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	<title>次世代情報都市みらい &#187; 国際関係</title>
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		<item>
		<title>国際関係用語</title>
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		<pubDate>Sat, 16 May 2009 13:55:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>齊藤 貴義</dc:creator>
				<category><![CDATA[国際関係]]></category>
		<category><![CDATA[安全保障]]></category>

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		<description><![CDATA[国際関係概念用語 国際社会・・・国際社会の特徴は、国内社会と比較した場合、以下の６点に要約される。（１）国内社会にはその社会共通の道徳的判断を反映した法律が存在するが、国際社会にはそのような法律は存在しない。（２）国内社 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>国際関係概念用語</h3>
<p><strong>国際社会</strong>・・・国際社会の特徴は、国内社会と比較した場合、以下の６点に要約される。（１）国内社会にはその社会共通の道徳的判断を反映した法律が存在するが、国際社会にはそのような法律は存在しない。（２）国内社会には法律を必要なときに変更するような政治機関が備わっているが、国際社会にはそのような政治機関は存在しない。（３）国内社会には法律の執行に携わる執行機関が存在するが、国際社会にはそのような執行機関は存在しない。（４）国内社会には紛争を法律に従って解決する裁判所が備わっているが、国際社会にはそのような司法機関が十分に備わっていない。（５）国内社会には個人や下位集団の暴力行為を阻止する優越的な公権力が存在しているが、国際社会にはそのような力は存在しない。（６）国内社会には人々がむやみに暴力に訴えるなど、不条理な行動を取ることは余りないという一般的な秩序状態があるが、国際社会にはそのような了解はない（ただし近年では少しずつであるが一部の了解が形成されてきている）。</p>
<p>このように国際社会は、複数の自立的な下位集団によって緩やかに構成され、単一の中心的権威が存在しないために権力が分散している、「無政府的な社会」である。しかし、無政府的な社会であることは、必ずしも無秩序状態を意味しない。国際社会の重要な主体の一つである「国家」は、他の国家や国際機関と様々な結びつきを築くことによって、緩やかではあるが多様な秩序を形成している。</p>
<p><strong>主体</strong>・・・国際関係学における主体とは、以下の要件を兼ね備えた存在である。（１）その存在が明確に識別できること、（２）国際的な舞台で決定し行動する一定の自由を持っていること、（３）他の行動主体と相互作用をし、その行為に影響を与えうること、（４）一定の期間にわたって存続すること。このような主体として、国家、国際機構、ＮＧＯなどがある。</p>
<p><strong>国家</strong>・・・国際関係における「国家」とは、それぞれに政府を持ち、地球表面の特定部分と人類の特定部分集団について主権を主張する独立政治社会のことである。国家は意志決定と行動の自由を持った自己完結的な行動単位であり、その自己完結性は領土と人民に対する排他的な統治として表現される。国家には主権が存在するため、国際社会において、形式的には個々の国家は平等であり、自己の統治について他から制約を加えることは一般的に認められないとされている。しかし、国家の目的は国益の追求にあり、それぞれの国々にはパワー（国力）のばらつきがある。したがって、国際社会における諸国家の形式的平等とは別に、実質的な国家の相互関係の中では、このパワーが大きな影響力を持つ。</p>
<p><strong>国内類推</strong>・・・「国内現象と国際現象には類似性が存在する。特に国内秩序の諸条件は国際秩序とよく似ている。ゆえに、国内的秩序を維持している諸々の制度を国際社会レベルでも実現するべきである」とする考え方のこと。この点については国際政治学の中でも様々な論争があるが、特にイギリス学派が国内類推に対して批判的な立場を取っている。</p>
<p><strong>戦争</strong>・・・政治単位によって互いに向けて行われる組織的暴力。戦争と殺人とを区別するものは、代理的・公的性格にある。つまり、殺害者を代理行為者とする政治単位そのものの象徴的責任である。国家にとっての戦争とは、政策目標を達成するための一つの手段である。国家同士の相互作用にとっての戦争とは、相互の国家の関係や枠組みが決定されていく基本的要因の一つである。国際社会全体にとっての戦争とは、国際社会の無秩序の現れであると同時に、国際社会において秩序を形成していくための一つの手段でもある（ＮＡＴＯによるユーゴスラビア空爆のように）。今日、軍事技術の進歩や国民総動員態勢の確立によって、戦争はその被害を拡大させている。冷戦終結後は世界各地で地域紛争が続出し、様々な悲劇が生じている。戦争をなくしていく国際環境の整備が急務であるといえる。</p>
