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	<title>次世代情報都市みらい &#187; 考察</title>
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		<title>議論の種類</title>
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		<pubDate>Tue, 26 May 2009 07:59:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>齊藤 貴義</dc:creator>
				<category><![CDATA[考察]]></category>
		<category><![CDATA[弁論]]></category>
		<category><![CDATA[議論]]></category>

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		<description><![CDATA[今まで、議論とは何か、議論がどういう構造になっているかを見てきました。このページではさらに、議論をいくつかのタイプに分類し、それぞれの基本構造、使用上の留意点、実例などを紹介していこうと思います。
１．「一般化」（Gen [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>今まで、議論とは何か、議論がどういう構造になっているかを見てきました。このページではさらに、議論をいくつかのタイプに分類し、それぞれの基本構造、使用上の留意点、実例などを紹介していこうと思います。</p>
<h3>１．「一般化」（Generalization）による議論</h3>
<p>▼基本構造</p>
<p>一般化による議論においては、データは通常、多くのサンプルによって構成されます。そして、そのデータＤから、許容しうる一般化ができることを、理由づけＷは示さなければなりません。</p>
<p>▼使用上の留意点</p>
<p>（１）個々のサンプルについての情報が正確であり、聞き手の承認を得ていること。<br />
（２）個々のサンプルについての情報が議論の目的にとって適切なものであること。たとえば最新の問題について議論する際に、百年前の情報をもってきても（内容にもよるが）不適切な場合が多い。<br />
（３）充分な数のサンプルが考慮されていること。<br />
（４）サンプルの選択が恣意的、一面的ではないこと。<br />
（５）否定的サンプルが、その質と量において、主張Ｃの一般的信憑性を無効にするほど優勢ではないこと。</p>
<p>▼実例</p>
<p>（Ｄ）西欧諸国では国民所得の向上に伴って家庭での牛肉の消費量が増大した。アメリカでも国民所得の向上に伴い、牛肉の消費量が増大した。日本も高度経済成長以降、牛肉の消費量が飛躍的に増大した。中国も現在、急速な経済発展の途上にあるが、牛肉の消費量は年々増大している。<br />
↓−−（Ｗ）なぜなら、経済発展を遂げた国々がほとんどそうであるならば、このことは世界中どの国においても、一般にそうであろうから。<br />
（Ｑ）おそらく<br />
（Ｃ）経済発展を遂げた国においては牛肉の消費量が増大する−−（Ｒ）牛肉を食べることについてタブーとする倫理観のある国でないかぎり</p>
<h3>２．「類似」（Literal Analogy, or Resemblance）による議論</h3>
<p>▼基本構造</p>
<p>類似による議論では、あるデータから、それと同一のカテゴリに属する他のケースに関する主張が導き出される。データＤから主張Ｃへの推論上の飛躍は、データにおけるケースと、主張におけるケースとが、本質的諸点において類似していることによって正当化される。</p>
<p>▼使用上の留意点</p>
<p>（１）データにおけるケースと、主張におけるケースとが、同一のカテゴリに属すること。二つのケースが異なるカテゴリに属するものは、「比喩」による議論となってしまう。<br />
（２）データの内容が正確であり、聞き手の承認を得ていること。<br />
（３）データにおけるケースと、主張におけるケースとが、重要な諸点について類似していること。<br />
（４）二つのケースの間の差異が、主張の正当性を無効にするほど決定的でないこと。</p>
<h3>３．「比較」（Comparison）による議論</h3>
<p>▼基本構造</p>
<p>比較による議論は、何かが起きる可能性が低いところで起きたならば、高いところではなおさら起きるといったような比較によって、推論上の飛躍が正当化される議論である。</p>
<p>▼使用上の留意点</p>
<p>（１）比較される二つのケースが同一のカテゴリに属する事柄であること。<br />
（２）データの内容が正確であり、聞き手の承認を得ていること。<br />
（３）程度の比較が正当であり、聞き手の承認を得ていること。</p>
<h3>４．「分類」（Classification）による議論</h3>
<p>▼基本構造</p>
<p>分類による議論は、あるカテゴリについて一般に認められた事柄や、先立つ議論によってその正当性が立証された事柄から、そのカテゴリに属する個別的ケースの主張を導き出そうとする議論である。</p>
<p>▼使用上の留意点</p>
<p>（１）データの信憑性が、聞き手を含めて一般に承認されていること。<br />
（２）主張におけるケースが、データで一般的情報が述べられているカテゴリに属するものであること。<br />
（３）主張におけるケースが、そのケースに属するカテゴリの中で例外的ケースではないこと。</p>
<h3>５．「徴候」ないし「シルシ」（Sign）からの議論</h3>
<p>▼基本構造</p>
<p>複数の事実から、それらの事柄が何かの徴候になっていることを主張する議論です。データが主張で述べられていることのシルシになっていることを証明することによって、この議論は成立します。</p>
<p>▼使用上の留意点</p>
<p>（１）データを構成する個々の事柄が事実であり、聞き手の承認を得ている。<br />
（２）データを構成する個々の事柄が当面の目的にとって適切であること。より具体的には、それぞれの事柄が徴候であることを示していること。<br />
（３）できるだけ多くの徴候が考慮されていること。<br />
（４）否定的徴候が、その質と量において、主張の一般的効力を無効にするほど優勢ではないこと。</p>
<h3>６．「因果関係」の議論（Causal Argument）</h3>
<p>▼基本構造</p>
<p>「このようなデータが存在する以上、その当然の結果としてこの事柄が発生する」という構造によって、主張の確かさが立証される議論。データと主張との推論上の飛躍は、両者が原因−結果の因果関係にあるということによって正当化される。</p>
<p>▼使用上の留意点</p>
<p>（１）データの内容が事実であり、聞き手の承認を得ていること。<br />
（２）データの内容が当面の目的にとって適切であること。具体的には、データが主張で述べられていることの「原因」であること。<br />
（３）原因−結果の関係を断ち切るようなファクターの存在が予想されるときには、それらが充分考慮されていること。</p>
<h3>７．「ルール」（Rule）に基づく議論</h3>
<p>▼基本構造</p>
<p>データから主張への推論上の飛躍が、法、規則、慣習などといった、社会制度の中で制度化されたルールによって正当化される議論。</p>
<p>▼使用上の留意点</p>
<p>（１）データの内容が正当であり、聞き手の承認を得ていること。<br />
（２）問題のルールの実在および内容が、聞き手にとって充分理解されていること。</p>
<h3>８．「理念」（Idea）ないし「信念」（Belief）に基づく議論</h3>
<p>▼基本構造</p>
<p>理念や信念によってデータから主張への推論上の飛躍が正当化される議論。法として社会システムの中で制度化されている理念もあれば、法制度はないが広く一般に承認されている通説、少数者によってのみ支持されている理念などもあり、多義的である。</p>
<p>▼使用上の留意点</p>
<p>（１）データの内容が適切であり、聞き手の承認を得ている。<br />
（２）理由づけを構成する理念や信念の正当性が一般に広く承認されているか、もしくは、それに先立つ議論によってその正当性が充分に立証され、聞き手によって正当であると承認されていること。</p>
<h3>９．「定義」（Definition）による議論</h3>
<p>▼基本構造</p>
<p>言語によるコミュニケーションが成立し、それが一定の成果をあげるためには、そこで用いられる用語についての共通の了解が不可欠となる。その了解を定式化したものが定義であり、定義を理由にして主張の正当性を立証しようとしたものが、定義による議論である。ただし、この定義による議論は、特に社会生活などに関わる用語において、理念やルールによる議論とオーバーラップすることも多い。</p>
