新聞社は報道機関であると同時に、言論機関でもあり、営利企業でもあります。したがって各社とも他社との差別化をはかり、できるだけ多くの固定読者層を獲得しようとします。このため、各社の報道姿勢や言論内容は表向きは公正中立であると言われますが、実際にはそれぞれの新聞社ごとに独自の色がつくことになり ます。
読売新聞は、スポーツ面で自社がスポンサーとなっている野球チームの読売巨人軍について大きく取り扱ったり、カラーを活用して文字の大きい紙面構成にしたり、読者の興味を引きそうな記事は大きな写真入りで掲載するなど、興行的な手法も多用しています。言論においては、過去に「読売新聞憲法改正試案」 という読売独自の憲法改正案を発表、社会へ向けて改憲の必要性を強くアピールしました。通常の特集の中でも、自衛隊の法制面・装備面の問題を指摘した記事を多数掲載し、危機管理や国際貢献に自衛隊を活用することに前向きな姿勢の社説も展開しています。読売新聞の渡辺恒雄会長が中曽根元総理のブレーンだったこともあり、社説も自民党の保守本流の意見に近い論調が多く、この姿勢が時として「政府寄り」「政府の広報紙」と批判されることがあります。
一方の朝日新聞は、 戦前は最も国家主義的な論調の新聞でありながらも、戦後は護憲と反権力の論陣を張ってきました。非軍事・住民自治・戦争責任・基地問題・社会福祉・環境問題などを扱った特集を多く掲載し、国際的な危機が発生した場合には、軍事による解決よりも対話と協調を唱える社説を展開しています。特集や解説も、他紙と比較して理念的で専門性が高い傾向にあります。このような報道姿勢は、主にインテリ層(朝日は他紙と比較して高学歴層・高収入層の購読率が高いと言われています)や革新層などの固定読者層の獲得につながっている一方で、視点が一面的であり中立性を欠くとする批判があります。
毎日新聞は全国紙の中では比較的リベラルですが、固定読者層の対象を絞り込めていないため部数が低迷しています。このため、紙面の大幅な刷新と署名記事の増加によって記事の読みやすさ・信頼性に力を入れています。産経新聞も 「新しい歴史教科書をつくる会」の一つの活動拠点となり、さらに国際情勢(とりわけ中国や北朝鮮の脅威)に対応するための自衛隊の増強を主張するなど保守層にターゲットを絞った報道姿勢をとっています。夕刊の廃止も決定してニュース解説に力を入れていく姿勢を打ち出しています。
このように全国紙だけ見ても各新聞はそれぞれ独自の報道姿勢を持ち、言論活動を行っていますが、その一方で「これらの新聞報道は単に同一の情報源を各社独自に” 脚色”しただけであり、日本の新聞社の取材体制は画一的だ」とする批判もあります。このような批判は、新聞社の「記者クラブ体質」の問題に依拠しています。
記者クラブと番記者
記者クラブとは、名目上、政府機関、地方自治体、各界団体、大企業などのニュース・ソースに出入りする取材記者が、相互の親睦のためにその内部に自発的に結成された会、ということになっています。しかし実際には、取材記者が情報源に接するための前線基地として機能しており、日本の報道活動の上で重要な機能を担っています。全国に400以上ある大小の記者クラブでは、膨大な発表内容の処理が共同で行われ、記者同士の情報の共有や記者会見の主催なども行われます。一般に記者クラブに加入できるのは、日本新聞協会か民間放送連盟に加盟している会社がほとんどで、記者クラブ室や共同記者会見へは関係者以外の出入りが厳しく制限されています。定例記者会見へ外国人プレスやフリージャーナリストなどにも参加を認めているクラブはごくわずかです。
記者クラブは「内輪の仲間」という意識が強く、情報の安定供給も目的としているため、加盟社のどこかが他社を出し抜いて報道することを極端に嫌います。このため記者クラブは特定の社の出し抜きに対して、クラブからの除名などの制裁措置を取ることがあります。さらに、共同で情報源(情報提供者)と接触するため、仲間うちの連帯意識の中で「記事にできる情報」と「記事にできない情報」の分類が成立することになります。したがって、記者クラブ体制の元では取材競争は抑制され、画一的な情報源を各社が自社のスタンスに見合うように脚色しただけの記事が新聞に掲載される傾向が強くなります。
この記者クラブと対照的な役割を担っているのが、「番記者」の存在です。番記者とは、特定の政治家・派閥・政党の周囲に四六時中張り付いて、その動静を切れ目なく追う記者のことで す。番記者は基本的に個人単位で行動し、いかにして大物政治家から重要な情報を引き出すかに腐心します。しかし、この番記者にも弱点があります。日本の政治は欧米と比較して密室性が高く、表にならないところで様々な取引が行われます。このような環境の中で他社を差し置いて有力な情報を得るには、政治家といかに関係していくかが重要になってきます。したがって、政治家に近い位置にある番記者は重要な情報を得ることができますが、それゆえに「記事として書けないこと」も出てきてしまいます。