<h3>分析アプローチ用語</h3>
<p><strong>囚人のジレンマ</strong>・・・ゲーム理論の基本問題の１つ。２人の男が凶悪犯罪の犯人として逮捕されたとする。しかし、この２人の容疑を裏付ける証拠がなかなかあがってこない。そのため、取調官が２人を別々に呼んで、それぞれ次のように言い渡した。</p>
<p>「お前が相棒の罪を自白して相棒が黙秘したままならば、お前は直ちに釈放し、相棒を禁固20年の刑にする。しかし、相棒が自白してお前が黙秘したままならば、お前を禁固20年の刑にする」。「お前達が両方とも同時に自白したならば、両方とも禁固５年の刑にする。もし両方ともずっと黙秘を続けたならば、明確な証拠はないから１年くらいで釈放される」と。</p>
<p>取りうる選択は、「自白」（裏切り）と「黙秘」（協力）の２つしかない。しかも相棒がどういう行動に出るかはまったく知るすべがない。・・・よくよく考えてみると、囚人が「自白」した場合は、最高で無罪、最悪でも５年の刑ですむことがわかる。もし「黙秘」した場合は、最高では１年の刑だが、最悪の場合20年も刑に服することになる。したがって、もし自分のリスクを最大限避ける選択をするならば、「自白」ということになる。相棒も同様のことを考えたとすれば、「自白・自白」で、２人は５年の刑に服することになる。この場合、２人は、与えられた状況の中で自分のリスクを避けるために合理的な行動を取ったが、実は客観的に最も合理的な答えである「黙秘・黙秘」（協力・協力）による１年の刑の可能性は失われてしまっている。</p>
<p>このような囚人のジレンマは、国際関係の中で軍縮交渉の難しさなどを説明するためによく使われる。Ａ国とＢ国が軍縮条約に調印したとしても、現実にそれぞれの国が軍縮をするという保障はない。もし、自国は条約に協力して軍備を縮小したが、相手国は裏切って軍備を隠し持っていた場合、自国の安全は大きく脅かされることになる。したがって、この場合も、与えられた状況の中で最も合理的な選択肢は「裏切り・裏切り」であり、客観的にみて最も合理的な「協力・協力」の選択肢はなかなか達成されないことになる。この囚人のジレンマをいかにして克服していくかが、国際協調の１つのカギとなっている。</p>
<p><strong>合理的選択アプローチ</strong>・・・危機研究の有力な方法論的アプローチの一つに、アリソンの合理的行為者モデル、ブエノ・デ・メスキータの期待効用モデル、パウェルのゲーム論モデルによって代表される「合理的選択アプローチ」がある。これらのモデルでは、国家は順序立てられた選効（例えば、国家の安全、経済的利益、威信）を持つ一枚岩の合理的な意思決定主体として捉えられる。そして、合理的な国家プレイヤーは、不確実性という制約の中で、あらゆる選択肢の便益や費用を慎重に吟味し、期待純便益を最大化するように行動することが前提とされ、分析が進められる（この主体の「合理性」は、行為主体が直面する制約条件とその行動とを論理的に関連づけるために導入された仮定である）。</p>
<p><strong>構成主義的アプローチ</strong>・・・構成主義的アプローチは、国家の選好を、文化的・歴史的文脈の中で醸成されるアイデンティティ、または政策決定に用いられる知識や思想によって、内生的に形成される変数と見なす。構成主義のカテゴリーには代表的なものとして以下の２つのアプローチが内在する。</p>
<p>１．自然法的な構成主義・・・レジーム研究における合理的選択の有用性をほぼ完全に否定しながら、レジームを国際社会の規範的構造の中で捉える社会学的な方法論を提示。このアプローチでは、国々の協力的行為は、合理的アプローチが見なすような効率最大化行為ではなく、共同体の中で間−主観的（inter- subjective）に醸成された集合的アイデンティティから派生した社会的行為であると見なされる。</p>
<p>２．新古典派的な構成主義・・・合理的選択の有用性を否定せず、レジーム形成を促進する要因として、政策に関係する「理念」や「知識」の政策決定者間での共有が重要視される。ゴールドスタインとコヘインによれば、理念が意志決定に影響を及ぼす道は３つある。（１）理念が政策決定に必要な選好や目的と政策を関連づける因果関係という「道標」を供給する場合。（２）合意問題にパレート最適な合意点（多数均衡解）が複数ある時、理念が、政策決定者に対し、その中からある特定の一つを選択することを手助けする「焦点」の役割を果たす場合。（３）理念が「制度化」されて、政策に恒常的に影響を及ぼす場合。国々が新しい共通の知識を習得して学習を行えば、国際協力に不可欠なリアリティについての共通認識、政策の整合性、ひいては利益の調和を国家間で樹立できるようになると考える。</p>
