Personal tools

アジアの世紀(東京大学総長杯争奪学生弁論大会原稿)

written by 齊藤 貴義 on

つい最近まで、「21世紀はアジアの世紀」といわれていました。アジア経済が急速な成長を遂げ、世界経済の成長センターとして一気に浮上してきたのです。当時、アジアは将来の先進国入りを目指し、活気に満ちていました。そのような中、アジアの指導者たちは自文明に自信を持ち、欧米の価値観に異を唱え、大アジア主義を前面に持ち出すようになりました。権威主義国の人権外交批判や西欧型民主主義批判はその典型的な例です。

しかし、今や状況は大きく変わりました。経済危機がアジアを直撃したのです。各国の経済成長は大きく落ち込み、都市は失業者であふれました。アジアの世紀を主張した者たちはすっかり声をひそめ、大アジア主義を唱えた国々では暴動が起きています。現在のアジアは、経済と政治の混乱のまっただ中にあり、アジアの世紀は来ない、アジア的価値観は普遍性がない、というアジア悲観論的な認識が強まってきています。しかし、アジアは本当に悲観すべき地域なのでしょうか。

アジアの経済発展の土台となったのは、資本主義体制でした。資本主義の概念は、もともと欧州で成立した近代経済学からうまれてきたものです。また、アジアの経済発展を可能としたのは、欧州から始まって世界大に拡大した近代世界システムに他なりません。近代世界システムとは、資本主義が進んだ地域が遅れた地域を搾取し、遅れた地域がより遅れた地域を搾取するという、中心、準周辺、周辺の三極からなる巨大システムであります。

何のことはないです。結局のところアジアは、欧米の用意した近代経済学というレールに乗り、近代世界システムの枠内を中心に向かって驀進したにすぎないのです。そのため、経済発展からアジアの優越を唱えたところで、それは所詮、「釈迦の掌の上の孫悟空」の域を出ません。仮にアジアが世界経済の中心になっても、それは欧米の構築した近代世界システムの継続にすぎず、アジアの世紀ではないのです。実際、アジアの勃興は、環境問題や資源の枯渇、南北格差、地域紛争の激化といった近代世界システムの限界に対し、何の解決策も示すことができませんでした。

つまり私が何を言いたいかというと、今までのアジアの経済発展は、欧米のシステムの延長線上の出来事にすぎないということです。したがって、経済成長は、思想的、政治システム的な意味での「アジアの世紀」を到来させるものではなかったのです。裏を返せば、経済成長の失敗は、アジアの世紀の実現を何ら妨げるものではない、というわけです。

私はむしろ、今こそアジアが21世紀をリードしていく好機だと考えます。経済危機によって、アジアの傲慢な心は一掃されました。そして一時的には達成した経済的豊かさが、人間疎外、過度な競争、環境破壊、物の浪費と欲望の拡大といった、欧米近代の弊害を、人々に見せつけました。今、アジアには、懐疑的な心と謙虚な心が混在し、新たな思想や政治システムが非常に出現しやすい環境にあるのです。問題は、その可能性を、どの方向にのばしていくかであります。

私は「伝統の発見」こそが、今後のアジアが目指していくべき道であると考えます。伝統の発見とは、地球規模の問題群の噴出とその解決策の発見を遅らせている欧米近代の弊害を是正するための、かつてのアジア的価値観の再構築であります。欧米諸国がアジアを植民地にし、近代世界システムに組み込む以前、アジアには中華文化圏やイスラム文化圏など様々な世界単位が存在しました。それらの世界単位の政治システムや思想には、欧米文化に根を下ろした近代世界システムにはない、数多くの発想があったのです。

たとえば東南アジアには、いずれ捨てることを前提として都市を建設する世界単位がありました。その世界単位は、中央集権体制でも完全移住生活でもなく、インスタント都市で経済活動を行い、ある程度のうまみを得たら、別の場所に都市を建設するのです。このような活発な移住活動は、様々な海洋都市のネットワークに支えられていました。捨てることを前提とした拠点建設は、文化的、社会的な差を差し引いても、省エネや環境破壊に頭を悩ます現代に、その解決の糸口を示すものなのではないでしょうか。このように、アジアの世界単位が独自に持っていた知恵を現代へと当てはめてみることは、非常に有益であります。

伝統の発見は、帝国主義時代にも行われたことがありました。真の敵は工業文明そのものであるとしたガンジーのヒンドゥー・スワラージ、近代国家構想に中華思想を取り入れようとした孫文の三民主義などです。彼らに呼応したアジアの民族運動も、欧米の市民革命と異なり、運動に最初から大衆が直接登場し、その大衆参加はあらゆる民族や宗教の違いをも越えていたのです。

このように、近代世界システムやその基本単位である国民国家に対抗可能な伝統が復活しかかっていたにも関わらず、その試みは失敗に終わりました。欧米諸国の脅威への対抗や近代化と民族自決を急いだ結果、欧米のコピーのような国民国家が成立し、アジアは自らの手で伝統を破壊してしまったのです。日本などはその代表的な例であり、宗教の融和によるガンジーの民族運動も、人々が独立を急いだため二つの国民国家を生み挫折しました。このように、アジアは時代的、状況的に恵まれず、欧米のまねをせざるをえませんでした。しかし、国民国家や近代世界システムの限界が露呈し、欧米の相対的重要性が低下した今こそ、欧米近代との第2ラウンドを挑むべきであり、その過程で行われる伝統の発見の成功確率は高いと言えるのではないでしょうか。

伝統の発見のためには、アジアの大衆に根ざした学術体系が必要です。アジア各国は、アジアの政治学、経済学、歴史学、文化人類学などの諸分野を統合したアジア歴史政策学の確立を急ぐとともに、大衆レベルでのアジア的価値観の議論が可能となるようにするべきです。さらに、それがアジアの唯我独尊に陥らないよう、欧米近代の普遍的部分やアジアの欠点を素直に認め、より高度で現実的な学術体系を築いていく必要があります。そして、以上の過程を経て完成した現代版アジア的価値観を、今の政治システムの中に、各国が協調して段階的に取り入れていくのです。

アジアは、世界で最も古い歴史と伝統を持ち、常に世界に貢献しうる思想や政治システムを生み出してきました。近代世界システムで病んだ世界を建て直す。私はこれこそが今のアジアに課せられた、古く、そして新しい使命であり、その方向へ総力を傾ければ、必ずや21世紀はアジアの世紀になるであろうと思います。経済成長という一面的な変化でのみアジアの世紀が語られてきたことを反省し、新たな方面からアジアが次世紀をリードできる可能性が高いことを再度指摘しつつ、弁論を終えたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

総合メディア創設計画(法政大学春秋杯争奪弁論大会優勝弁論)

written by 齊藤 貴義 on

まず私は、一つの例え話をしたいと思います。ある町に大きな工業団地をつくることになりました。それは行政側が町の活性化策の一環として建設を開始したものですが、建設予定地にはもともと緑豊かな自然が存在し、住民の多くは工業団地建設を望んではいません。その様なとき、マスメディアはこれを「住民の意思を無視した行政」として社会問題化し、住民の声を流して世論に訴えます。

しかし、それがある町の問題ではなく、教育問題の時はどうでしょうか。教育をどう動かしていくか決定するのは、二十歳以上の大人達によって選ばれた政治家、そして官僚、さらに末端では教育委員会や現場の教師たちです。彼らの決定がもし、教育の当事者である子供達にとって好ましくないもの、マイナスなものであった時、子供達は町の住民達のように自分達の声を社会全体へと伝えていくことができるでしょうか。

いいえ、できません。なぜなら、子供達は現在教育を受けている段階であり、未熟であると判断されているからです。私がこの例を持ち出して何が言いたかったかというと、つまりは社会一般で当然と考えられている当事者の意思の尊重が、こと教育については、子供達の未熟性から通用しないということです。したがって、教育の根幹部分は、責任ある大人達によって運営するものとされ、子供達の視点や意見は無視されてきたのです。

このような大人社会による教育運営は、教育が社会の要請に沿うものでなければならない以上、当然の帰結であったと考えることができます。しかし、当然の帰結であることに大人達はおごりすぎていたようです。住民の声を反映しない行政が、いずれは独善的かつ強権的になってしまうように、教育のありかたもいつの間にか、社会の意向をあまりにも押しつけすぎて、当事者である子供達に対して好ましくないもの、時代背景にそぐわないものが多くなってきました。そしてまた、子供達にその不満を発言する場を提供してこなかったことが、彼らのストレスを高めています。

そのために大人側は、「子供達が何を考えているのか見えない」という状況に陥り、子供達も「発言したいことがあるのに言える場がない」ということになり、その結果、親・教師と子供とのコミュニケーションが寸断され、受験体制による偏差値至上主義、いじめ、援助交際、学級崩壊、ナイフ事件など、社会そのものを崩壊させかねない様々な問題を噴出させました。もはや今までの教育方式の限界は決定的となり、今や巨大な害悪を生み出す元凶にすらなってしまったのです。

そのような社会全体の危機に対し、マスメディアでは評論家や学者、ジャーナリストが登場して議論を重ね、官僚や政治家が対策を立ててはいますが、今までほとんど効果がなかったのが実状です。なぜなら、先程も述べましたように、現場の十代の子供達の声が完全に無視されているので、問題の核心、そして改善へと向かわせる方策が見当はずれなものとなってしまっているからです。