特に自民党においては、派閥の領袖の動向が政策過程や権力過程に大きな影響を与えているため、各新聞社は派閥の構造に合わせて番記者を配置しました。やがて新聞社内でも、政権派閥(自民党主流派)を担当する番記者が「花形」とされ、社内の政治部における出世にも関係してくるようになりました。大手新聞各社の政治部長は、その多くが自民党の主要派閥の番記者から、自民党担当のキャップ、政党担当のデスクを経ていました。政治部の記者教育において、特定の政治家に食い込んでいくことが重視されていたわけです。
このような体制は、記者と政治家との癒着を生むことになりました。特に55年体制下では、派閥の番記者が担当派閥の利益のために、政界工作の一翼を担った場面もあったようです。また、番記者の中から国会議員へ転身し、担当していた派閥に所属するようなケースも見られました。政治家側も番記者を積極的に利用しようとしました。懇談などは気に入った番記者以外には応じないなどして、記者の系列化を生むことになりました。このような番記者のあり方を巡って、新聞社内でも制度改革の動きが試みられましたが、有力な情報を握る政治家と個人的関係を持つことのメリットは捨てがたく、失敗に終わっています。
渡辺恒雄氏と政治
このような新聞記者と政治家との「個人的つながり」は、様々な記者経験者の証言や著作からもうかがい知ることができます。その中でも特に、現在、読売新聞会長と日本新聞協会会長の職に就いている渡辺恒雄氏は、自らの回顧録の中で、政治部記者時代の政治家とのつながりを詳細に語っています。
例 えば1960年に起きた「樺美智子さん事件」において、政治部記者であった渡辺氏は、自らが政府声明の文章を執筆した事実を認めています。(樺美智子さん 事件・・・1960年6月、日米安全保障条約反対を叫ぶ全学連の学生達が国会内に突入。警官隊との激しい衝突の中で、デモに参加していた東京大学の学生だった樺美智子さんが圧死した事件)
−他にこの安保騒乱で憶えていることはありますか。
渡辺 騒乱のほうはないな。ただ政府声明を書いたよ。
−政府声明をですか?
渡辺 そうです。六月十五日に樺美智子さんが亡くなったでしょう。そのとき内閣が声明を出すんだけど、僕が書いたんだよ。(略)僕に「書いてくれ」と言うんだよ。だから首相官邸裏の官房長官官舎で、僕は政府声明を書きましたよ。そしてその原稿が閣議にかかる。結局、一行を除いて全文そのまま政府声明として、発表されることになるんだ。
(渡辺恒雄『渡辺恒雄回顧録』中央公論新社)
さ らに渡辺氏は、「盟友」と呼ぶほど親しい関係にある中曽根康弘首相(当時)に対し、「死んだふり解散」につながる提案書(建白書)を手渡し、その後の党則改正問題についても中曽根氏の代理として後藤田氏に相談に行ったことについても回顧録で語っています。(死んだふり解散・・・1986年、野党に対して 「解散しない」と公言して「死んだふり」をしていた中曽根康弘首相が、衆議院の定数是正が実現すると直ちに衆議院を解散。初の衆参同日選挙が実施され、自民党が空前の大勝利を収めた)
渡辺 (略)こうして僕は、調べつくした建白書を中曽根さんに持っていって、「死んだふり、寝たふりしなきゃダメですよ」と言ったんだ。
−それはいつごろから調べ、いつ渡したのですか?
渡辺 もちろん、解散の一ヶ月以上前ですよ。もっと前だったかな。
−結局、六月二日、中曽根首相は臨時国会を召集して即日解散しますが、噂はされていたものの、よく話が漏れませんでしたね。
渡辺 そうだよ。僕がいちばん危惧したのは、中曽根さんが漏らすこと。しゃべったら即おしまいだよ。側近にでもおしまいだからね。でもあのとき中曽根さんはよく死んだふりをしたと思うね。芸術的に死んだふりをしたよ。(笑)
(略)
−結局、「死んだふり解散」は、衆議院で追加公認を入れれば三○四議席と自民党に大勝利をもたらしますね。そして中曽根総裁任期延長の話が出てきます。このあたりはどうご覧になっていましたか。
渡辺 大勝した後、すぐ辞めるというのはおかしいからね。しかし通常二年という任期が党則改正で一年にされてしまう。中曽根さんはこれを嫌がって、「二年やらなくて一年でいいから、形式上は任期を二年延長しておいてほしい」と僕に言うんだ。それで僕に、「後藤田さんに会って相談してくれ」と言う。後藤田さんのところへ、僕は行きましたよ。ところが行ったら怒鳴られるんだ。「この大勝を背景にして、もう驕りが出たのか」と言われてね。とにかく「それは驕りだ、一年だ。二年に延長なんてとんでもない」と言われたよ。
(渡辺恒雄『渡辺恒雄回顧録』中央公論新社)
テレビの台頭