<p>▼使用上の留意点</p>
<p>（１）データの内容が適切であり、聞き手の承認を得ている。<br />
（２）理由づけを構成する定義の正当性が一般に広く認知されているか、もしくは、それに先立つ議論によって充分立証され、聞き手の承認を得ていること。</p>
<h3>10．「証言」（Testimony）に基づく議論</h3>
<p>▼基本構造</p>
<p>様々な種類、様々な内容の証言をデータとし、それによって主張を正当化しようとする議論が、証言に基づく議論である。この議論では、データから主張への推論上の飛躍が、当の証言がその議論の文脈においてもつ信憑性によって正当化される。</p>
<p>▼使用上の留意点</p>
<p>証言に基づく議論が説得力をもつための条件は、その証言がいかなる種類に属するものかによって異なる。ここでは、個別の種類ごとに留意点を整理しておこう。</p>
<p>専門家の意見や判断がデータとして用いられる場合<br />
（１）その人物や機関がその問題についての権威であること。<br />
（２）その人物や機関がバイアスからできるかぎり解放されていること。その問題について直接的な利害関係や情緒的なコミットメントをもつ人物や機関の証言は、割り引いて考える必要がある。<br />
（３）その人物や機関が、その問題に関する第一次資料を充分検討したうえで結論を出していること。<br />
（４）その意見や判断に内的不整合が見られないこと。<br />
（５）その人物や機関が、その証言と両立しえないような証言を他の機会で述べていないこと。<br />
（６）その証言と両立しえない証言が他の専門家によってなされている時には、その証言よりも信用のおけるものであること。<br />
（７）その証言が多くの他の専門家によって支持を受けていること。ただし、これは絶対条件ではない。<br />
（８）その人物や機関の証言が適切に引用されていること。</p>
<p>統計資料がデータとして用いられる場合<br />
（１）専門的調査機関によって作成された統計資料であること<br />
（２）統計学上のルールや手続きを満たした統計資料であること。<br />
（３）正確に引用されていること。</p>
<p>目撃者（体験者）による証言がデータとして用いられる場合<br />
（１）事件当時、目撃者が、正確で客観的な観察の妨げとなりうるような肉体的、精神的欠陥をもっていなかったこと。欠陥があった場合には、その欠陥にも関わらず目撃者の証言が信用に値することが立証されていること。<br />
（２）観察が不都合な条件下でなされていないこと（観察距離や明るさなど）<br />
（３）証言者が、バイアスによって歪められない客観的な観察をなしうる立場の人間であること。<br />
（４）証言内容に内的不整合がないこと。<br />
（５）他に異なった、両立しえない証言があるときは、それより信用のおけるものであることが立証されていること。<br />
（６）故意に誇張された証言や、虚偽の証言ではないこと。<br />
（７）証言が正確かつ適切に引用されていること。</p>
<h3>11．「比喩」（Figurative Analogy）による議論</h3>
<p>▼基本構造</p>
<p>比喩による議論は、それ自体としては主張の確かさを立証することができないが、主張の確かさ、もっともらしさを印象づけるうえで大きな効果を発揮する。この議論は、一般に広く知られている事柄から、それとは別なカテゴリに属することについての主張を導き出そうとする。データには、たとえ話、伝説、伝承、歴史的エピソード、ことわざ、古典（聖書や文学作品など）の一節など、様々なものが用いられる。この種の議論では、データと主張のケースが、ある種の共通点（比喩的類似）が存在することによって正当化されるが、推論上の飛躍は、今まで見てきた議論ほどは正当化されない。</p>
<p>▼使用上の留意点</p>
<p>（１）データを構成する事柄が、一般に広く知られたものであるか、聞き手が即座に理解し受け入れることのできるものであること。<br />
（２）データにおけるケースと主張におけるケースとの間の共通点が、聞き手によって容易に理解されうるような明快なものであること。</p>
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		<item>
		<title>議論の構造</title>
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		<pubDate>Mon, 25 May 2009 15:50:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator>齊藤 貴義</dc:creator>
				<category><![CDATA[考察]]></category>
		<category><![CDATA[弁論]]></category>
		<category><![CDATA[議論]]></category>

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		<description><![CDATA[議論の構造を分析しよう
相手の理性に訴えかけて自己の主張を述べようとするとき、私達は自分の主張を裏付ける理論や事実を示さなければなりません。根拠がなければ、議論はただの言い争いになり、説得力を失ってしまうためです。これは [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a title="Difficult meeting" href="http://www.flickr.com/photos/94353977@N00/2987232840/" target="_blank"><img class="alignright" style="border: 0pt none;" src="http://farm4.static.flickr.com/3251/2987232840_1d5231d765_m.jpg" border="0" alt="Difficult meeting" width="240" height="160" /></a>議論の構造を分析しよう</p>
<p>相手の理性に訴えかけて自己の主張を述べようとするとき、私達は自分の主張を裏付ける理論や事実を示さなければなりません。根拠がなければ、議論はただの言い争いになり、説得力を失ってしまうためです。これは何も難しいことではなくて、たとえば幼児でも、「この前、日曜日につれていくって約束していたから」、「遊園地に行こうよ」、という具合に、もっともらしい理由をあげることを体験を通じて学んでい ます。このように、議論は、一般に<strong><span style="color: #000099;">主張</span></strong>（結論）と、それを正当化するための<strong><span style="color: #000099;">根拠</span></strong>（前提）によって構成されています。この根拠は、一つ、または一組の証拠となるべき事柄によって構成されています（右画像<small><a title="Attribution-NoDerivs License" href="http://creativecommons.org/licenses/by-nd/2.0/" target="_blank"><img src="http://www.mirai-city.org/wp-content/plugins/photo-dropper/images/cc.png" border="0" alt="Creative Commons License" width="16" height="16" align="absmiddle" /></a> <a href="http://www.photodropper.com/photos/" target="_blank">photo</a> credit: <a title="Simon Blackley" href="http://www.flickr.com/photos/94353977@N00/2987232840/" target="_blank">Simon Blackley</a></small>）。</p>
<blockquote><p><strong>具体例</strong></p>
<p>「近年の韓国は日本の文化を積極的に開放している」から、「今後、韓国では日本文化に対する理解と交流が深まっていくだろう」と結論する。</p>