最近、NHK等のメディアで、十代の子供を直接番組に登場させ、その意見を伝えていこうという試みが始まりました。「見えなくなった十代」を再び発見しようというわけです。実は私も、まだ高校生であった昨年の夏、TBSのニュース23のその様な企画に参加した一人であります。しかし、私がそれらの番組を見て、あるいは実際に参加して強く感じたのは、所詮はこれらも大人達の用意した「場」における限定的な発言であり、教育問題の根本解決にはならないということです。例えば私の参加した番組などでは、数多くの高校生から参加希望の申し込みが殺到したにもかかわらず、局側が面接や口頭試験で四十名のみ選び出し、しかも放映時間も実質四十分程度でした。そのため、局側から「発言はできるだけ手短に、数分以内に」と事前に言われ、実際に発言した人は全体の三分の二程度、さらにその多くが、一回のみの発言でした。これでは十代の声をお茶の間まで届けるには、明らかに不完全です。しかし、TBS、あるいはNHKでそのような番組が放映されたときには、すさまじい反響がわき起こりました。TBSについて言うならば、極には無数のFAXや電話が届き、さらに私達の話し合った内容に対する十代から大人までの様々な人々、あるいは知識人の意見が、新聞、雑誌などのメディアから、断続的にですが長期間にわたって流され続けたのです。そこに私は、新たな時代の兆候を感じたのです。

以上のような現状分析の観点に立ち、私は提案します。現在の状況を打開する手段は一つしかありません。それは、十代の少年少女の自主運営による総合メディアの創設であります。その総合メディアを通じて、十代の意見を同じ世代へ、そして社会全体へと直接発信していくのです。

そのメディアで様々な社会問題が議論されることは、十代の問題意識を高め、自分達で解決していこうという自浄作用が生まれるのはもちろんのこと、さらにその議論を経て出た結論は、社会の側に改革の一つの指針を示すことにもなります。もちろん、十代の子供達はまだ意見を言うには未熟でありますし、多様な意見が数多く出すぎて収拾がつかなくなることも考えられます。しかし、まずもってそのような生の声をあらゆる人々へ直接ぶつけることこそ、意義あることなのです。

私が考える十代の総合メディアとは、インターネットを中心に、テレビ、ラジオ、雑誌などをリンクさせた多面的なものを考えています。具体的には、まず十代の少年少女有志による運営機関を組織し、彼らの活動拠点となるホームページをインターネット上に作成します。そこで十代の声を集めたり、十代の文化活動を進めたりします。集まった情報はそのままホームページで公開し、重要な内容、伝えきれなかったことを他のメディアを通じて発信していくのです。日本の現在の情報技術環境を考えれば、多面的ネットワークの実現は十分可能であります。また、高度情報化が進む現代において、情報の発信は非常に低コストなものになろうとしています。したがって、メディアの創設および維持に関わる費用は、それほど大きなものとはならず、企業のスポンサーがつく、または文部省の事業の一つとなれば、簡単に実現できます。

TBSの例が示すように、その様な情報は確実に十代から大人を対象とした幅広い人々の関心を集め、商業主義の観点からも成功は間違いありません。メディアの運営が軌道に乗れば、地方組織を設置し、よりミクロな声や活動を十代のネットワークに組み入れることも可能となります。

そして、そのように子供達が大量の情報発信システムを持つことは、国連総会で採択された子供の権利条約第12条、自分に関係する全ての事柄について意見を表明する権利、第13条、あらゆる種類の情報および考えを求め、受け、かつ伝える権利を、日本が保障する国であるということを内外に伝えることにもなります。

このように、十代の総合メディア創設の成果は幾重にも重なってとても大きなものとなり、最終的には子供達を取り巻く教育環境や社会全体を活性化させることへとつながっていくのです。

私は、十代の総合メディアネットワークの形成、そしてそれによる十代どうしの交流や子供と大人の相互意思疎通と決定こそが、21世紀の教育のあるべき姿であると考えます。20世紀までの社会は、極端に一方的な教育決定システムを築き上げてきました。そのシステムの限界が、教育の硬直化と社会問題の発生、それによる、社会の要請に沿う人材の育成という教育本来の目的の破綻という形で顕在化してきました。今こそ私達は、発想の転換が必要なのです。メディアでの様々な声のぶつかり合いこそが、未来型教育システムの新たな姿を覗かせるのです。

以上で私の弁論を終わります。ご清聴ありがとうございました。

全世界的安全保障(全関東学生雄弁連盟 新人弁論大会弁論原稿)

written by 齊藤 貴義 on

東西冷戦の終結後、世界大戦の危機は大きく遠のきました。それに伴って世界各国は大規模な軍縮にとりかかろうとしています。例えば核兵器をめぐっては、NPT(核不拡散条約)やCTBT(包括的核実験禁止条約)の交渉が開かれています。

しかし今年の5月、インドが世界の動きに逆行して核実験を行い、核兵器の保有を宣言、さらにそれに呼応してパキスタンも同様の措置をとりました。このことは、NPT体制を根底から崩壊させかねないという懸念もあります。7月上旬にインドは再び核実験を予定しているという情報もありますし、イスラエルやイランといった潜在的核保有国が南アジアの動きに呼応しないとも限りません。さらに、対立関係にあるインド・パキスタン両国による核保有は、偶発的核戦争の危機も含んでいます。両国の核保有の原因となったカシミール領土紛争や中国の脅威を考えると、つまりは各国が個別の安全保障政策をとることは、国際社会全体の安定がくつがえされかねない要因となりうるということであります。

今までは民族自決や内政不干渉の原則、あるいは大国の論理によって、国際社会は各国の個別の軍事政策に口を出すことは制限されてきました。しかし今や経済のグローバル化が進み、一国、一地域の不安定要因が世界経済及び国際社会全体に深刻な影響をもたらすようになりました。そろそろ各国は自国の発展は世界の安定なしにはありえず、それは自国独自の安全保障政策より優先することを自覚するべきです。すなわち、国際社会の意向にそう形で自国の軍事を決定する全世界的安全保障へと発想の転換がせまられているのです。

多くの人はここまで話を聞いた段階でこう考えると思います。現在の世界には国連による平和維持軍が存在し国際社会の意に反する侵略行為に制裁を加え、地域紛争の解決へ乗り出している。その平和維持軍の機構を改善、強化することによって、各国が全世界的安全保障など考えずとも世界の安定は保たれるのではないか、と。しかしそれは大きな間違いです。なぜなら国連平和維持軍は国際社会をゆるがすような軍事行動を未然に阻止することは出来ないからです。たとえば大国の行う核実験や突然の侵略戦争を未然に防ぐことは出来ません。また、高度化する各国の軍事力を抑制するためには、国連は大規模な戦力を常に維持、展開させる必要があり、いずれ限界に達します。そして国連平和維持軍の介入が必ずしも事態の解決へと結びつかないことは、旧ユーゴスラビアやアフリカでの平和維持活動を見ても明らかであります。

国連平和維持活動は、全世界的安全保障の一つの類型であるかもしれません。しかしその機能がもともとは個別的安全保障の維持のためにあり、そして究極的には軍事力という物理的強制力に頼っているために、不完全であり限界があるのです。

核拡散や侵略行為、軍拡競争などを未然に防ぐことが出来ないのは国連の限界の現れであり、そういった個別の国家のエゴのつみかさねが国際社会をますますアナーキーなものにしようとしています。このことは平和を望む各国の国民にとっても、安定を志向する世界経済にとっても重要な脅威であります。現実的に当面は国連平和維持軍の整備、強化と安全保障理事会の地位確立によって世界の安定を守っていくべきですが、そのシステムが限界にさしかかる前に全世界的安全保障の具体的ヴィジョンを描き、それへ向けての段階的なプロセスをふんでいくことが重要であります。

では、その全世界的安全保障の具体的ヴィジョンとは何か。それは、主権の共有であります。つまり、各国が個々に持っている軍事力を世界各国が共同で管理することであります。さらに具体的に申しましょう。まず世界中すべての国に安全保障委員会という機関を設置します。そしてその国ごとに設置された安全保障委員会を各国の国防の中枢にするのです。安全保障委員会には、指揮権以外のすべての軍事に関する決定権を与えます。例えば軍隊の規模やその役割などを安全保障委員会で決定させます。さらにその委員会の構成を、その半数はその国の国民によって選出された代表者達があたるとし、残りの半数を各国の派遣した代表によって構成するとします。つまり、従来は行政府及び立法府集中していた軍事に関する権限を安全保障委員会に付与することにより、各国の個別軍事力を全世界的安全保障コントロールのもとにおくのです。

この安全保障委員会による全世界的安全保障は、従来の国連平和維持活動と比較して、武力紛争や軍拡の未然防止、大国の論理の消滅と軍縮、世界全体の経済発展といった三つの大きな効果をもたらします。一点目の武力紛争や軍拡の未然防止ですが、これは国際社会の意に反する軍事行為や兵器の開発に対し、安全保障委員会の各国代表が共同で拒否権を発動することが出来るため、その防止を実現することが出来るのです。2点目の大国の論理の消滅と軍縮につきましても、安全保障委員会はすべての国に等しく設置され、そこでは大国も小国も等しく一票を持つわけですから、例えば政治や経済の目的達成のために大国が力でもって小国を脅すという行為は阻止されます。阻止されるわけですから、大国は国策遂行のために強大な軍事力を展開させる必要性がなくなり、小国は大国への対抗手段として自国の国防力を強固にする必要性もなくなります。したがって大規模な軍縮が可能となるわけです。そして以上の二点が、国際社会の安定と軍事予算の削減につながり、三点目の世界全体の経済発展の扉を開くのです。