このような記者クラブ・番記者を中心とした閉鎖的な情報収集体制も、今日では大きな転機を迎えています。その一つのきっかけをつくったのがテレビの台頭で す。テレビは新聞に比べて後発のメディアであり、(提携している新聞社の強い影響下にありながらも)記者クラブや番記者のしがらみからは比較的自由な状態 にありました。また、当初はテレビの報道番組がそれほどビジネスにならなかったので、テレビ局の政治部の規模は小さく、新聞社の半分程度の人数で動いてき ました。人数的な制約によって、テレビ局は新聞社のように各派閥に番記者を張り付けることができず、派閥の政界工作に深く関与する機会も少なかったようで す。
そして、1985年からテレビ朝日で放送が開始された「ニュース・ステーション」が今までの報道番組の概念を塗り替えることにな ります。「ニュース・ステーション」は報道局が制作していますが、バラエティー番組の製作会社であったオファイス・トゥー・ワンの支援を受け、同社の下でバラエティー番組の司会を務めていた久米宏をメインキャスターとして起用しました。キャスターの話術に加え、現場からのレポート、地図や模型を使った解説、専門家のゲストによる解説などを多用して高視聴率を維持、報道番組もビジネスとして成立することを証明しました。その後、筑紫哲也をメインキャスター とする「ニュース23」、ワイドショーを担当するテレビ朝日の社会情報局がワイドショーと同じ感覚で当事者の生の声を伝える「サンデープロジェクト」なども放送が開始され、報道番組も視聴率競争の時代へと突入しました。
視聴者はテレビを通じて政治家の生の発言を聞くことができ、さらに 新聞社の番記者が隆盛であった時代には表に出られなかった若手議員が歯切れの良い議論を展開します。言外に様々なことを匂わせつつ問題への明言を避ける派閥領袖との違いを見せつけました。政治家の中にもテレビの存在を前提として、それを積極的に活用しようとする人々が現れます。このようにして、徐々にテレビは報道メディアとしての重要性を確立していき、番記者を中心とした「取材」と「報道」の二面性(取材では政治家と接近し、報道は各社独自の色づけをする)に対抗する勢力となってきました。
このようなテレビの役割を特に印象づけたのが、宮澤内閣不信任から自民党の一時野党転落へと移る一連の動きです。番記者の反対を押し切って行われた「総理と語る」というテレビ番組において、田原総一郎が政治改革を巡る姿勢について質問したのに対し、宮澤総理は「私は嘘をつかない」と発言。この発言が自民党の分裂に大きく影響することになります。さらに、その後の宮澤内閣不信任案の可決と、総選挙では、テレビは公正中立を主張しながらも実際は「非自民政権誕生に向けて報道した」(椿貞良:テレビ朝日取締役報道局長)という当事者の発言があり、このことが選挙の結果に大きな影響をもたらしたと言われています。一方、新聞社の方は番記者の制度に縛られ、自民党の分裂へと向かう若手を中心とした一連の動きを必ずしも充分には捕捉できずにいました。
さらに2000年には、森内閣の低支持率に対して、加藤派の加藤紘一議員が野党の内閣不信任案に同調する姿勢を表明、いわゆる「加藤の乱」が起きますが、ここでもテレビは重要な役割を果たしています。「サンデープロジェクト」に生出演した加藤紘一と野中広務幹事長に、司会の田原氏が総裁選についての質問を投げかけ、詰め寄られた野中氏が「加藤氏が不信任案に賛成せず、補正予算案をはじめとする重要法案を通したら、代わりに総裁選を前倒してもいい」と取れる発言をします。この発言によって、森内閣の早期退陣を求めていた加藤氏の主張は腰砕けの格好となり、加藤氏は不信任案への同調を取りやめることになります。
さらに、小泉内閣の誕生にもテレビは大きな影響を果たしました。 小泉内閣の「応援団長」である田中真紀子氏は、テレビへの出演機会が多く(新聞では登場機会が限られていました)、テレビで自民党執行部を激しく攻撃する発言によって人気を高めた政治家です。その田中真紀子氏と、同じくテレビを中心に郵政三事業の民営化を唱え続けてきた小泉氏が向かう場所には、必ず大きな人だかりができました。さらに、その模様が映像として繰り返し報道され、小泉・真紀子ブームは一種の社会現象にまで発展しました。圧倒的な人気で自民党の総裁に選出された小泉総理は、閣僚としてテレビなどで国民の人気も高い石原伸晃氏や竹中平蔵氏の起用を決定しています。
このようにテレビは、今や政局にまで大きく影響するようになり、派閥の番記者による報道機能はそのあり方の変更を迫られています。しかし、一方でテレビは時間的・内容的制約によって単純な善悪二元論に陥りやすいという欠点を持ち、メインキャスターのコメントによってニュースの評価が一面的になりがちであるという問題点もあります。また、現実には派閥や政党間のやり取りが存在していても、テレビでそれを巧妙に演出することによって人々の支持を獲得することが可能となる、 という危険性も指摘されています。新聞はそのような環境を是正していくメディアとして再注目されていますが、現在はまだその過渡期にあると言えます。