<p>「インドネシア、チェチェン、コソボなど、冷戦時代には想定していなかった地域紛争が世界中で発生している。さらに、これらの問題を包括的に対処しうる国際秩序が形成されていない」から、「冷戦後の世界にとって、この地域紛争の解決が重要な問題となる」と結論する。</p></blockquote>
<p>議論道場では、結論を導き出すための直接の証拠を<strong><span style="color: #000099;">データ</span></strong>（Data　以下Ｄと表記する）、データから導き出された結論を<strong><span style="color: #000099;">主張</span></strong>（Claim 　以下Ｃと表記する）と命名します。データは、議論をする相手にとって納得しうる内容のものでなければなりません。自分にしか納得できないデータをいくら並べたところで、相手の理性に訴えかけることは不可能であるためです。「我が党の機関誌には、こう書いてあるんだ」と述べても、「私の信じる宗教では、こ の認識に立っている」と述べても、そこから示されているデータに普遍性が存在しなければ、同じ党員や同じ宗教の人しか説得できなくなります。</p>
<p>また、厳密に考えた場合、主張はデータと同義語またはそれに等しいものでないかぎり、<span style="color: #ff0000;"><strong><span style="color: #000099;">推論上の飛躍</span></strong></span>（inferential  leap）が存在します。そこを突いて、「韓国が日本の文化を開放しているからといって、日本文化への理解や交流が深まるとは言えないのではないか」という有効な反論を提示することも可能です。このような反論に答えるためには、主張者は、データからその主張がなぜ導き出せることの合理性を立証しなければなりません。先の例について言うならば、「なぜなら、文化の輸入がその国への理解や交流の原動力になるから」ということを論証しないかぎり、主張は正当性を欠いたものになります。</p>
<p>このように、「データからなぜその主張に達することができるのかを立証したもの」を、ここでは<span style="color: #ff0000;"><strong><span style="color: #000099;">理由づけ</span></strong></span>（Warrant　以下Ｗと表記する）と呼ぶことにします。理由づけは、明言されない場合があります。しかし、この理由づけがいかなる構造になっているかは、意見を分析して有意義な議論を展開する際の大きなカギとなります。</p>
<p>さて、今まで見てきたなかで、議論が大きく三つの部分によって構成されていることが明らかになったと思います。すなわち、「データ」「理由づけ」「主張」です。Ｄ→Ｃへと続く過程に、Ｗが入ることによって、議論はより論理的になります。</p>
<hr size="1" />次に、この三要素を基礎としながら、もう少し議論の構造を詳しく見ていきましょう。議論はＤ→Ｗ→Ｃへと至るプロセスによって構成されますが、このうち、理由づけＷが、データＤから主張Ｃへの移行を百パーセント保証するものを、<span style="color: #ff0000;"><strong><span style="color: #000099;">必然的議論</span></strong></span>（necessary       argument）と呼ぶことにします。それに対して、理由づけＷが、データＤから主張Ｃへの推論上の飛躍をかなりの程度に保証することはできても、百パーセント保証することはできない議論を、<strong><span style="color: #000099;">蓋然的議論</span></strong>（probable     argument）と呼ぶことにします。社会問題のような複雑な問題を対象として行われる議論は、どうしても蓋然的議論が多くなります。</p>
<p>蓋然的議論においては、百パーセント真実ではなくても、蓋然的なものもデータとして使うことができます。つまり、蓋然的議論は、真実もしくは蓋然的なデータに基づき、完全とは言えない理由づけによって、主張の蓋然性（もっともらしさ）を正当化しようとする議論であると言えます。</p>
<p>蓋然的議論を展開するためには、Ｄ→Ｗ→Ｃのプロセスがどの程度確実か、明示される必要があります。その明示の程度を示す要素を、ここでは<span style="color: #ff0000;"><strong><span style="color: #000099;">限定語</span></strong></span>（Qualifiew 　以下Ｑと表記する）と呼ぶことにします。このＱの程度が、「・・・になる可能性もないとはいえない」くらいであれば、議論の分野や目的にもよりますが、 説得力のある議論を展開することはできません。「・・・になる可能性が非常に高い」ということを立証していくことが、議論を展開していく際に不可欠であります。</p>
<p>さらに、蓋然的議論において、理由づけＷは、いかなる状況においても当てはまるとは限りません。理由づけＷは、あくまでも一般的正当性しか有さず、例外が存在する場合があるためです。このような場合、誤解や議論が本旨から外れることを防ぐために、例外的なケースをあらかじめ想定し、議論の留保条件として明示しておくことが望ましいと言えます。このような留保条件を、ここでは<span style="color: #000099;"><strong>反証</strong></span>もしくは<span style="color: #ff0000;"><strong><span style="color: #000099;">留保</span></strong></span>（Rebuttal     or Reservation　以下Ｒと表記する）と呼ぶことにします。</p>
<p>また、理由づけＷは、真実である場合もあれば、蓋然的である場合もあります。時には、理由づけＷの信憑性を裏付けるために、さらに資料が必要になる場合があります。このような場合、<span style="color: #ff0000;"><strong><span style="color: #000099;">理由づけの裏付け</span></strong></span>（Backing     for Warrant　以下Ｂと表記する）が必要となってきます。</p>
<p>最後に、議論をこのような構成要素に分類したトゥールミンという人が、例としてあげている議論の一つを紹介します。</p>
<blockquote><p>（Ｄ）ハリーはバミューダーで生まれた<br />
↓−−（Ｗ）なぜなら、バミューダーで生まれた者は英国人になるから−−（Ｂ）「英国領で生まれた者の国籍に関する法律」によって、そのように定められているから<br />
（Ｑ）たぶん<br />
（Ｃ）彼は英国人であろう−（Ｒ）彼の両親が共に外国人であったり、彼自身がアメリカに帰化したのでないかぎり</p></blockquote>
<p>以下は、この形式を使った一例です</p>
<blockquote><p>（Ｄ）中国経済は急速に発展している<br />
↓−−（Ｗ）なぜなら、国際社会において経済力のある国は発言力を強めているから−−（Ｂ）アメリカや日本、ＥＵなどのように、経済発展を遂げた国は、他の発展途上国と比較して、国際社会で大きな発言力を有しているから<br />
（Ｑ）かなりの確率で<br />
（Ｃ）国際社会での中国の発言力は強まるだろう−（Ｒ）中国の経済が早期に低迷したり、政治の混乱が拡大しないかぎり</p></blockquote>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>議論とは何か</title>
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		<pubDate>Mon, 25 May 2009 15:42:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>齊藤 貴義</dc:creator>
				<category><![CDATA[考察]]></category>
		<category><![CDATA[弁論]]></category>
		<category><![CDATA[議論]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.mirai-city.org/?p=352</guid>
		<description><![CDATA[議論とは何か

私たち人間は、一人で生きていくことはできません。そのため、家族、学校、企業、地域、国家などの様々な集団に所属し、その中で「他の誰か」と共に社会生活を送っています。この世界に一人として同じ人間がいない以上、 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>議論とは何か</h3>