個別的安全保障から全世界的安全保障へ。そのヴィジョンについて今述べましたが、果たしてその安全保障委員会なるものが本当に実現できるか、単なる机上の空論ではないかと思われるかもしれません。しかし私は、必ずや国際社会は全世界的安全保障体制へと到達できると確信しております。なぜなら先程も述べましたように、経済のグローバル化が進展するにつれて、国際社会の全体の利益を考えることがますます重要となってきております。そしてまた、軍事の諸民族による共同管理こそが、国家や民族の自己決定能力を高めることにつながるのではないでしょうか。将来、世界中の諸国家が大国、小国の区別なくそれらのことを強く自覚し、全世界的安全保障へと向かっていくと思います。

個別的安全保障が全世界的安全保障より圧倒的優位に立つ現状にあって、国際社会の潮流は一国一地域によって簡単に変えることができます。軍拡や侵略行為、武力による威圧を防ぐことはできません。しかし、私たちの世界にとって今最も必要なものは何でしょうか。それは、戦車でも戦闘機でも核兵器でも、侵略行為に対して抑止力を行使できない国際社会でもありません。必要なものは、道路であり学校であり病院であります。まだまだそれらが不足している地域はたくさんあります。産業の豊かなめぐみを全世界へいきとどかせる、安定した平和な国際社会こそ必要なのです。そのためには人類は、全世界的安全保障を個々の国家に実行させることが不可欠であります。以上で私の弁論を終わります。ご清聴ありがとうございました。

戦後日本の民主主義について

written by 齊藤 貴義 on

55年体制期の政党間の主要な対立軸を中心に

1.はじめに

本論は、戦後の政党間における政策論争の主要な対立軸の分析を通じて、戦後日本の民主主義について考察し、その感想を記述していくことを目的とする。政党は、その発生の起源や本質においても、社会生活の中で自由に結成される自発的な集団だが、その目的は権力機構の獲得にあり、目的達成のために有権者に政策を提示する(1)。現代の複雑な社会の統合には、「社会と国家の架け橋」(E.バーク)としての政党の果たす役割は大きく、議会における政党間の論争は現代の民主主義の不可欠な要素となっている。したがって、政党間の論争の対立軸を分析して、その構造を知ることは、戦後日本の民主主義を把握する際の1つの指針となるであろう。

なお、本論においては、政党間の政策論争のうち、1955年の日本社会党の左右両派の統一や自由党と民主党の保守合同以降、1993年まで続く自由民主党による単独政権の持続期、いわゆる55年体制期における論争を主眼とする。55年体制期における論争には、単独講和以降の政党間の主要な争点である安全保障問題が含まれているし、1993年以降の政界再編の動きがいまだ流動的であり、客観的で歴史的な評価を行っていくことが困難であるためである。

2.55年体制期における政党間論争の主要な対立軸への考察

議会制民主主義の制度化において権力機構を獲得するためには、選挙の際に有権者から多数の票を獲得しなければならない。政党が最も主体的・計画的に有権者に対してアピールすることによって選挙に影響を与えることができるのは政策である(2)。1955年から1990年までの衆・参両院の国政選挙で、明示的であった各選挙期における一般的な政策争点と、政府・与党が比較的、積極的に打ち出した政策上のアピールを、政策分野別に頻度が多い順に並べると、安保・防衛、外交・通商、税制、政治倫理・民主化、景気・物価、社会福祉、教育、経済計画・財政金融の順となる(3)。

このことから、当時の政党間の争点アピールが、国家の基本政策、特に防衛問題に偏ったものであったことが読みとれる。防衛問題における論争とは、朝鮮戦争以降の事実上の再軍備と日米安全保障条約という軍事同盟、さらには憲法第九条の改正を掲げる保守政党(自由民主党など)と、非武装中立による平和主義と東側諸国との全面講和を唱える革新政党(日本社会党など)、さらにはその中間に位置する小政党による対立である(このうち、中間に位置する小政党の主張は政治的関心の高い有権者の支持を集めることができず、政治的に重要な立場に立つことはなかった)(4)。1970年代に入って防衛政策の論争は、革新政党が次第に自衛隊容認などの現実主義的路線へと軌道修正し、保守政党も解釈改憲や専守防衛などの政策上の妥協に依存するようになり、論争の争点が大きく変化したが、基地問題や自衛隊増強への「歯止め」などをも争点に含めて、55年体制が崩壊するまで一貫して継続した(5)。

防衛問題優位の政策論争は、それ以外の調査からも明らかである。1967年の調査では、「減税か社会福祉か」という質問に対する回答は、意見が分かれたものの、安保・防衛・天皇制に対する質問への回答と、まったく相関関係がないことが明らかとなった。政党の政策を見ても、社会保障・福祉政策をめぐっては、革新政党と保守政党はともに福祉の充実を掲げ、保革の対立が存在しなかった(6)。

このような戦後政党の政策の特徴を示す言葉として「粗放性」が挙げられるのではないだろうか。政党は、国民生活の維持発展を目的とした政策を、選挙における得票の手段として有権者に提示する。したがって、提示される目的や手段は、提示する政党や提示される有権者が納得でき、支持されるべきものでなければならない。そのため、多くの政策は、自然現象や社会現象について、原因ないし動機と結果とを一対一で対応させる単純明快な模型を設定した上で、所期の結果を実現(あるいは防止)する手段として、この原因ないし動機を導入(あるいは排除)するべきであると説く。自然現象や社会現象という高度に複雑なシステム現象について、そのひとつの局面だけを取り上げ、単純明快な代わりに粗放な模型で近似する結果、こうした政策はしばしば局所的な適合性しか持たず、システム全般にわたる複雑多岐な効果を安易に無視する。しかも、政策が粗放であるだけ単純明快となり、提示する側の政党および提示される側の有権者に納得され、支持される場合も少なくない(7)。このような個々の政策に対して単純明快な模型を提示するという姿勢が、政党間の対立軸においても、有権者の支持獲得のために防衛政策を中心とする体制選択の問題(8)として、局所的な適合性しか持たない問題へと単純化されていったと言える。

3.主要な対立軸への考察を基にした戦後日本の民主主義への感想

戦後日本の民主主義の重要な要素であった政党は、その対立軸の形成において両面性ある行動をとらざるをえなかった。すなわち、社会と国家の架け橋として有権者に政治上の争点を分かりやすく伝える役目を果たしつつ、その一方で防衛問題に特化した対立軸形成が、多方面にわたる政党間の対立軸の形成を遅らせ、有権者にとっては防衛問題における争点を見ることによって毎回の投票を決定するという単純化された図式が提示されることとなった。このような対立軸単純化の行きすぎた弊害が、政党間対立においては、55年体制下で国会対策委員会を中心に建前と本音をごまかす与野党馴れ合いの「国対政治」の要因の1つとなって国民の意思と離れた政治運営を生み、有権者においては対立軸未形成の状況下における「政治不信」を生み出すことにつながったと言える。これらのことが相まって、民主主義に不可欠な要素であった政党は、戦後において政治と民主主義とを乖離させるきっかけの1つをつくってしまったと言えるのではないだろうか。

自由民主党と日本社会党を軸とした55年体制は1993年に崩壊し、政界再編が進展した。その結果、流動的ではあるが現在のところ、自由民主党・自由党・公明党によるいわゆる自自公政権と、民主党・社会民主党・日本共産党による野党という構図になっている。その間、国際情勢や社会構造も大きく変化した。東西冷戦の終結と社会主義陣営の崩壊、さらには日本経済の長期低迷により、防衛問題は必ずしも最重要課題ではなくなった。代わって景気対策や福祉政策など55 年体制期には比較的対立軸として低位置にあった問題が最重要課題として浮上してきた。これらの最重要課題に対し、防衛問題に特化した対立軸を形成してきた各政党は、いまだ形成途上にある新自由主義の立場からの主張などの例外を除き、有為な政策上の争点を形成できているとは言い難い。マス・メディアなどによって政策上の対立に乏しいことが繰り返し指摘され、有権者の政治離れが加速している。

しかし、ここで私達が考えなくてはならないことは、このような政治の混迷を生み出すことになった原因は何であったのか、ということではないだろうか。確かに、政党が政策上の争点を分かりやすく国民に示すこと、政党間の独自性を主張することは民主主義にとって必要なことである。だが、その政党間の対立軸が、あまりにも行きすぎた二項対立でもって粗放に政党から有権者に語られ、有権者がその単純明快な図式のみを受け入れて支持するのであれば、民主主義が有効に機能するとは言えない。現在のような政治状況は、逆に考えれば、民主主義をより有効に機能させて包括的な対立軸を形成するための過渡期とも言えるだけに、各政党も有権者も、より冷静な視点で政党間の対立軸を見ていく必要があると言えよう。

参考文献

(1)有賀弘・阿部斉・齊藤真『政治 個人と統合』(東京大学出版会)156〜158ページ
(2)中野実『現代日本の政策過程』(東京大学出版会)136〜137ページ
(3)中野実『現代日本の政策過程』(東京大学出版会)154〜155ページ
(4)大嶽秀雄『日本政治の対立軸』(中央公論新社)6〜9ページ
(5)中野実『現代日本の政策過程』(東京大学出版会)157〜159、184〜185ページ
(6)大嶽秀雄『日本政治の対立軸』(中央公論新社)5ページ
(7)京極純一『日本の政治』(東京大学出版会)15ページ
(8)大嶽秀雄『日本政治の対立軸』(中央公論新社)10ページ