<p>ラショナリスト（従来の合理的選択アプローチを取る側）は、国際政治が客観的に観察できる「モノ」と個人（および個々人に還元されうる集団）から成ると考える。他方、コンストラクティヴィストは、国際政治がルール、規範、原則、文化などの制度から成り、制度によって「モノ」や個人が意味や価値を持つと主張する。たとえば、ある布や歌を国旗や国歌とみなして主権国家を象徴させ、主権国家を「われわれ」のよりどころとし、ある建物を議事堂や裁判所、そして紙片を箱に入れる動作を投票として民主主義を象徴させ、それらを守るべき価値とするのは、すべて制度のなせるわざである。つまり、五感で知覚できる「モノ」は、それ自体ではなく、制度によって「ものをいう」のである。</p>
<h3>国際関係史と学派</h3>
<p><strong>イギリス学派</strong>・・・戦後のロンドン大学を中心に形成された国際政治学の一派。国際社会を概念の中心に議論を展開したのは、Ｍ．ワイトやＣ．Ａ．Ｗマニングがはじめであり、その後Ｈ．ブル、Ｆ．Ｓ．ノーセッジ、英国キール大学のＡ．ジェイムズ、ＬＳＥのＲ．Ｊ．ヴィンセントなどに引き継がれた。イギリス学派のアプローチの特徴は、哲学の「全体論的」な立場にある。つまり、全体はその部分の機械的総和より大きな存在である。国際社会は、それを構成している主権国家などの＜部分＞よりは大きな、何か独自の論理構造をもつ社会であるとみる。</p>
<p>そうした構造として、論者によって重点は異なるが、国際慣習法・戦争法・中立法・不干渉原則・主権（各国の国内法体系が他国の法体系から独立していること）・勢力均衡・外交慣行などが重視される。それらは、数々の政府の変革にもかかわらず、国家そのものの生命をもこえて存続してきた。国際社会の部分たる主権国家の行動も、国際社会として統合させられている国際慣習法やその他一切の社会規範・制度との関連性を無視しては理解できない。広い意味での規範の体系を、そもそもの社会の成立に不可欠な構成要素・無意識的に遵守している構造としてその時とその時代における意味を明らかにしていこうとする考え方は、ポール・リクールの構造主義的解釈学と考え方が一致している。</p>
<p>その他にも、彼らは、国際社会を国内社会とは別個の、国内的類推に依拠する必要のない「秩序」であることを国際関係史から論証しようとする。 また、平和学とか永久平和構想といった、争いを生じさせやすい価値を目的とするユートピア論には批判的である。 さらに、国際事情の大きな問題の理解については、数量分析・行動科学的アプローチを疑問視する。</p>
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		<title>ヒンドゥー教とイスラム教</title>
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		<pubDate>Wed, 13 May 2009 09:10:04 +0000</pubDate>
		<dc:creator>齊藤 貴義</dc:creator>
				<category><![CDATA[国際関係]]></category>
		<category><![CDATA[インド]]></category>

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		<description><![CDATA[1947年のインド・パキスタンの分離独立の背景には、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立がありました。インド・パキスタン問題の歴史を理解して いくためには、この２つの宗教がどのようなもので、どういう歴史をたどり、なぜインド [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>1947年のインド・パキスタンの分離独立の背景には、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立がありました。インド・パキスタン問題の歴史を理解して いくためには、この２つの宗教がどのようなもので、どういう歴史をたどり、なぜインドで衝突するに至ったのかの背景を知る必要があります。もちろん、宗教のみならず、経済や産業構造からこれらの対立を分析する視点もあります。しかし、近年のイスラム原理主義やヒンドゥー至上主義の台頭なども含めて南アジアを理解していくためには、やはり宗教に関する知識は不可欠といえるでしょう。</p>
<h3>ヒンドゥー教とイスラム教のちがい</h3>
<table border="1" cellspacing="0" cellpadding="7" align="center">
<tbody>
<tr>
<td><span style="font-size: x-small;"> </span></td>
<td width="45%" bgcolor="#990000">
<div style="text-align: center;"><span style="font-size: x-small;"><strong>ヒンドゥー教</strong></span></div>
</td>
<td width="45%" bgcolor="#000099">
<div style="text-align: center;"><span style="font-size: x-small;"><strong>イスラム教</strong></span></div>
</td>
</tr>