<p><a title="Saviour" href="http://www.flickr.com/photos/14377754@N02/3555263399/" target="_blank"><img class="alignright" style="border: 0pt none;" src="http://farm4.static.flickr.com/3593/3555263399_3343f96e85_m.jpg" border="0" alt="Saviour" width="240" height="160" /></a></p>
<p>私たち人間は、一人で生きていくことはできません。そのため、家族、学校、企業、地域、国家などの様々な集団に所属し、その中で「他の誰か」と共に社会生活を送っています。この世界に一人として同じ人間がいない以上、そのような状況の中では、様々な問題群を巡って、認識や考えの違いが表面化してくることがあります（右写真<small><a title="Attribution-NoDerivs License" href="http://creativecommons.org/licenses/by-nd/2.0/" target="_blank"><img src="http://www.mirai-city.org/wp-content/plugins/photo-dropper/images/cc.png" border="0" alt="Creative Commons License" width="16" height="16" align="absmiddle" /></a> <a href="http://www.photodropper.com/photos/" target="_blank">photo</a> credit: <a title="hapal" href="http://www.flickr.com/photos/14377754@N02/3555263399/" target="_blank">hapal</a></small>&gt;）。</p>
<p>この場合に取りうる選択肢として、まず次の二つがあると思われます。１．自分の意見を表に出さずに当面の対立を回避する、２．自分の意見を主張して相手に同意を求める（より良い意見を探す）。この１と２の選択のうち、どちらが望ましいかは、状況や個人の信条などに大きく左右されるため、一言で決めることはできません。</p>
<p>しかし、争点となっている事柄が自分にとって重要な問題である場合、または、その問題に関して自身の見解を他者から要求されている場合などには、自己の主張を展開し、相手を説得する必要性が生じてきます。それでは、相手に自分の主張を承認させようとする場合、いかなる手段が考えられるでしょうか。厳密に言うと、相手を説得するという行為は、様々な要素が絡んできて、明確な区別をしにくい面がありますが、ここでは便宜的に四つに分類してみようと思います。</p>
<blockquote><p><strong>１</strong>．実力（権力・暴力など）を行使して相手の意見を直接沈黙させる。<br />
<strong>２</strong>．見返りとなる利益（金銭、社会的地位など）を与えて相手の意見を間接的に沈黙させる。<br />
<strong>３</strong>．様々なシンボル（音楽、映像、アジテーション、シュプレヒコール）を使ったり過激な言葉や強い口調を多用したりして人々の感情に訴える。<br />
<strong>４</strong>．なぜ自説が正しいのかを論理立てて証明して人々の理性に訴えて人々の合理的かつ自発的同意を得る。</p></blockquote>
<p>よくよく考えていくと、これら四つの手段のうち、１から３までの手段は、それほど大きな差がないことがわかります。１から３の手段にとって、他者の意見は、操作の対象でしかありません。自分の意見の正当性よりも、その操作がうまくいったかいかないかが重要となってくるわけです。しかし、４の手段は、このような操作による主張の展開とは質的に異なってきます。４の手段においては、主張の整合性や妥当性が最重視され、それらが確保できなかった場合には自説を潔く引き込める余地も残されています。また、４は、他者を人として尊重し、自分の意見をより高い段階へと発展させていける可能性も有しています。</p>
<p>大きな声をあげて相手を牽制したり、力を背景に言うことをきかせるという手段は、人間以外の動物なども使える手段です。しかし、理性に訴えかけて相手の同意を求める手段は、人間のみが使っています。ゆえに、４の手段は、最も発展的であり最も人間的な主張の展開手段であると言えます（ただし、出発点を「人としての心」に置かずに理性のみに訴える議論は別。これについては後述します）。</p>
<p>議論道場では、４の手段のように、理性に訴えるという方法を用いて相互に意見を述べあう行為を議論と定義したいと思います。もちろん、たとえば３のような手段を「議論」と呼ぶときもありますし、問題を解決する手段として４がいかなる場合も優れているということを主張するつもりはありません。しかし、理性に訴えかける議論は、建設的なコミュニケーション手段の一つであり、次の世代への情報の継承を掲げる&#8221;みらい&#8221;の理念とも合致すると考えます。</p>
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		<title>死刑に関する一考察</title>
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		<pubDate>Wed, 13 May 2009 12:52:28 +0000</pubDate>
		<dc:creator>齊藤 貴義</dc:creator>
				<category><![CDATA[考察]]></category>
		<category><![CDATA[死刑]]></category>

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		<description><![CDATA[第一節　死刑概観
死刑とは、犯罪者の生命を奪う刑罰である。死刑は最も峻厳な国家刑罰の行使であり、その本質が生命の剥奪であるがゆえに、古来よりその存廃に関して論争がなされてきた。日本は死刑存置国であり、現行刑法において死刑 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>第一節　死刑概観</h3>
<p>死刑とは、犯罪者の生命を奪う刑罰である。死刑は最も峻厳な国家刑罰の行使であり、その本質が生命の剥奪であるがゆえに、古来よりその存廃に関して論争がなされてきた。日本は死刑存置国であり、現行刑法において死刑を規定している。(1)</p>
<h3>第二節　死刑存廃論概観</h3>
<p>死刑の存廃を巡る論争は多岐に渡るが、従来主張されてきたものから有力なものを選んで列挙していくと、下記のものが挙げられる。</p>
<p>死刑存置論の論拠としては、<1>「人を殺したる者はその生命も奪われるべし」というのが国民の法的確信である、<2>世論調査によれば、国民の多くは死刑存置を望んでいる、<3>社会の応報観は、犯人が死刑に処せられることによって満足するものである、<4>死刑を廃止すれば私刑が増加する怖れがある、<5>被害者の親族は加害者が死をもって贖罪したことにより満足するものである、<6>法秩序の維持のためには、死刑の威嚇力はなお有効である、<7>死刑は一種の必要悪である、<8>死刑は無期刑に比べて経費がかからない、<9>優生学の見地からも、改善不能の犯罪者は死刑に処した方がよい、<10>大多数の殺人犯人は、彼らの犯した罪の償いとして死刑を歓迎するものであり、彼らの死ぬ権利を否定するべきではない、<11>法の基礎である絶対的正義の見地よりして、死刑は故意の殺人犯に対する最も正しい刑罰である、等がある。</p>
<p>死刑廃止論の論拠としては、<1>死刑は人道的感情に反する野蛮な刑罰である、<2>死刑には威嚇力がない、<3>死刑は復讐を基礎とするものであって、改善主義の理念に反するものである、<4>誤判の場合において、死刑は一度執行された場合回復できない、<5>死刑の存在は国家が殺人を禁じていることと矛盾する、<6>死刑は犯人の家族に対して重荷を科する、<7>死刑は一般人に対して残忍性を流布し、人命を軽視する結果を招来する、<8>死刑は貧困者に対してより多く科される傾向にあり、不平等な身分的側面を有する、<9>社会からの隔離は無期刑で充分であり、無期刑に代替することにより加害者に被害者の家族の救済をさせるべきである、<10>死刑は憲法に違反する、<11>死刑は自己犠牲の衝動を満足させるものであり、死刑の制度がなければこうした欲求を満足させるための衝動は起こらない、<12>世論調査の結果は世論を正しく反映したものとは言えず、生命の剥奪という重大問題を数のみで解決することには疑問がある、等がある。(2)</p>