国際政治におけるユートピアニズムとリアリズム

written by 齊藤 貴義 on

1.はじめに

本論は、国際政治におけるユートピアニズムとリアリズムの関係を論じていくことを目的としている。ユートピアニズムとリアリズムの問題は、国際政治に固有のものではない。近代ヨーロッパにおいてユートピアニズムとリアリズムの対立は、トマス・モアとマキアヴェリとの相克から連綿として伝わっている。しかし第一次世界大戦後、理性の主権を信じて国際舞台に登場したW.ウィルソンのユートピア的思惟方式の対等とその挫折は、国際政治学においてもいわゆる理想主義と現実主義の思想的系譜が持ち込まれることを示していた。本論では、国際政治学におけるユートピアニズムとリアリズムに関する議論の起点とも言うべきE.H.カーの『危機の二十年』の中での考察を概観しつつ、カーの議論以後の系譜を含めた、リアリズムとユートピアニズムの関係を論考していく。

2.E.H.カーの議論

カーは思惟体系の基本的パターンを大別して、価値現象を主題とする哲学的方法と、事実現象の分析に傾斜する経験的方法を挙げている。すなわち、ユートピアニズムの特質は、「深浅の差はあれ、根本的には現実を否定して、この現実の代わりに彼のユートピアを打ち立てることが意思のはたらきによってできると信じている」ことにある。一方リアリズムは、「自分では変革することのできないあらかじめ決まっている発展過程の分析にしたがう」立場に立つものである。カーにおいてユートピアニズムは、それ自体経験によって明らかにされていない理想を叙述し、観念の体系化を試みる。それは、事実に内在する諸要素よりも、むしろ欲望原理の発展に関心を持つと解される。リアリズムは、客観的に妥当とする規範よりも、権力現象を包括するリアリティそのものの測定に向かう。このようにして権力動態の発見は、道義への相対主義を導き、究極的には人間の非社会的性格を強調するに至る。

ユートピアニズムは、機能的には二本の柱、すなわち「世論信仰」と「利益調和説」に支えられている。世論信仰とは、世論の無謬性と優越性を信条として国際政治の分野で無批判に再生された主張である。利益調和説とは、個人や弱者が全体に服従する義務は、個と全体の利益一致を唱える予定調和説によって合理的に説明でき、それが国際政治に適用されると、全ての国家は「平和」こそ全く同一の利益を利益を持つもの、という命題が導き出せる考え方である。このユートピアニズムの命運は、第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制の軌跡と一致している。ユートピアニズムを現実に支えていた「世論信仰」と「利益調和説」は、1930年代の反体制的諸事情によって衰徴した。国際連盟の無力化は、世論への信仰を打ち砕いた。平和の名の下に隠蔽されてきた体制派諸国と反体制派諸国との対立は、危機の利益が主張される中で顕在化し、「利益調和説」に終末をもたらした。

一方、リアリズムはユートピアへの反動という形であらわれるとされている。リアリズムの使命とは、ユートピアニズムの欺瞞性を明らかにするところにある。ユートピアニズムの唱える普遍的原理が相対性と功利的本性に彩られていると看破することによって、権力の軌道から逃避しようとする道義の動態を究明するのである。

カーは、これらユートピアニズムとリアリズムの本質的相違ゆえに、健全な政治思考の根拠をこれら両要素に求めなければならない、と主張する。彼の考察は以下の通りである。ユートピアニズムが、特権階層の利益を包み隠す装いとして仕えるだけの、中身のない、しかも許しがたい見せかけのものとなっている場合には、リアリストはその外衣を剥がすために欠かせないはたらきをする。しかし、全くのリアリズムは、いかなる種類の国際社会の成立をも不可能とする露骨な権力闘争をむきだすだけである。今ゆきわたっているユートピアニズムをリアリズムの武器で打倒した上に、我々は我々自身の新しいユートピアを建てる必要がある。だが、そのユートピアもいつかは同じリアリズムの武器によって倒されることになるであろう。人間の意思は、国際秩序の構想においてリアリズムが引き出す論理的帰結を回避することを求め続けることになろう。以上のような考察をもとに彼は、あらゆる政治的事態はユートピアとリアリティという両立しない2つの要素を含んでいるという結論を導き出すのである。

このようなカーの議論は、他方において、ユートピアニズムとリアリズムの絶対的識別、および相互補完関係へと展開する論理的基盤の乏しさが指摘されている。ユートピアニズムとリアリズムは、それぞれ自己の中に他方の要素を内包しているとする議論も存在する。すなわち、ユートピアニズムは、生存のためのパワー志向を何らかの形でその根底に持っており、権力状況と諸国家の勢力拡大に関する熟慮が重要な点において、単なる夢想主義ではなく、リアリズムと内的交錯が存在する。リアリズムには、道義と権力とを全く相反するカテゴリーに区分できるとしたカーの期待に反して、道義それ自体権力の一部である、とする見解がサイードやマキアヴェリの見解の根底に見られる。さらに、倫理はそれ自体が自律性を持ち得ず、権力の従僕となってはじめてその機能を展開するいう主張も、マキアヴェリから始まるリアリズムの考えに存在する。ユートピアニズムとリアリズムは、完全に相反する要素というよりは、むしろ相互に共通部分を保有しつつ、独自に自己を展開する概念と考える方が妥当と言えよう。

3.E.H.カーの議論以降の系譜

リアリズムにおいては、第二次世界大戦直後、モーゲンソーが政治的リアリズムの概念をつくりあげ、国際政治を国家間のパワーの闘争と論じ、ユートピアニズムを批判した。その後、クラズナー、ギルピン、ウォルツなどが、科学的に洗練されたネオ・リアリズムとという理論へ発展させた。ネオ・リアリズムでは、ユートピアニズム的な要素を取り入れ、政治的リアリズムの弱点を補完しようとした。すなわち、ネオ・リアリズムにおいては、国家は無秩序な状態の中でパワーを追求して闘争を繰り広げるが、その中で生じる国際政治はそれぞれの国、特に大国のパワーの散らばり方、つまり世界の「構造」によって決まるとされている。さらに、大国が国際的諸制度の運営に積極的に参加し、リーダーシップをとることで、自国と国際政治に安定をもたらすと主張されている。

一方、ユートピアニズム的な潮流は戦後になって低調となったが、コヘインやナイなどの相互依存論に影響を与え、レジーム論へと展開する。これらの理論も純粋なユートピアニズム的なものから社会科学的なものへと変質してくるに従い、ネオ・リベラリズムと呼ばれるようになった。そこでは、国際機関に参加した国家は、その法に従うことによって従来の国家概念を拡張し、その結果として、国家主権の力と意義の相対化が行われて各国の協調行動が可能になるとされている。

このように、国際政治を分析する理論としてのユートピアニズムとリアリズムは、相互に対立し、あるいは相互に接近しあいながらも、重要なアプローチとして現代においても意義を失ってはいない。しかし、これら2つの対立軸が有効である範囲において、例えば戦争の生起や国家間の同盟形成といった事象にはリアリズムは有効だが、GATT(関税及び貿易に関する一般協定)やWTO(世界貿易機関)などのような国際的協力分野ではユートピアニズムに立脚したリベラズムの議論が有効であるなど、相互の限界性を露呈するというアイロニーを演じることとなった。国際政治における統一理論の形成には、現在のところ至ってはいない。

国際政治分析の限界性を演出するこのアイロニーを克服する鍵は、やはりカーの分析の不備が指摘されたユートピアニズムとリアリズム相互の内的交錯を、正確に摘出することにあるのではないだろうか。相互の議論を検証し、その共通項を分析して新たな理論を模索していことにこそ、多様化する国際政治の事象を解明していく「第三の理論」を形成できる現実的な可能性があると思われる。二項対立の相克の中では、確かにカーが主張するような相互の立場の並立による国際政治分析が唯一の手法であるが、リアリズムとユートピアニズムの対立関係を併存させた状態での中性的な第3極の理論の形成は、相互の理論の相対化をもたらす客観的な基準の出現を意味し、今後のリアリズムとユートピアニズムの理論的な発展においても重要な役割を果たすことができるのである。

参考文献

(1)E.H.カー『危機の二十年』(岩波書店)
(2)原杉久『国際政治分析 理論と現実』(新評社)
(3)加藤秀次郎・渡邊啓貴(編)『国際政治の基礎知識』(芦書房)

死刑に関する一考察

written by 齊藤 貴義 on

第一節 死刑概観

死刑とは、犯罪者の生命を奪う刑罰である。死刑は最も峻厳な国家刑罰の行使であり、その本質が生命の剥奪であるがゆえに、古来よりその存廃に関して論争がなされてきた。日本は死刑存置国であり、現行刑法において死刑を規定している。(1)

第二節 死刑存廃論概観

死刑の存廃を巡る論争は多岐に渡るが、従来主張されてきたものから有力なものを選んで列挙していくと、下記のものが挙げられる。

死刑存置論の論拠としては、<1>「人を殺したる者はその生命も奪われるべし」というのが国民の法的確信である、<2>世論調査によれば、国民の多くは死刑存置を望んでいる、<3>社会の応報観は、犯人が死刑に処せられることによって満足するものである、<4>死刑を廃止すれば私刑が増加する怖れがある、<5>被害者の親族は加害者が死をもって贖罪したことにより満足するものである、<6>法秩序の維持のためには、死刑の威嚇力はなお有効である、<7>死刑は一種の必要悪である、<8>死刑は無期刑に比べて経費がかからない、<9>優生学の見地からも、改善不能の犯罪者は死刑に処した方がよい、<10>大多数の殺人犯人は、彼らの犯した罪の償いとして死刑を歓迎するものであり、彼らの死ぬ権利を否定するべきではない、<11>法の基礎である絶対的正義の見地よりして、死刑は故意の殺人犯に対する最も正しい刑罰である、等がある。

