません。主要なものだけでも、次のようなことが該当します。

▼身体的暴力
殴る、蹴る
平手打ちする、棒で叩く
腕をねじ上げる、組み伏せる
かみつく、首をしめる、突き飛ばす
髪を引っ張る、たばこの火を押しつける、熱湯をかける
刃物で刺す、車でひく

▼精神的暴力
「出て行け」「口答えするな」と怒鳴る
高圧的な態度に出る
物を投げつける、物をこわす、おどす
外出や電話をこまかくチェックする
無視をする、欠点を挙げる
他人の前で恥ずかしい思いをさせる
実家や友人とのつきあいを邪魔する、禁止する
手紙を勝手に開ける、持ち物を勝手に点検する

▼性的暴力
セックスを強要させられる、レイプされる
望まない妊娠や中絶を強要する
避妊や性病予防に協力しない
無理やりポルノビデオやポルノ雑誌を見せたり、写真を撮る

▼経済的暴力   
生活費を渡さない
仕事をやめさせて経済的自由を奪う
酒・ギャンブル・女性で生活費を使い込む
健康保険証を取り上げ病院に行けないようにする
財布や定期券を取り上げ通勤や外出をさせないようにする

▼子どもを利用した暴力
子どもに暴力を見せる
子どもに自分の無理な要求を押しつける
子どもを取り上げる
子どもを危険な目にあわせる

専業主婦とは何か

written by 齊藤 貴義 on

専業主婦は近代社会の産物であると言われています。農業が中心だった前近代社会では人々は男女を問わず生産労働に従事していたためです。専業主婦はなぜ近代になって出現し、いかなる機能を果たしてきたのか。また、現在の専業主婦を巡る危機とは何なのか。情報を集めていきます。

専業主婦とは何か

専業主婦とは何でしょうか。専業主婦は職業ではありません。家事や育児は共働きの夫婦やシングルマザーも行っていますし、近年では家事や育児を行う企業やそこで働く人々も存在します。そして、そのような家事産業に頼って、家事や育児をほとんどしない専業主婦もいます。家族社会学者の山田昌弘は、専業主婦を「自分の生活水準が夫の収入に連動する存在」と定義しています。専業主婦はそれ自体に自立的な収入を持たないため(したがって年収100万円程度のパートをしている主婦も専業主婦に含まれます)、その生活水準が夫の収入に大きく左右されます。

このように夫の収入に連動した(依存した)「専業主婦という立場」が成立したのは、実はごく最近になってからのことです。近代化が進む前の社会では、多くの人々が農業や製造業に従事していたため、妻も貴重な労働力として生産活動に従事していました。近代化によって、産業の巨大化・集約化が進むにつれ、企業で長時間勤務する労働者が必要となりました。ここに、専業主婦が誕生する社会的適合性があったわけです。専業主婦の成立によって、夫は家庭の雑事を主婦に任せて働くことができ、主婦が子供の世話と教育投資を行うことによって知識や技能を持った新たな労働者が生み出されました。

このようなシステムは、社会が継続的に成長していくこと、つまり労働者が妻子を養える給料が安定的に給付されることによって支えられていました。妻にとっても、生産活動に従事しないですむ専業主婦は魅力的にうつったわけです。そして、「夫は仕事の中で、妻は家庭の中で、一生懸命努力すれば豊かな生活が築けるという夢が出現しました。企業は終身雇用制・年功序列賃金制で労働者を保護し、経済は成長を続けたため、夢は現実のものとして受け止められました。家庭によって夫の年収に違いはあっても、夢が現実であるように感じさせる要因が長期間持続したため、専業主婦は存続し続けられたわけです。

しかし、この状況も今や大きく変わりました。経済の長期低迷、終身雇用制・年功序列賃金制の崩壊、収入格差の拡大、リストラに伴う失業率の増大などによって、夫の収入も職も継続して維持・拡大し続けられるものとは限らなくなり、社会の不確実性が高まりました。このことが今、専業主婦に深刻な危機をもたらしています。

1つは、夢によって覆い隠されてきた「夫の年収から来る専業主婦間の格差」が「目に見える現実」となってきたということです。夫の年収が高い専業主婦ならば、カルチャーセンターに通ったり、スポーツクラブでテニスをしたり、ボランティア活動をしたり、高価な服で着飾ったり広い家に住んだりもできます。「お受験」に際しても、子供に対して多額の教育投資を継続できるでしょう。一方、夫の年収が低い専業主婦の場合、自分がどんなに努力しても、なかなか年収の高い専業主婦のような生活水準を維持することは困難です。

家事労働のページで、妻がどれくらい家事に努力するかが評価基準となる(家事の苦労は愛情作用と連動している)ことを書きましたが、それ以外にも、PTAや井戸端会議などでは、それぞれの主婦がどのような生活をし、何を着て、夫がどのような仕事をし、子供がどのような教育環境にあるかが話題の中心となります。専業主婦の「自尊心」は、ここでどれくらい自分が「他と同じ環境にあること」を確認できるかにかかっています。安定成長の時代ならば、多少それぞれの家庭間の格差が存在しても、「いずれは夫の収入も伸びて、あの家庭と同じような生活を送れるようになる」という夢を抱き続けることができました。しかし、その夢が必ずしも保証されるものではなくなってきました。したがって専業主婦の「自尊心」のジレンマは解消されることなく現状への大きな不満となります。

また、夫の失業可能性の増大は、専業主婦の生活の直接的危機ともなります。夫が失業したら主婦も働く必要がでてきますが、スキルのない主婦には給与の安いパート労働以外なかなか働き口がありません。パート労働の収入程度では、家族の生活を支えていくことも、子供の教育費を払っていくことも容易ではありません。つまり、現在の社会状況において「専業主婦」であることは、極めてリスクの高い選択になりつつあるわけです。

このように専業主婦は、心理的にも経済的にもその存立基盤を失おうとしています。すでにアメリカでは、1955年に77%であった専業主婦率が、1999年には22%まで低下しています。まだ日本では、基礎年金制度や所得税の配偶者特別控除など様々な社会制度によって専業主婦を支える構造があり、パラサイト・シングル(親に自分の生活を依存した独身者)の女性で専業主婦志向が高いため、専業主婦へのあこがれイメージが残存しています。ですが、制度面のバックアップがあっても夫の失業や収入減少のリスクは補えるものではありませんし、パラサイト・シングルや取り柄のない女性を結婚対象として考えない男性も増加しています(その反対に収入の低い男性を結婚対象として考えない女性も増加しています)。専業主婦というシステムは曲がり角に差し掛かりつつあるといえます。