<p>しかし、これらの死刑存廃論の争点は実証が困難であることがしばしば指摘されている。例えば、セリンの研究によってアメリカの死刑廃止州と死刑存置州の犯罪抑止効果の実証研究が行われ、それらの州の間には有為な差が存在しないことが明らかになった。しかし、犯罪の増減という多元的要素からなる現象を、死刑の有無という単純な要素に関連づけて相関を論じることには無理がある (3)。</p>
<p>現状において死刑の存廃は高度な政治的判断に懸っているが、先進民主主義国を中心に各国は徐々にではあるが死刑廃止へと動きつつあり、日本においても法的な観点に加えて思想的な観点などからも死刑制度についての再検討が必要とされていると言える。(4)</p>
<h3>第三節　死刑廃止後の代替刑は如何にあるべきか</h3>
<p>死刑廃止後の代替刑としては、<1>仮釈放のない完全な終身刑、<2>安易な仮出獄は運用の問題として解消されるべきで、現行法の無期懲役・禁固、<3>絶対的無期刑ではなく再社会化の希望を確保しつつ、人格の破壊にいたらないように判決確定後最低一五年または二十年間までは仮釈放を認めない無期刑、<4>刑の執行後二十年を仮釈放決算日として社会感情が仮釈放を承認することを必要条件とした特別の無期自由刑、<5>死刑も無期刑も廃止して有期刑、<6>不定期刑、等が提案されている。(5)</p>
<p>私としては、死刑の代替刑は有期刑こそが最も適切であると考える。刑法第三二条の時効論に基づき、刑の言い渡し後、三十年を懲役期間とし、その刑期が過ぎれば釈放する制度を最高刑として導入する。(6)</p>
<p>このことは、刑法上、精神において死刑と同視されている時効三十年の規定をもって、従来の刑罰の効果を国家が保証することを国民に知らせることができ、犯罪抑止効果を信奉する国民には安心感を（抑止効果の実効性に関しては実証による検証が困難であるため、本論では判断を保留する）、応報感情を抱く遺族にはその苦痛の緩和をもたらす。また、無期刑のような死刑を上回る残忍性はない。国民に生命尊重の意識を定着させる教育効果も存在する。さらに、殺人を禁止する国家が自ら人を殺す矛盾が解消され、刑法上同視されている時効論に代替されることにより、刑法の合理主義の精神の維持も可能となる。再審制度を整備すれば、誤判防止の可能性も向上する。</p>
<p>スペインを始めとする中南米の国々も、死刑や無期刑を廃止して有期刑のみで対応している立法例が見られることからも、有期刑の導入が我が国においても実効性を有していることを証明している。(7)</p>
<h3>第四節　死刑廃止後の遺族感情の鎮静は可能か</h3>
<p>犯罪による被害者（遺族）の悲憤をどうやって鎮静化するかという問題は、死刑存廃論の主要な争点の１つにもなっている。</p>
<p>遺族感情を根拠とする死刑存置論は、次のように主張する。<1>何をやっても死刑にならないというのでは遺族の報復感情が充足されない、<2>犯人が生きていること自体が遺族にとって許されないことである、等である。(8)</p>
<p>私は、死刑廃止後の遺族感情の鎮静は可能であると考える。その理由を以下に述べる。</p>
<p>第１の理由は、遺族の応報感情と生命の矛盾と葛藤の解消が計れるためである。現状で国家は、遺族に代わって大切な者を殺した犯人を抹殺することによって「仇討ち」の時代を再現している(9)。しかし、一方で生命の尊重を掲げる現代において被害者の生命を剥奪することは、遺族感情を根本から癒すものではないばかりか、罪があるとはいえ１つの生命を完全に失わせたという矛盾と葛藤を遺族に残すことになる。遺族が犯人の死刑を求めることは多いが、それが意味するのは、現行制度の下での最高刑罰を科してほしいということだけではないかと考えることができる。死刑を廃止した国で被害者感情が爆発したという事件はない。最高刑は有期刑とする制度を導入すれば、「極刑」は「有期刑」となり、生命剥奪の矛盾に悩まずとも、遺族は犯人に最高刑を与える感情的欲求を充足できる。(10)</p>
<p>第２の理由は、犯罪者による遺族への補償が可能となるためである。犯罪者が生存する限りにおいて、遺族への長期にわたる賠償命令（作業賃金制も考慮に入れたものも含めて）が可能となる。「元の生活へ戻りたい」とする遺族の回復感情を満たすためには、物質的・精神的支援が必要であり、犯罪者がその物質的支援を担うことが可能となるのである(11)。</p>
<h3>第五節　まとめ</h3>
<p>今までの議論の中で、死刑制度の存廃論を概観し、その中で死刑廃止後の代替刑として有期刑を提唱し、死刑廃止後において遺族の感情を鎮静できるという観点からその理由について論述してきた。</p>
<p>死刑存廃論については、その争点が多岐に渡ると同時に、廃止論を通じても死刑に代替しうる可能性を指摘することができた。このことは、現状で死刑制度を是認する我が国においても、その是非を巡ってはさらなる検証の余地が充分にあることを浮き彫りにする形となった。実証研究が難しい分野ではあるが、存廃双方とも、その情報を国民に提供し、死刑制度についての国民的議論と、それによる合意形成が急務であると考える。また、いまだ反証可能性を残し、それについての国民的議論が行われない中での死刑執行は、あくまで慎重であるべきと言える。</p>
<h3>参考文献</h3>
<p>(1)死刑全般の概説については、藤本哲也『刑事政策概論』121〜125p<br />
(2)死刑存廃論の概説については、藤本、前掲書126〜127p<br />
(3)セリンの研究とその限界については、団藤重光他『死刑廃止を求める』50〜51p<br />
(4)死刑存廃の判断と各国の動きについては、藤本、前掲書127p<br />
(5)死刑の代替刑については、藤本、前掲書127〜130p、および団藤他、前掲書154〜155p<br />
(6)有期刑については、花井卓蔵『刑法俗論』202〜203p<br />
(7)海外の有期刑については、藤本、前掲書130p<br />
(8)遺族感情を根拠とする死刑存置論については、団藤他、前掲書40p<br />
(9)「仇討ち」の時代という表現は、団藤他、前掲書117p菊田幸一の言葉による<br />
(10)遺族が現行法での極刑のみを求めているという分析については、団藤他、前掲書120〜121p<br />
(11)遺族の回復感情については、団藤他、前掲書42〜46p </p>
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		<title>家族とは何か</title>
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		<pubDate>Fri, 08 May 2009 16:47:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>齊藤 貴義</dc:creator>
				<category><![CDATA[社会科学]]></category>
		<category><![CDATA[考察]]></category>
		<category><![CDATA[家族]]></category>

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		<description><![CDATA[長谷川町子原作の人気漫画「サザエさん」。最初の頃の「サザエさん」は、サザエさんがマスオさんと結婚をしたり、タラちゃんを出産したりと、登場人物の様々な成長が描かれていました。しかし、ある時期を境に、登場人物は歳をとらなくな [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>長谷川町子原作の人気漫画「サザエさん」。最初の頃の「サザエさん」は、サザエさんがマスオさんと結婚をしたり、タラちゃんを出産したりと、登場人物の様々な成長が描かれていました。しかし、ある時期を境に、登場人物は歳をとらなくなりました。時が止まったままのサザエさん。そこには、かつて戦後世代の平均的な家庭の姿であった「サザエさん」が、時代と共に&#8221;珍しく&#8221;なってしまったことへの長谷川の苦悩があったと言われています。</p>
<h3>家族とは何か</h3>
<p>家族とは何でしょうか。私達は家族と聞くと、通常は「夫婦と子供」を基本形態とする核家族をイメージします。しかし、社会には母子家庭や父子家庭もあります。世界全体で見るならば、一夫多妻の家族もいれば、一妻多夫の家族もいます。一夫一妻制が人類にとって一般的な夫婦の形態と見なすことが必ずしも正しいとは言い切れません。たしかに&#8221;人数&#8221;の上では一夫一妻制は今日の世界で最も支持されている形態ですが、ジョージ・マードックという文化人類学者が世界の 849&#8243;種類&#8221;の社会を調査した結果、一夫一妻制を採用している社会はわずか16％にすぎず、一夫多妻制が83％を占めることが明らかとなりました（一妻多夫制は0.5％）。</p>