死刑廃止論の論拠としては、<1>死刑は人道的感情に反する野蛮な刑罰である、<2>死刑には威嚇力がない、<3>死刑は復讐を基礎とするものであって、改善主義の理念に反するものである、<4>誤判の場合において、死刑は一度執行された場合回復できない、<5>死刑の存在は国家が殺人を禁じていることと矛盾する、<6>死刑は犯人の家族に対して重荷を科する、<7>死刑は一般人に対して残忍性を流布し、人命を軽視する結果を招来する、<8>死刑は貧困者に対してより多く科される傾向にあり、不平等な身分的側面を有する、<9>社会からの隔離は無期刑で充分であり、無期刑に代替することにより加害者に被害者の家族の救済をさせるべきである、<10>死刑は憲法に違反する、<11>死刑は自己犠牲の衝動を満足させるものであり、死刑の制度がなければこうした欲求を満足させるための衝動は起こらない、<12>世論調査の結果は世論を正しく反映したものとは言えず、生命の剥奪という重大問題を数のみで解決することには疑問がある、等がある。(2)

しかし、これらの死刑存廃論の争点は実証が困難であることがしばしば指摘されている。例えば、セリンの研究によってアメリカの死刑廃止州と死刑存置州の犯罪抑止効果の実証研究が行われ、それらの州の間には有為な差が存在しないことが明らかになった。しかし、犯罪の増減という多元的要素からなる現象を、死刑の有無という単純な要素に関連づけて相関を論じることには無理がある (3)。

現状において死刑の存廃は高度な政治的判断に懸っているが、先進民主主義国を中心に各国は徐々にではあるが死刑廃止へと動きつつあり、日本においても法的な観点に加えて思想的な観点などからも死刑制度についての再検討が必要とされていると言える。(4)

第三節 死刑廃止後の代替刑は如何にあるべきか

死刑廃止後の代替刑としては、<1>仮釈放のない完全な終身刑、<2>安易な仮出獄は運用の問題として解消されるべきで、現行法の無期懲役・禁固、<3>絶対的無期刑ではなく再社会化の希望を確保しつつ、人格の破壊にいたらないように判決確定後最低一五年または二十年間までは仮釈放を認めない無期刑、<4>刑の執行後二十年を仮釈放決算日として社会感情が仮釈放を承認することを必要条件とした特別の無期自由刑、<5>死刑も無期刑も廃止して有期刑、<6>不定期刑、等が提案されている。(5)

私としては、死刑の代替刑は有期刑こそが最も適切であると考える。刑法第三二条の時効論に基づき、刑の言い渡し後、三十年を懲役期間とし、その刑期が過ぎれば釈放する制度を最高刑として導入する。(6)

このことは、刑法上、精神において死刑と同視されている時効三十年の規定をもって、従来の刑罰の効果を国家が保証することを国民に知らせることができ、犯罪抑止効果を信奉する国民には安心感を(抑止効果の実効性に関しては実証による検証が困難であるため、本論では判断を保留する)、応報感情を抱く遺族にはその苦痛の緩和をもたらす。また、無期刑のような死刑を上回る残忍性はない。国民に生命尊重の意識を定着させる教育効果も存在する。さらに、殺人を禁止する国家が自ら人を殺す矛盾が解消され、刑法上同視されている時効論に代替されることにより、刑法の合理主義の精神の維持も可能となる。再審制度を整備すれば、誤判防止の可能性も向上する。

スペインを始めとする中南米の国々も、死刑や無期刑を廃止して有期刑のみで対応している立法例が見られることからも、有期刑の導入が我が国においても実効性を有していることを証明している。(7)

第四節 死刑廃止後の遺族感情の鎮静は可能か

犯罪による被害者(遺族)の悲憤をどうやって鎮静化するかという問題は、死刑存廃論の主要な争点の1つにもなっている。

遺族感情を根拠とする死刑存置論は、次のように主張する。<1>何をやっても死刑にならないというのでは遺族の報復感情が充足されない、<2>犯人が生きていること自体が遺族にとって許されないことである、等である。(8)

私は、死刑廃止後の遺族感情の鎮静は可能であると考える。その理由を以下に述べる。

第1の理由は、遺族の応報感情と生命の矛盾と葛藤の解消が計れるためである。現状で国家は、遺族に代わって大切な者を殺した犯人を抹殺することによって「仇討ち」の時代を再現している(9)。しかし、一方で生命の尊重を掲げる現代において被害者の生命を剥奪することは、遺族感情を根本から癒すものではないばかりか、罪があるとはいえ1つの生命を完全に失わせたという矛盾と葛藤を遺族に残すことになる。遺族が犯人の死刑を求めることは多いが、それが意味するのは、現行制度の下での最高刑罰を科してほしいということだけではないかと考えることができる。死刑を廃止した国で被害者感情が爆発したという事件はない。最高刑は有期刑とする制度を導入すれば、「極刑」は「有期刑」となり、生命剥奪の矛盾に悩まずとも、遺族は犯人に最高刑を与える感情的欲求を充足できる。(10)

第2の理由は、犯罪者による遺族への補償が可能となるためである。犯罪者が生存する限りにおいて、遺族への長期にわたる賠償命令(作業賃金制も考慮に入れたものも含めて)が可能となる。「元の生活へ戻りたい」とする遺族の回復感情を満たすためには、物質的・精神的支援が必要であり、犯罪者がその物質的支援を担うことが可能となるのである(11)。

第五節 まとめ

今までの議論の中で、死刑制度の存廃論を概観し、その中で死刑廃止後の代替刑として有期刑を提唱し、死刑廃止後において遺族の感情を鎮静できるという観点からその理由について論述してきた。

死刑存廃論については、その争点が多岐に渡ると同時に、廃止論を通じても死刑に代替しうる可能性を指摘することができた。このことは、現状で死刑制度を是認する我が国においても、その是非を巡ってはさらなる検証の余地が充分にあることを浮き彫りにする形となった。実証研究が難しい分野ではあるが、存廃双方とも、その情報を国民に提供し、死刑制度についての国民的議論と、それによる合意形成が急務であると考える。また、いまだ反証可能性を残し、それについての国民的議論が行われない中での死刑執行は、あくまで慎重であるべきと言える。

参考文献

(1)死刑全般の概説については、藤本哲也『刑事政策概論』121〜125p
(2)死刑存廃論の概説については、藤本、前掲書126〜127p
(3)セリンの研究とその限界については、団藤重光他『死刑廃止を求める』50〜51p
(4)死刑存廃の判断と各国の動きについては、藤本、前掲書127p
(5)死刑の代替刑については、藤本、前掲書127〜130p、および団藤他、前掲書154〜155p
(6)有期刑については、花井卓蔵『刑法俗論』202〜203p
(7)海外の有期刑については、藤本、前掲書130p
(8)遺族感情を根拠とする死刑存置論については、団藤他、前掲書40p
(9)「仇討ち」の時代という表現は、団藤他、前掲書117p菊田幸一の言葉による
(10)遺族が現行法での極刑のみを求めているという分析については、団藤他、前掲書120〜121p
(11)遺族の回復感情については、団藤他、前掲書42〜46p

高校生雑誌創刊計画

written by 齊藤 貴義 on

高校生雑誌創刊計画とは、僕が高校生の頃に思いついた自由な高校生のメディアを作ろうという計画のことです。高校生が自分の考えや情報を共有できる場は限られています。しかし、いや、むしろだからこそ、 そういう場を押し広げることにより、高校生の新しい可能性を広げ、さらに、現在の教育についての諸問題を解決するきっかけになると考えました。計画は、96年に始まり、98年に失敗を宣言するまで続きました。その間、僕達の呼びかけに応じて全国各地から高校生が集ってきましたし、マスコミの中にも僕達の活動に注目してくれたものがありました。ここで、僕達の過去の活動を紹介することは、今日的にも無意味ではないと確信しています。

高校生雑誌創刊計画を採り上げた新聞記事

福島民友新聞1997年2月16日付
minyu2
福島民報新聞1997年2月21日付
福島民報
河北新報1997年3月13日付
kahoku

高校生雑誌創刊計画の活動の歴史

1996年1月 福島県立相馬高校1年生の僕が「高校生による自由な雑誌を創ろう」というアイディアを思いつく。相馬高校で10人ほどの有志が集まり、「雑誌創刊計画」が正式に発足。代表は僕が就任することが決定。

相 馬高校生徒会室で雑誌創刊計画の企画会議が開かれる。高校生による雑誌の実現へ向けて、自分達で試作品を作ることが決定する。企画会議ではその他に、自分 達の目指す高校生雑誌の大きな特徴として、(1)学校とは関係がなく自由である。(2)初の高校生によるメディアである。(3)高校生の本格的な交流が可 能である。(4)自分達で高校生の文化を築いていける。という4点を確認。当初の活動方針として、まず同好会として活動し、相馬高校内に高校生雑誌準備事 務局を置く。その後、相馬高校、相馬女子高校、原町高校を中心に合同会議を開き、全国高校生雑誌創刊事務局を創設。その事務局が全国へ応援要請をし、企画 書を作成する、といった内容にまとまる。3回目の企画会議で、学校を中心にした当初の活動方針を変更する。雑誌創刊計画は高校生の自主運営にすると決定。

1996年2月 相馬女子高校にもメンバーを広げる。福島民友新聞にメンバー募集告知を出す。さらに、東京の高校生新聞編集者全国会議の元メンバーとも連絡を取る。その結果、相馬市に限らず、県内各地の高校生が参加し始める。頻繁に企画会議を開き、試作品の編集方針を議論する。