<p>さらに、文化人類学の世界でよく引き合いにだされるナヤール族では、男性は通い婚で女性を妊娠させますが、その子供の世話は母親の親族がみることになっており、私達の社会でいうような「夫婦と子供」の繋がりはあまり大きな意味を持っていません。「家族」の形態について、すべての人類社会に共通するような特徴を見つけるのは非常に困難です（文化人類学の世界では、そのような点を考慮し、家族という言葉はあまり使われなくなってきているそうです）。</p>
<p>家族の機能に注目しても、その内容が文化や時代によって大きく変化しており、すべてに共通する定義を見つけることは困難であると言えます。現在、近代化を遂げた国々では、家族は愛情によって結びついているという見解が一般的ですが、前近代社会の家族においては、愛情による集団というよりも生活共同体として認識されていた傾向が強く、恋愛による夫婦の誕生や子供への強い愛着もごく最近になって見られるようになった傾向です。</p>
<p>差し当たりこのサイトでは、「家族」について、「夫婦関係や親子関係、もしくはその連鎖で結ばれた特定範囲の人たちからなる集団」という最低限の定義を与えますが、前述のように、家族という言葉の意味が非常に多義的なものであることをたえず念頭に置いて考えていく必要があります。</p>
<h3>家族の類型</h3>
<p>私達は父・母や兄弟といった家族の中で生まれ、家族の中で助けられたり教育を受けたりしながら育ちます。このような子供の視点から見た家族は、定位家族と呼ばれます。定位家族は親子関係によって支えられています。一方、成長した子供はやがて誰かと結婚して子供を産むことを決定し、家族を形成していくことになります。このように結婚した男女から見た視点での家族は生殖家族と呼ばれます。生殖家族は夫婦関係によって支えられています。</p>
<p>多くの社会には、インセスト・タブー（近親相姦禁止規則）があり、一般に定位家族の異性の中から配偶者を選択することはできません（まれに例外もあります）。人は自分と異なる定位家族に属する異性と生殖家族を形成することになります。このため、一つの生殖家族の背後には二つの定位家族が存在し、Ｔ字型の結合家族が成立することになります。このような結合によって誕生した、夫婦とその子からなる家族は核家族と呼ばれます。核家族は、単独で存在する場合もあれば、組み合わさって複婚家族や拡大家族として存在する場合もありますが、人類社会のほとんどの家族で確認される普遍的な家族の結合形態です。核家族には、（１）夫婦の間での性的欲求充足の機能、（２）家族員の緊張処理機能、（３）消費家計を共同にする機能、（４）育児および子供の社会化機能、（５）夫婦及び親子の間での愛情ないし一体感をつくりだす機能があると考えられます。</p>
<p>さらに、家族の形成過程を中心にパターン化すると、家族は以下の夫婦家族制、直系家族制、複合家族制の３つの類型に分類することができます。</p>
<p>夫婦家族制は、その家族に一生涯とどまるべき成員が夫と妻に限定されている家族制度です。家族は結婚によって成立し、死亡によって消滅します。子供は成長するにしたがって親元を去って自分の生殖家族をつくり、独立した生活単位を構成します。この家族類型は、労働力の地域移動、個人主義、平均寿命の長さ、夫婦の老後の生活も支えられる社会保障制度と所得水準などの条件に支えられています。イギリス、北欧諸国、アメリカなどではこの形態が一般的です。</p>
<p>直系家族制は、夫婦とその後継ぎの夫婦によって構成される家族制度です。後継ぎ以外の生殖家族は、同居することはあっても長期間いることはありません。一方、後継ぎは最終的にはその家族に復し、親の持つ財や地位が独占的に継承されことになります。これによって家族が直系的に再生産されます。この家族制度では、親子の世代間扶養が容易となりますが、個人の幸福追求は制限されます。フランス、ドイツ、アイルランド、北イタリア、北スペインなどの農村、日本やフィリピンなどの農村に広く存在します。</p>
<p>複合家族制は、夫婦と複数の既婚夫婦によって構成されます。この制度は多人数の家族を現出しやすいですが、父死亡の後、子供が生殖家族ごとに分裂する傾向があります。したがって家族の構成員も流動的であり、遺産も均分に相続されます。平均寿命が短く、子供が一人前になる前に親が死亡する確率の高い社会において、兄弟間の扶養を確保するのに適しています。インドの高級カースト、旧中国の貴族・地主階級、バルカン僻地のザドルガと呼ばれる家族などがこの形態です。</p>
<p>アメリカの人類学者アレンズ・バーグによれば、人類の家族類型は、一般的に、複合家族制→直系家族制→夫婦家族制へと移行してきたと言われています。さらに、この変化が不可逆的であるとも指摘しています。</p>
<h3>家族と社会の関係</h3>
<p>家族は、私達の様々な物の考え方が凝縮された社会集団であることにも注意する必要があります。例えば私達は、凶悪な少年犯罪が起きると、その家族がどうなっているのかに注目する傾向があります。また、社会の秩序が乱れてくると、それは家族の機能不全が原因なのではないかという論調がマスコミをにぎわすことがあります。その当否は別として、私達は、個人の行動や社会の安定と、家族の安定とを密接に結びつけて考えているようです。</p>
<p>注意深く考えてみると、このような傾向や言説には、２つの暗黙の前提があることがわかります。一つは、家族の安定が個人の幸福や社会の安定につながるという前提です。もう一つは、家族とは愛情を培う場であり、家族はその目的を達成するために努力するべきとする前提です。今までの家族を巡る論争や視点は、この二つの前提を自明のものとして展開され、前提自体が検証されることはほとんどありませんでした。しかし果たしてこれらの前提は本当に正しいと言えるのでしょうか。</p>
<p>例えば、「家事労働」のページで引用している『ＡＥＲＡ』記事のように、家庭の安定のために献身することが、専業主婦の心の中で様々な葛藤や自己嫌悪感を生んでいる場合もあります。このような家庭は外見上は安定していますが、むしろそれによって感情マネージの面で多くの問題を抱えています。感情マネージが完全に破綻したら、突発的に家族の崩壊が起きたり、あるいは家族の中で抱えていたストレスが外部へと向かうことも考えられます。逆に、外見上は個々人が家族としての義務を果たさず、一見崩壊しているように見える家庭が、そこそこの幸せを見つけながらうまくやっている場合もあるでしょう。確かに「家族の安定」が個人の幸福や社会の安定につながることも多いのですが、「そうならない可能性」（例外状況）にも眼を向ける必要があります。近年、一部の家族社会学者から「家族は安定していなければならないという言説が社会に過剰に横行していることが、家族を巡る問題を見えにくくし、深刻化させているのではないか」という指摘も出されています。</p>
<p>家族は愛情を培う場でなければならない、現代の社会問題は家族の愛情が欠けてきたことにも原因があるのではないか、という言説についても、確かにそういう部分がある一方で、もう少し慎重になって考える必要があります。現代は、歴史上最も「家族の愛情」が注目され、実践されるようになった時代です。後で触れますが、子供を思う親心はいつの時代にも存在しましたが、家族は子供を保護する必要がある、子供を愛情を持って養育しなければならない、という意識が社会的に強くなってきたのは近代になってからです。また、現存する無文字社会の部族の中には、子供の養育や保護にあまり関心を払わない部族もあります。それでは、前近代社会や無文字社会の部族は、家族愛が明確に確立していなかったから家族を巡る問題が多いかというと、そうでもないようです。むしろ現代の方が深刻な場合もあります。「両親は愛情が足りないのではないか」「夫は愛情が足りないのではないか」「妻は・・・」という具合に、絶えず「愛情」という尺度でもって家族が計られることが多くなりました。</p>
<p>ここでいう「愛情」の実態には、私達の意識しないところで、記号としての愛情、情報としての愛情が入り込んでいる場合があります。例えば他の家族ではもっと愛情を持って接していたとか、テレビではこういう感動的な家族愛が紹介されていたとか、そういった情報が入り込んで愛情の基準を形成していきます。このような状況の中では、「愛情のあり方の多様性」は無視される傾向が出てくると言えます。絶えず情報としての愛情に近づける必要性が出てきたり、愛情不足を理由に家族の危機やストレスが発生するような事態も出てきます。確かに現実に家族が完全に崩壊し、まったく愛情が存在しない家庭が増加しているのも事実です。しかしその一方で、「家族は愛情がなければならない」「現代の家族は愛情が欠けている」という言説に過剰に煽られることによって、本来は多様な愛情のあり方の中でそこそこうまくいっていたはずの家族にまで、危機が発生しやすくなっている実態もあると言えます。家族を考えるにあたっては、とかく理想論になりがちですが、その理想的な家族イメージ・愛情イメージが「何を生みだしてきたのか」も含めた冷静な検証も必要です。</p>
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		<title>安全保障とは何か</title>
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		<pubDate>Fri, 08 May 2009 16:42:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>齊藤 貴義</dc:creator>
				<category><![CDATA[社会科学]]></category>
		<category><![CDATA[考察]]></category>
		<category><![CDATA[安全保障]]></category>

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		<description><![CDATA[現在、地球上には190もの国家が存在します。国家とは、それぞれに政府を持ち、地球表面の特定部分と人類の特定部分集団について主権を主張する独立政治社会のことです。国家は意思決定と行動の自由を持った自己完結的な行動単位であり [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>現在、地球上には190もの<strong>国家</strong>が存在します。国家とは、それぞれに政府を持ち、地球表面の特定部分と人類の特定部分集団について主権を主張する独立政治社会のことです。国家は意思決定と行動の自由を持った自己完結的な行動単位であり、その自己完結性は領土と国民に対する排他的な統治として表現されます。国家によって統治される<strong>国内社会</strong>は、統一的な政府が軍事力を独占して存在するため、一般的には秩序が保たれています。しかし、軍事力を持った諸国家によって構成される<strong>国際社会</strong>は、国内社会と比較して共通の社会的・歴史的・文化的基盤が必ずしも充分に存在せず、秩序を構成する統一的な政府もないので、複数の勢力が軍事力を持って分散している<strong>アナーキー</strong>（無政府的）な社会であると言えます。このため、強者の力を規制する社会的規範が脆弱で、国家間の対立はしばしば実力によって解決されることになります。国家は対内的には秩序をもたらしますが、対外的には不安定をもたらす要因となりうるのです（このことは「<strong>ホッブスのジレンマ</strong>」と呼ばれています）。</p>
<p><img class="alignleft size-full wp-image-187" title="sec4" src="http://www.mirai-city.org/wp-content/uploads/2009/05/sec4.jpg" alt="sec4" width="200" height="141" />国際社会のこのような状況下では、国家は<strong>パワー</strong>の最大化を目指して行動すると考えられます。国際政治学におけるパワーとは、相手（パワーの客体）の<strong>価値</strong>を （物理的手段によって）剥奪するか、その威嚇を通じて、パワーを行使する側（パワーの主体）が期待する方向へ相手の行動をコントロールすることを指します。例えば、Ａ国が石油資源が豊富な地域を武力制圧しようと考えていたとします。同じくこの油田地帯を狙っているＢ国は、Ａ国に進出されては困るのでＡ国がどんなに頑張っても追いつかないくらい強力な軍備を持つことにしたとします。こうなると、元々Ａ国は「油田地帯に進出することが望ましい」という価値を持っていたわけですが、「Ｂ国と武力衝突すると敗北は必至だから、諦めてＢ国に油田地帯を明け渡した方が望ましい」という価値へと修正される作用が生じま す。このような状況で、Ｂ国はＡ国に対してパワーを行使していると考えられます。つまりパワーとは、「<strong>相手の反応の支配</strong>」なのです。</p>
<p>（なお、少し付け足すと、上記の例ではＡ国もＢ国に対してパワーを行使していると考えられます。なぜなら、Ｂ国は油田地帯へ進出するために、Ａ国を上回る軍事 力を所持することを求められたからです。このことは、単純に「油田地帯へ進出したい」というＢ国の価値に「軍事力を増強しなければならないが」という修正がかかったことを意味します。このように、現実の国際関係では複雑にパワーが交錯していると考えられます）</p>
<p>Ａ．ウォルファーズは、以上の認識を踏まえて、<strong>安全保障</strong>を「<strong><span style="color: #0000cc;">獲得した価値に対する脅威の不在</span></strong>」と定義しています。ウォルファーズの安全保障の定義は、価値に危害が加えられるものとして国家間の軍事問題以外にも、実は経済問題や自然災害、環境問題なども組み入れられる非常に包括的な定義なのですが、基地を中心とした安全保障は一般に軍事問題を中心とすることが多いので、ここではその意味での「獲得さ れた価値」や「脅威」と捉える必要があるでしょう。アナーキーな側面を持つ国際社会では、価値剥奪の可能性が国際社会の利害関係を調整する最後の手段として存在します。このため、国家は自らが築き上げてきた地位や領土、経済資源などを失う不安を常に持っています。国家はできるだけ既得価値を失わないように 心掛け、既得価値が攻撃されることに恐怖を感じます（恐怖は心理的な作用ですが、特に国家の政策決定者に大きな影響を与えます）。</p>
<p>さらに、この点を詳細に検証していくと、<strong>「軍事力や領土を拡大すること」＝「安全保障」とは限らない</strong>ことも分かります。例えばアメリカは自国の安全のために核兵器の開発に成功しましたが、ソ連に脅威を与えることにつながり、ソ連も核兵器を所持するに至りま す。両者が核兵器を持ち、さらに「どちらも軍事大国であり、相手のことを疎ましく思っている。いずれ片方が核攻撃をするのではないか」という潜在的恐怖感が増大することにより、アメリカは核兵器所持以前よりも選択しうる価値が制約されることになりました。19世紀から20世紀初頭にかけてイギリスは植民地 を拡大させましたが、インドの防衛のために新たにエジプトやスーダンにも軍事的影響力を行使する必要が生じてくるなど、既得価値への不安を除去するために 多方面に渡る軍事行動が必要となるようになりました。軍事力や領土の拡大が「価値に対する脅威の除去」につながった事例も数多くありますが、完全にイコールではなく場合によっては不安を拡大させる傾向があることも念頭に置いておく必要があります。</p>
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		<title>言語と大衆</title>
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		<pubDate>Wed, 06 May 2009 15:25:59 +0000</pubDate>
		<dc:creator>齊藤 貴義</dc:creator>
				<category><![CDATA[考察]]></category>
		<category><![CDATA[エッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[言語]]></category>

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		<description><![CDATA[思いつくまま気ままに書いているエッセイです。日常生活で感じている疑問などが中心になってくると思います。感想とか聞かせていただけたら嬉しく思います。
見つめ合うと素直におしゃべりできない
（2001年３月24日）
私達は普 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>思いつくまま気ままに書いているエッセイです。日常生活で感じている疑問などが中心になってくると思います。感想とか聞かせていただけたら嬉しく思います。</p>
<h3>見つめ合うと素直におしゃべりできない</h3>
<p>（2001年３月24日）</p>