1996年4月 「雑誌創刊計画」を「高校生雑誌創刊計画」と改名。印刷所から印刷機を無料でもらい、試作品の印刷に使用する。試作品「STUDENT」Vol.1完成。同じくPRパンフレット完成。以後、このPRパンフレットを計画の基本方針として、宣伝活動を開始する。

1996年6月 雑誌の読者のコーナーなどに募集告知をし、全国の高校生に参加を呼びかける。新たに、試作品製作の実行部長、副実行部長、実行部長補佐という役職を設け、 相馬メンバーからそれぞれ就任。試作品2号の製作へ向けての編集会議開催。2号の製作が本格的にスタート。会報「AFTERSCHOOL」の発行開始。会報を通じてのメンバーどうしのコミュニケーションを目指す。

1996年7月 高校生雑誌創刊計画主催の「小説大賞」募集開始。試作品2号の第1次編集終わる。試作品製作を相馬に限るのではなく、各地域のメンバーごとに独自の編集方針で試作品をつくる「分権」のアイディアが出される(しかし実現できず)。

1996年8月 僕が第16回全国高等学校クイズ選手権の全国大会まで出場し、他の都道府県の代表チーム達に計画をPR。東京帰りに見つけた個人情報誌「じやマール」に募集告知を出し、関東メンパー集まる。

1996年9月 試作品2号の記事を継続して集めることが決定。発行を延期して質の向上を目指す。

1996年12月 福島県と宮城県の高校生による会議が開かれる。実行部長の提案で、試作品を月刊化して発行する事が決まる。

1997年1月 試作品2号が完成する。同じく月刊0号(準備号)発刊。月刊化の目的をメンバーに伝える。相馬メンバーによる実験として、月刊1号発刊される。

1997年2月 福島民友新聞の取材受ける。福島民報新聞の取材受ける。NHK福島放送局から「計画の資料を送ってぽしい」という連絡がある。小説大賞審査開始。大賞に 「JACKAL」、2位「心を運ぷ紙飛行機」、3位「パラサイト・サブ」が選ばれる。蓮如賞作家の新妻香織さんに高校生雑誌創刊計画の今後についてアドバ イスをいただく。

1997年3月 合同企画会合を開く。その時に、河北新報の取材を受ける。小学館、リクルート、講談社、集英社といった出阪社に電話をかけ、出版社の現状や企画書の送付方 法を尋ねる。高校生雑誌創刊計画のPRマンガがメンバーによって完成する。月刊2号が完成する。仮の企画書が完成する。

福島県メン パー2人を東京へ派遺し、関東メンバーと初の会合を行う。同時に、集英社の雑誌「SEVENTEEN」編集部へ行き、編集者の人からアドバイスをいただ く。朝日新聞東京本社へ行き、社会部教育班の記者に計画の活動を説明する。計画に興味を示してくれて、ホームベージ作成用のソフトを貸していただく。 「ホームベージの実現後、朝日新聞の記事にしたい」と言われる。

「SEVENTEEN」編集部から得たアドバイスをもとに、高校生雑誌創刊計画主催の「イベント」を開くことが決定。まずは原町市を中心に、実験的に福島で高校生による祭典を開くことになった。メンバーの中からホームページの製作担当者を決定。

ラジオ局のふくしまFMから、「高校生雑誌創刊計画のネットワークを使って、4月から始まる中高生向けの番組に協力してぽしい」という連絡がある。東京を中心とする各学校の新聞部へ向けて、計画への協力を呼びかける文書を発送することが決定(しかし自然消減)。

1997年4月 2回目の東京派遺。朝日新聞の記者と細部の詰め。僕が2度目の東京行きの帰りに、ふくしまFMの新番粗「なに聴いてんの?」に出演し、計画をPRする。福島県のパソコン通信草の根ネット「いわき銀河計画」に高校生雑誌創刊計画会会議室を開設。パソコン通信を使って計画のPRを開始する。ホームベージ掲載用文章が完成。イベント開催地の選出が難航する。イベントが実現不可能に。

1997年5月 ホームベージのデータがすべて完成する。月刊3号が完成する。高校生雑誌創刊計画のロゴとパソコン通信用PRパンフレットを作成する。パソコン通信で、高校生雑誌創刊計画主催による、「授助交際」についての誌し合いが開始される。マルチメディア試作品を実現させるための一環。福島メンバーの中からマルチメディア実行部長を任命する。

1997年1月 試作品2号が完成する。同じく月刊0号(準備号)発刊。月刊化の目的をメンバーに伝える。相馬メンバーによる実験として、月刊1号発刊される。

1997年6月 ホームベージは完成したものの、それをインターネットに流す作業がうまくいかない。高校生雑誌創刊計画の新組織案が出される。試作品実行部、マルチメディ ア実行部の他に、企画実行部、イベント実行部、事務部を設けようというもの(しかし実現しなかった)。関東に支部をつくることが決定(しかし実現しなかっ た)。高校生雑誌創刊計画の現在までの活動を振り返る「小冊子」の製作がスタートする(しかし実現しなかった)。

1997年7月 今までの試作品の原稿をりニューアルし、出版社へ提出できる「りニューアル試作品」を8月初旬までに完成させることが決定する(しかし実現しなかった)。会報の発行再開も検討したが、実現しなかった。ホームページ作業の難航が続く。

1997年1月 試作品2号が完成する。同じく月刊0号(準備号)発刊。月刊化の目的をメンバーに伝える。相馬メンバーによる実験として、月刊1号発刊される。

1997年8月 関東メンバー2人が相馬を来訪する。相馬・関東両メンパーによる会議が開かれる。高校生雑誌創刊計画主催のパソコン通信のオフラインミーティングが郡山市で開かれる。今までの活動方針を変更。「雑誌」にこだわるのではなく、雑誌を中心として様々なメディアをリンクさせ、より大きな高校生メディアを実現させ ることに。高校生雑誌創刊計画は、そのメディアどうしを結合していく。

僕と福島メンバーで高校生雑誌創刊計画の資料をTBSに送り、 TBS「筑紫哲也のニュース23」が高校生を集めて行った生放送の特別企画「僕たちの戦争97」に出演。出演前、朝日新聞社に寄る。ホームベージについての打ち合わせを行う。計画の進行状況を説明したところ、「まだ記事にする段階ではないと思う」と言われ、記事掲載が見送られる。マルチメディア実行部長が 就職試験への準備のため、ホームベージ作成を一時中断する。

1997年12月 マルチメディア実行部長が家庭の事情のため、アルバイトを開始しなければならなくなった。残された期間でのホームベージ実現は、断念せざるをえなくなる。高校生雑誌創刊計画の最終策「企画書作成」がスタートする。

1997年2月 主力メンバーが受験のため、企画書作成もままならない状況を考え、計画の「中止」を決定。

高校生メディアの可能性

高校生雑誌創刊計画は失敗に終わりました。しかし、それで僕の夢がついえたわけではありません。僕は昨年、法政大学主催の弁論大会に出場し、優勝しました。その時の演題は、「総合メディア創設計画」。まだまだ、終わってはいません

テーマパークの社会学

written by 齊藤 貴義 on

東京ディズニーランドを管理するマニュアル

日本を代表するテーマパークの一つ、東京ディズニーランド。毎年1,700万を越える人々が来園し、数多くのアトラクションを楽しんだり、ミッキーマウスなど愉快な仲間達のパレードを観覧したり、ディズニーの世界観を持ち込んだショッピングモールで買い物をしたりします。ディズニーランドの強みは97%とも言われる驚異的なリピーター率です。一度来園した人に大きな満足を与え、さらにもう一度来たいと思わせる。このような顧客の満足感を支えたのは、アトラクションの内容もさることながら、高度なマニュアルに基づく徹底した従業員教育であったのではないかと指摘されています。

1983年の開園以来、ディズニーランドは本家アメリカのディズニーワールドを手本として、従業員の職種別に300冊以上のマニュアルを作成しました。膨大な量のマニュアルに基づいた運営ではマクドナルドも有名ですが、「こういう時にはこうしなさい」という風に細部まで行動手順があらかじめ決定されているマクドナルドに対して、ディズニーランドのマニュアルは「こういう時にはどういう風に考えるべきか」という行為規範を中心に書かれてあるようです。当然ながらマニュアルは公開されていないため、断片的な情報しかないのですが、例えば次のようなものがあるそうです。

チケットブース(入場券販売)

目的 :あなたの仕事はチケットを売ることではありません。東京ディズニーランドへおいでになったゲストと最初にコミュニケーションをとることです。
形  :目と目を合せて
    ニッコリ笑って
    ひとこと声をかける
注意 :「いらっしゃいませ」とはいわないで下さい。例えば、「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」。なぜ「いらっしゃいませ」ではいけないのか。それは日本では「いらっしゃいませ」には誰も返事をしない習慣(デパート、銀行その他)になってしまっている。ゲストから返事をいただいてはじめてコミュニケーションがとれたことになるのだから。
(http://www.d1.dion.ne.jp/~masehts/mahts/kou9606.html)

ディズニーランドが、「転んだ子供は立ったまま抱き上げず、しゃがんで目線を合わせて抱きなさい」という行動様式を逐一示したアメリカの300冊を超すマニュアルとともに開園したのが83年。
(『AERA』(朝日新聞社)2002年4月8日号 「脱マニュアルが勝負の決め手」)

このようなマニュアルに従って行動するため、ディズニーランドの従業員はいつも親切です。運悪く愛想の悪い従業員に当たったりすることはないし、不測の事態が起きても顧客優先で行動してくれます。日常生活で起きるような人間関係のトラブルも起きず、人間の嫌な面を見ることもあまりありません。園内は清掃が行き届き、あらゆる配置が訪れた者を楽しませるために合理的に工夫されています。親切な従業員に案内されたアトラクションの多くがハラハラドキドキの冒険の世界が待っていて、最後はハッピーエンドか満足のいく結末で終了します。アトラクションの中での冒険が失敗することはありません。決まった時刻になるとパレードが始まり、ディズニーアニメの仲間達が愛想良く訪れた人達に手を振ってくれます。

社会の様々な部門がマクドナルド化していることを指摘した社会学者ジョージ・リッツァ(詳しくはファーストフードのページ参照)も、ディズニーワールドの観察を通じて、ディズニーワールドにはマクドナルドによく似た(そして様々な社会の中で進行するマクドナルド化によく似た)特徴を有していることに注目しています。それは、効率性、計算可能性、予測可能性、制御です。

ディズニーワールド(代表的なディズニーのテーマパークを取り上げる)は、多くの点で効率的である。とくに、多くの人びとをてきぱきと処理する方法では、あまり合理化されていない他のテーマパークをまったく圧倒している。1日入場券、あるいは週間入場券によるセット価格は、あるアトラクションの予想待ち時間を示す、多すぎるほどの標識と同じく、その計算可能性を証明している。ディズニーワールドはきわめて予測可能性が高い。客を「だます」ような「詐欺師」は存在しない。従業員のなかではチームが組まれていて、日常の清掃業務の一環として、夜のパレードの後について、ゴミ−動物の落とし物も−を拾い集めている。そのために、客は、うっかり落とし物を踏んで不愉快な驚きを経験することもない。ディズニーのテーマパークは、確実に客が1つも驚きを経験することのないように懸命になっている。その上、ディズニーワールドでは、人間によらない技術体系が人間の技能に勝利を収めている。これは、多数の機械や電気によって動くアトラクションだけではなく、パフォーマンス(たとえば口パクによって)や仕事(マニュアルに従うことによって)が、人間によらない技術体系に管理されている人間の従業員にもあてはまる。
(ジョージ・リッツァ『マクドナルド化の社会』早稲田大学出版会)

ディズニーランドはディズニーアニメを中心にメルヘンの世界を構築しています。しかし、その運営方法や顧客管理には極めて近代的な手法が使われています。すべてが予測の範囲、マクドナルドと同じく満足へと至る過程が計算可能であり予測可能であるわけです。そして私達がそのような環境を選好するようになってきていることもうかがい知ることができます。

テーマパークとオウム真理教

1995 年3月、東京の営団地下鉄で毒ガスを使ったテロ事件が発生し、5,500人もの被害者が出ました。このテロを起こしたのは新興宗教「オウム真理教」(現・アレフ)の教団メンバーであることが明らかとなり、警察は上九一色村の教団施設「サティアン」に対して強制捜査に踏み切りました。それまでもマスコミを通じて断片的な情報は入っていたとはいえ、強制捜査以降に明らかになったサティアンの全貌は世間に強い衝撃を与えました。無機質で極めて不衛生な無数の小部屋とそこに数多く貼られた教祖・麻原彰晃の写真、サティアンへの毒ガス攻撃に備えた巨大空調設備「コスモクリーナー」、世界最終戦争に備えた化学工場、そしてその中で「ヘッドギア」を頭につけて一心不乱に修行に没頭する信者達・・・。サティアンの光景を見て「虚構性」や「異質性」を感じた人達も少なくなかったと思います。

しかし、社会学者の中には、オウム真理教と私達の社会は「合わせ鏡」のような関係になっており、私達がオウムに対して抱いた虚構性や異質性は私達の社会の中にも内在していると指摘している人もいます。例えば大澤真幸は『虚構の時代の果て オウムと世界最終戦争』(筑摩書房)という著書の中で次のように述べています。

1970年代−とりわけその後半−以降の虚構の時代とは、情報化され記号化された疑似現実(虚構)を構成し、差異化し、豊穣化し、さらに維持することへと、人々の行為が方向づけられているような段階である。「情報社会」、「脱産業社会」、「消費社会」等々と名付けられ、いくぶんニュアンスを違えながらさまざまな角度から分析されてきたのが、虚構の時代の下にある社会であった。

虚構の時代の黄金期は、1980年代である。虚構の時代は、見田宗介が指摘するように、たとえば「(東京)ディズニーランド」(1983年開園)によって象徴されよう。ディズニーランドは、慎重な配慮によって−たとえば入場者が自然に使用してしまう視線の配備を巧妙に計算に入れることで−外部の現実を徹底して排除しており、このことによって虚構の(幻想の)空間として自律している。ディズニーランドの興行的な成功は、日本社会が虚構の時代のただ中にあったことを示している。

さらに、同じく社会学者の吉見俊哉も次のように指摘しています。

現実とは、地域の人々との日常的なつきあいの中から発生してくるものではなかった。(中略)ディズニーランドが外部の現実に対して徹底的に閉じた自己完結的な空間であるのと同じように、波野村や上九一色村の教団施設からは、彼らの「解脱」や「救済」の物語と矛盾する外部の易化的な現実が入り込む可能性が最大限排除され、自己完結的なリアリティの整合性が保たれていったように見える。

サティアンと東京ディズニーランドの共通する傾向は、以下のように整理されるのではないでしょうか。

1.人間が人工的につくった虚構空間である
2.施設の中では外部(日常空間)の要素は徹底的に排除され自己完結性を持っている
3.ほぼ同時期に設立され(オウムの起源は1984年、ディズニーランドの開園は1983年)拡大の一途をたどった
4.これらの虚構空間は実態としては教義・科学技術・マニュアル・ルール・システムなどに高度に制御されて運営されているが、空間内にいる人々がそのことに違和感や不都合を感じることは少ない
5.むしろ虚構空間に自分の理想の楽園を志向している
6.虚構空間に対する日常からの直接の批判を観念的に寄せつけない(例えばディズニーランドを「しょせんは作り物」「商売」と言うと「夢がない」「発想が貧困」というまなざしで見られる)

もちろん、サティアンに集うオウム信者と、東京ディズニーランドに集う人々とを完全に同列に比較することはできません。またその空間の位相も大きく異なります(最大の違いは、東京ディズニーランドには1日の中に「時間的な終わり」があることでしょう)。しかし、ここで最も注目すべきは、「虚構の空間」がオウム信者においても私達の社会にとっても近年になって「強く要請されるようになった」ということです。さらにその要請された虚構世界は、日常世界よりもはるかに計算可能性や予測可能性に満ちた「制御された世界」であるのに、人々が自ら進んでそこに積極的な意味を見いだそうとしていることです。

今までのオウム事件分析では、オウム真理教信者の世界観におけるリアリティの欠如の要因として、専ら受験勉強やテレビゲーム・アニメなどが挙げられてきました。しかしそれだけでは、私達が虚構の世界を現実空間に再構築していることの分析を見落とすことになります。私達はなぜテーマパークを強く要請するようになったのか、その点についても含めて考えていくことが、リアリティが欠如した社会を分析していくカギとなるのではないでしょうか。

マクドナルディゼーション

written by 齊藤 貴義 on

「あのいまいましい会社め。やつらは私のすべてを金のために売っているのだ。わたしには世界で一番すばらしいソースがあったのに、ちくしょうめ、やつらがわたしのソースを水で薄めやがった。胃の腑が煮えくり返る」
(ケンタッキーフライドチキンの創始者、カーネル・サンダースが友人に語った言葉。ジョージ・リッツァ『マクドナルド化する社会』より)
 

マクドナルディゼーション(マクドナルド化)

マクドナルディゼーション・・・ファーストフード店の諸原理が、世界の国々のますます多くの分野で優勢を占めるようになる過程。

・1996年〜1997年にマクドナルドが全世界に行った出店のうち、20パーセントは日本で行われた。2001年現在、日本には3000店ものマクドナルドが存在し、長期的には10000店達成を目指している。

・マクドナルドが急速に拡大した過程には、以下の4つの要因がある。

1.効率性

多様な社会状況の中で、マクドナルドは効率の最大化を追求した。すなわち、生産過程を簡素化し、商品の単純化をはかることによって、消費者に空腹から満腹へ移動するための最良の方法(迅速な調理、ドライブスルー)を提供したのである。

生産過程においては、あるゆる実験が繰り返されて、最も効率的に調理可能な方法がマニュアル化された。駐車場を店舗に隣接させたので、わずかな距離を歩いて店舗に入り、わずかな時間で食事ができる環境を実現させた。また、商品の種類が限定されているので、客は膨大な種類の中から選択する手間がなくなった。

さらに、マクドナルドの効率化に何よりも貢献したのは、「客に働かせる」という作用であった。マクドナルドにおいて、客は、列をつくって注文を告げにいく。そして食べ物をテーブルまで運び、ゴミを捨て、トレイを片づける。ドライブスルーの場合には、食事をする場所の確保やゴミの処分も客自身が行うことになる。伝統的なレストランがやっていた作業を客に行わせ、かつ、それを客に非効率と思わせないことによって、マクドナルドは効率化に成功したのである。

2.計算可能性

マクドナルドは、計算可能性も重視した。ここで言う計算可能性とは、販売商品の量的側面(分量と費用)、サービス(商品を手に入れるまでにかかる時間)のことである。客がマクドナルドで売っている商品の量と費用を考え、それがどれくらいの時間で提供されるかを考えていること、に目をつけた。そして、何かが沢山あること、商品の手渡しが迅速であることを「商品の質も良いものに違いない」と思わせ、「大きいものは良いことだ」と思わせることに成功した。