<p>私達は普段、言葉を使ってものごとを考えています。「今日は仕事へ行くのが面倒くさいな〜」と思うとき、「今日」「仕事」「行く」「面倒くさい」という言葉を使用して、自分の感情を認識しています。そしてこの言葉は、自分が発明したものではなく、はるか昔の人々が発明したものであり、私達はそれらの言葉を「知り」、そして「解釈して」自分のものにすることによって、はじめて言葉を使うことができます。人類にとって、言語の発明は画期的なことであったと言えると思います。言葉のない世界は「混沌」以外のなにものでもありません。「名前」をつけることができないからです。目の前を歩いている生き物に対して名前をつけることができないだけでなく、「目の前」という状況に名前をつけることができず、そもそも「生きている」という概念自体に名前をつけることもできない。そのような世界において、すべてのものは永遠に未分化なままつながっています。</p>
<p>言語は、私達の目の前に広がる「世界」を分断します。私達は様々な存在や状況や概念に名前をつけ、カテゴライズします。そしてこの言語による認知と分断の流れが今日の人類の発展を支えています。そう、人類の発展の歴史は、言語の発展の歴史でもあったわけです。現代、私達は様々な言葉を発明して、かつて謎に満ちていた世界（そして事象）のほとんどを、言葉によって覆い尽くそうとしています。その根幹に「名前をつける」という営為があることは言うまでもありません。</p>
<p>非言語あるいは未言語な存在（まだ名前がつけられていないもの。エイリアンでも未知の現象でも何でもいいです）が出現した場合にも、私達は「全身がグレーで大きな眼をした生き物」や「酸素との結合とよく似た現象」などのように、すでに存在する「名前がつけられたもの」を駆使して説明しようとします。また、よく「この気持ちは言葉にできないよ」という表現をよく耳にしますが、これもまた「この」「気持ち」「言葉」「できない」という「名前」によって説明された「言葉としての気持ち」と捉えることもできます。</p>
<p>言語は、人類にとって永遠の呪縛です。「自分は明日から言語を廃棄する」と決意しても、それを実行することはできません。人類は発展の代償として、言語による規定を甘んじたのです。しかし、言語は私達の世界を解釈するツールとして少し力不足な面があります。</p>
<p>言語とは「記号」に他なりません。「今、目の前にいるノラ犬のクロを任意の点Ｐとするとき・・・」のように「Ｐ」とおかなくても、すでにこの言葉において「今」「目の前」「いる」「ノラ犬」「クロ」などが全部記号で表記されています。したがって、言語の使用には無意識のうちに「存在や事象のありようは記号（あるいは記号の集合体）によって代替できる」という価値判断が入り込んでいると言えます。しかし、本当に存在や事象のありようは、記号によって代替できるのでしょうか。私達は「犬」という言葉を使うことによって、どれくらい「犬」の本質に迫れているのか、むしろ本来の姿を鋳型にいれて加工したように、私達にとって都合のいいかたちで「犬」を認識しているだけではないか、という疑問がわき起こってきます。その疑問が正当なものであるか不当なものであるかを検証していく物差しは、残念ながら言語の中に内在していません。</p>
<p>そして言語は、「文化的なもの」でもあります。１人の人間が独自の言語を開発して１人で話し出したとしても、「頭の変な人だな」と思われるだけです。言語は、共同体の中でコミュニケーション手段として活用されていなければ意味を持ちません。したがって言語は、その共同体の文化・社会・慣習・風土などの影響と強い関係を持ちます。日本語には四季の変化を表す言葉が何百通りもあり、エスキモーには雪の白さを表す言葉が何通りもあり、ドイツ語には観念的な社会用語が沢山あります。いかなる言語であれ、それぞれの文化固有の条件に依って立っているわけです。翻訳に際しても、翻訳対象国の言語と自国語の言語が必ずしも同一関係にない場合があります。それは、単に言葉を詳しく訳して説明するだけでは理解できないニュアンスです。原文に触れてはじめて言っていることが分かったということも往々にしてあります。</p>
<p>さらに言語は、「解釈されたもの」でもあります。ある１つの言葉があったとして、それに対して人々が統一した意味を見いだすことは困難です。言語は意味を表現したものではないためです。たとえば、「犬」という言葉そのものには「意味」がありません。「犬」は単に対象関係をさす言葉です。「辞書」で犬の意味を引いてみても、「ネコ目イヌ科のほ乳類」という記述しか載っていません。もっとわかりやすく考えるならば、幼児期における言語学習を思い出してみるとイメージしやすいかもしれません。私達は、親や先生が絵本であるいは公園で犬を指さして、これが「いぬ」と呼ぶことを教えられました。犬の意味を直接教えてもらったわけではありません。それは、「犬」という言葉に直接の本質がないためです。</p>
<p>同様の例として、「愛」という言葉を考えてみましょう。「愛」を辞書で引くと、「広く、人間や生物への思いやり」と書かれてありました。そこで「思いやり」を引いてみると、「思いやること」と書かれてありました。「思いやる」を引くと、「思いをはせる」と書かれてありました。このように、私達が使っている言葉の概念は、最終的には相互の言葉の「参照関係」になっていて、それ以上の本質まで到達することはありません。したがって、言葉の本質は、「解釈」されます。同じ言葉であっても、そこから受けるイメージや、その言葉の捉え方などが人によって大きく変わってくるのはこのためです。</p>
<p>これら言語の限界は、僕自身は中学生の時に国語辞書を開きながら考えていたのですが、いまだに自分の中でうまく解決することなく考えています。真実の追究のために言葉を駆使することが最も望ましいように見えて、実は言葉を重ねれば重ねるほど、真実とは見当はずれな方向へ行きかねないという逆説的状況。人間の理性も感性は大部分が言語によって統御され、そして理性や感性の大部分は言語によって発露するという限定状況の中で、人はいかなる可能性を言語に見いだしうるのか。</p>
<p>自分の言葉は、どんな「顔」をしているんだろう。</p>
<h3>公衆はどこへ行った？　智の集積へ向けての前提的考察</h3>
<p>（2001年５月１日）</p>
<p>公衆はどこへ行ったんだろう？</p>
<p>もう、コーヒーショップにもサロンにも公衆はいない。新聞にもテレビにも公衆はいない。議会にも市役所にも公衆はいない。インターネットにも公衆はいない。近代になって、富と余暇時間の拡大が知識層を生み出し、それが公衆としての一定の役割を果たした。そして今、より多くの人々の富と余暇時間が拡大している。しかし、新たな公衆は出現しなかった。人々は富や余暇時間の大部分を、娯楽や私的関心に費やす道を選んだ。公共のことを考え、客観的に討議しようとする公衆はほとんどいない。現代の諸々の制度は、公衆がいなければ有効に機能しない。裁判や議会の公開制も、民主主義の意思決定も、共同体の運営も、ショーや手続き主義に陥ってしまう危険性をたえず内包している。無力感、疎外感、アジテーションなどが人々を席巻し、これほどの危機的な状況にありながらも、・・・「智」は解放されていない。「智」は、大学の中にとどまろうとしている。ある種のニヒリズムが、大学を覆っているのではないかと思う。「関心なきその他大勢の人々への言葉は無力」であるという、一種の諦念がそこにあるのではないだろうか。</p>
<p>たしかに、多くの人々は関心を持たない「智」に対して、自らかたく窓を閉ざしている。それゆえ、その主張が有効なものであることは認めなければならない。この新しい実験都市も、自由大学という実験学園も、いまだ「智」に元々の関心があったごく一握りの人々にしか接続コードを持っていない。今後、この都市と学園が拡大したとしても、それは「智」に元々の関心がある人々への浸透でありえても、「新たな層への進出」ではない可能性が高いことも、注意しなければならない。これは、ある面において危機感を持たなければならない状況だと思う。なぜなら、この都市と学園は、「智」に元々の関心のあった人々のみが集まり、相互の知識と芸と披露しあい慰撫する場所となり、結果として、社会の「公衆不在の状況」から目をそらす「箱庭」に陥ってしまうことが想定されるからだ。そして、そのような状況が続くかぎり、この都市と学園にも、公衆は存在しない。</p>
<p>願うならば、困難と闘いたいものである。</p>
<p>社会構造の巨大化と専門化に伴って、厳密には公衆の出現は理想論にすぎなくなった。しかし、「公衆化」へ向けての取り組みは、最大化されているとは言いがたい。すべてのニヒリズムは、公衆的状況の最大化のために知恵を絞り、さまざまな方法を経た後にこそ、そのとびらを開くべきではないだろうか。「智」は、拡大へ向けての多方面の試練をいまだ経験していないのである。この公衆化へ向けての理念を相対化したり解体したりすることはたやすい。だが、本当の危機は、人々の大衆的状況にあるのではなく、公衆を志向する人々の方向性の「ねじれ」にある。したがって、この相対化と解体は、たえず理念からの再挑戦を受け続けることになるだろう。その両者の緊張関係の中から歩み出す困難な一歩こそが、「公衆の一歩」であると考えている。</p>
<p>１大衆の齊藤より</p>
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