だが、実はこの計算可能性の利点は、まやかしにすぎない。バーガーを包んでいるやすいパンは、実際よりも大きく見せるように調理されている。さらに、量についての幻想を助長するために、バーガーや様々な付け合わせはパンズからはみだすように大きさが設計されている。ポテトも、赤い紙の入れ物に入っているところに仕掛けがあるが、実際は値段相応のわずかなポテトしか入っていない。ジュースも、氷の分量を多くすることによって実際よりも大きく見せかけている。これらのことは、マクドナルド化されたファーストフード店が莫大な利益をあげていることからも明らかである(バーガーキングでは、フライは経費の400パーセントで売られ、飲み物は600パーセントの利幅を含んでいる)。それゆえ、消費者の計算は間違っている。消費者は、安くたくさんの食べ物を得ているわけではなかったのだ。

さらに、マクドナルドは生産過程においても様々な仕掛けを導入している。「ファテライザー」を導入して、ハンバーガーの脂肪が規格どおり19パーセント以下になるようにしている。脂肪含有量が多いと調理中に縮んでしまって、パンからはみだすほどの大きさをアピールできないからだ。

3.予測可能性

マクドナルドは、提供する商品とサービスが、いつでもどこでも同一である。さらに、マクドナルドは、今週食べても来年食べても、味はまったく同じである。マクドナルドは高度にマニュアル化されたプログラムにもとづき、材料の種別などを厳格に規定している。そして、人々は、それを「知っている」。人々は、そこそこの味を楽しみ、意外な驚きがほとんど存在しない世界を選考するようになってきている。

また、店員も予測可能な仕方で振る舞う。マクドナルドに入店すると店員が何を話すのか、どんな動作をするのか、客はあらかじめ予測できる。マニュアルに基づいて予測される行動に、人々は安心感を感じる。店員の側から見ても、仕事が楽になり、迷いなく効率的に作業できる。実際、予測可能で繰り返しの多い作業を好む店員も多い。

マクドナルドは店の構造の複製も行っている。マクドナルドの赤と黄色の派手なロゴは、予測可能性の感覚を想起させることをねらっている。「コピーされた色とシンボルは、何マイル先でも、またどんな都市でも、予測可能性やマクドナルドと何百万もの客とのあいだの長い年月にわたって変わることのない関係を暗に約束するものとして作用する」。カウンター、メニューの看板、奥に見えるキッチン、テーブルと椅子、目立つゴミ箱、ドライブスルーの窓、どれもが予測を裏切らずどこでも同一である。

4.制御

マクドナルドは、できるだけ人間によらない技術体系の開発を長年にわたって続けてきた。人間が判断する分野をできるだけ少なくし、より管理しやすいシステムを築いた。たとえば客は、行列すべきライン、限られたメニュー、追加注文の品数の少なさ、やや座り心地の悪い椅子など、経営戦略上必要な「早く食べてすぐに出ていけ」という方向に誘導されている。従業員は客よりも高度に制御される。従業員は、教えられたとおり正確に、ごく限られた業務をするように訓練される。店長や監視員は、従業員が自分の職務をきちんと果たしているかをチェックする。

スーパーマーケットの災害救援活動

written by 齊藤 貴義 on

1995年1月17日、阪神大震災によって神戸や淡路島は甚大な被害を被りました。多くの家や商店が倒壊もしくは炎上し、人々の生活を支えるライフラインも寸断されました。しかし、そのような中で特に目立った対応を示したのが企業、とりわけダイエーです。ダイエーは政府よりも早く震災対策に乗り出し、震災後すぐに被災者へ向けて店を開くことに成功しました。ダイエーの迅速な対応を支えたものは何だったのか、災害時における地域のスーパーマーケット の役割とは何か、ここで考えていきたいと思います。

阪神大震災におけるダイエーの対応

▼1995年01月17日(火)

05:46 地震発生。ダイエーは被災地域に展開していた43店舗のうち13店舗が全壊。
05:55 大阪管区気象台が地震情報第1号。陸上自衛隊八尾駐屯地、格納庫からヘリコプターを出す作業を開始。
06:30 陸自中部方面隊に非常呼集発令。神戸市市長が登庁。警察庁が地震災害対策室を設置。
06:15 警察庁、全国の機動隊に出動待機を命令。
06:35 神戸市長が登庁。
06:40 兵庫県災害対策本部設置。
06:50 神戸市災害対策本部設置。

07:00 ダイエーが東京に地震対策本部を設置。
07:14 八尾空港から陸上自衛隊OH−6観測用ヘリコプターが離陸、被災地を上空視察。「高速道路が倒壊している」と無線連絡し、ハンディ・ビデオで被害状況を撮影。出動要請がないため訓練名目。
07:30 村山富市首相が公邸で地震第一報を聞く。
07:58 陸上自衛隊第3師団所属第36普通科連隊が、阪急伊丹駅で人命救助活動に入る。
08:00 ダイエーが地震対策会議を開く。中内会長が販売統括本部長にヘリコプターで神戸へ飛ぶよう指示。おにぎり、弁当など1,000食分と簡易衛星通信装置を搭載。ヘリコプター、フェリー、タンクローリー、トラックを手配。
08:11 海上自衛隊の救難ヘリコプター、S−61Aが徳島県松茂基地を離陸、淡路島の被害状況を撮影。午後2時頃、防衛庁へ届く。また厚木基地に空輸した写真は、そこから車で午後4時半防衛庁に到着。
08:20 貝原俊民兵庫県知事が登庁。

08:30 兵庫県が第1回県災害対策本部会議開く。被害状況の把握と各部の迅速な対応を指示。
08:45 村山首相「被害状況の把握に全力をあげております。今後被害の状況に応じ、万全の対策を講じてまいる所存であります。」
09:00 自衛隊第三特科連隊出動準備完了。呉地方総監部、補給艦「ゆら」が神戸に向けて出港。
09:30 神戸ヘリポートから神戸消防のヘリコプターが離陸。
09:40 神戸消防のヘリコプターが上空から市長に「火災発生は20件以上。市の西部は火災がひどく、東部は家屋倒壊が目立つ」と報告。市長は直ちに県知事に自衛隊派遣を検討するよう電話で要請。
10:00 貝原兵庫県知事、自衛隊の派遣要請。自治省消防庁は大阪、東京、名古屋、広島の消防局に応援を要請。

10:04 定例閣議が開かれる。国土庁長官を本部長とする「平成七年兵庫県南部地震非常災害対策本部」の設置を決定。
11:00 ダイエーの対策本部員がヘリコプターで現地へ出発。
11:25 国土庁で「兵庫県南部地震非常災害対策本部」の初会合
12:00 東京警視庁のレスキュー部隊など150名がヘリコプター6機で出発。
12:06 千葉市消防局のヘリコプターが救助隊員5人をのせて出発。
12:45 東京消防庁のレスキュー部隊がヘリコプターで被災地へ出発。午後防衛庁がヘリコプターによる航空消火の許可と消防当局が保有する消火剤の引渡しを自治省消防庁に求めたが、空からの消火断念の回答が翌18日午前8時にくる。
12:48 淡路島・一宮町役場の中庭に自衛隊ヘリ三機が到着。隊員がオートバイで被害調査を実施。 13:10 渋滞に阻まれていた陸上自衛隊第三特科連隊215人が到着。救助活動を開始。

13:45 ダイエーの対策本部員がポートアイランド到着、「現地対策本部」を設けて、復旧に向け活動開始。
14:38 政府調査団(小沢国土庁長官)19人が自衛隊機で埼玉・入間基地を出発。
15:05 村山首相、災害対策で緊急会議。
16:20 国土庁長官ら、ヘリコプターで被災地を上空から視察。

18:20 国土庁長官、現地入り。
18:30 通産省が緊急物資の確保を各業界に要請。

▼1995年01月18日(水)

ダイエー、ヘリコプター3機の手配完了。フェリーと共に空海の物資海上輸送を展開。ヘリコプターは八尾空港、同社茨木食品センターから神戸市中央区のポートアイランドに物資を降ろした。西宮店などの店頭で被災者に飲料水を提供。被災地の店舗で24時間営業を開始する

▼1995年01月19日(木)

ダ イエー、自衛隊のヘリコプターを使って被災地にある店舗へ物資を緊急輸送。兵庫県伊丹市から神戸市北区にある消防学校に水や食料品を空輸。そこから同社の 配送車で各店に届けた。午前中に3便で計十数トンの物資を輸送した。これとは別に、フェリーによる輸送も引き続き実施している。フェリー船では、食料品な どを積んだトラック48台を大阪・南港から兵庫県の東播磨港まで海上輸送し、兵庫県下の21店舗に配送した。大阪方面からの陸送が、交通渋滞で困難になっているための措置。一方ヘリコプターでも同日午前中に計2回、伊丹空港から神戸市北区の学校まで水や食料品などを空輸し、ダイエーやローソンの店舗に配送 した。

▼それ以外の措置

関 東や中部地方から物資を被災地へ優先的に輸送。被災地の店舗に物資を「必要以上に」大量に陳列する(中内会長の終戦直後の体験・・・商品が店頭になくなればパニックが起きる。どんなときにも商品を供給し続けるのが商人の使命だ。それが街に活力を生む)。全壊して営業が困難な店舗でも、電気を灯し、テントで過ごす被災者への希望の光になるよう願いを込めた。