<tr bgcolor="#ffffe8">
<td class="tex90"><strong>多神教<br />
一神教</strong></td>
<td class="tex90" width="45%" valign="top"><strong>多神教</strong>・・・ ヒンドゥー教が広がる過程で、動物・生物や物神の崇拝、精霊信仰やトーテミズムなど様々な要素を持つ土着信仰を混入させていった。これら神々のあいだには 様々な系譜が見られる。神道やギリシア神話のように男性神は女性神を配偶者として持ち、時として人間や動物などに姿を変えて人間の前に現れ、汎神論的な傾 向を持っている。さらに、ヒンドゥー教の神観念の中には主宰神（しだいに有力な神が台頭し、他の神を従える）という考え方が成立しており、一神教的な傾向も持っている。今日のヒンドゥー教では、多くの民衆にとってヴィシュヌ神とシヴァ神がそのような権威を確立している。</td>
<td class="tex90" width="45%" valign="top"><strong>一神教</strong>・・・ 「アッラーの他に神はない。ムハンマドは神の使徒である」という言葉に象徴されるように、イスラム教徒にとってアッラーこそが唯一の神となっている。ヒン ドゥー教が特定の始祖を持たないのに対し、イスラム教を創始したのはムハンマドであり、ムハンマドはあくまで「最後の預言者」「神の使徒」である人間にす ぎない。この点は、「父と子と精霊」の三位一体論を展開していったキリスト教とは大きく異なる。</td>
</tr>
<tr bgcolor="#f4ffff">
<td class="tex90"><strong>偶像崇拝</strong></td>
<td class="tex90" width="45%" valign="top"><strong>偶像崇拝</strong>・・・日常の宗教儀礼や慣習の中で神を偶像として具象化することが当たり前となっている。ここには多神教の影響があると思われる。様々な神が多種多様に存在する中では、神を偶像化させて区別するのは有効な手だてである。</td>
<td class="tex90" width="45%" valign="top"><strong>偶像崇拝禁止</strong>・・・イスラム教では礼拝の対象に偶像を置くことを厳しく禁止してきた。しかし、一部の地域（特にもともと土着の偶像崇拝が強かった地域）では、明確なかたちこそとらなかったものの、偶像に代わる崇拝の対象を何らかのものや人格に求めることはあった。</td>
</tr>
<tr bgcolor="#ffffe8">
<td class="tex90"><strong>礼拝</strong></td>
<td class="tex90" width="45%" valign="top"><strong>マンディル</strong>・・・ヒンドゥー教では、マンディルと呼ばれる寺院で礼拝が行われる。個人個人がばらばらの時間に礼拝をする。カーストによって一部の人々を受け入れない寺院もあるが、女性に対する禁忌はない。</td>
<td class="tex90" width="45%" valign="top"><strong>モスク</strong>・・・ イスラム教の場合、公共の礼拝所としてモスクがある。モスクは人々が共同で礼拝を行うための公共施設であり、寺院のような神格性を持ったものではない。定 められた同じ地点、聖地メッカへ向かって一斉に礼拝を行う。イスラム社会では女性は家で礼拝するのが一般的だが、一部には女性用につくられたモスクも存在 する。</td>
</tr>
<tr bgcolor="#f4ffff">
<td class="tex90"><strong>死生観</strong></td>
<td class="tex90" width="45%" valign="top"><strong>業と輪廻</strong>・・・ ヒンドゥー教にとって、現世はいくつもの生の１つにすぎない。人はみな過去に前世があり、来世が待ち受けているとされる。人間の生は車輪のようにつながっ ており、現世のあり方を決定するのは前世の業である。業とは、人間の行為に他ならない。このため、人間は善行をすれば来世では必ず報われるとされ、最終的 には何度も繰り返す輪廻の世界から抜け出して天上の楽園で暮らすことが理想とされた。</td>
<td class="tex90" width="45%" valign="top"><strong>最後の審判</strong>・・・ イスラム教では、死とは「最後の審判」までの仮眠の時期であるとされている。最後の審判では「すべてお見通し」の唯一神アッラーの裁きを受ける。人は、こ の絶対者の前では全く無力である。イスラム教にはカダルという観念があり、生涯の間にアッラーに帰依し、定められた戒律を厳しく守っていけば、アッラーが それを認め審判に影響することもありうると言われている。</td>
</tr>
<tr bgcolor="#ffffe8">
<td class="tex90"><strong>聖典</strong></td>
<td class="tex90" width="45%" valign="top">『<strong>ヴェーダ</strong>』・・・ヒンドゥー教の場合、コーランのような絶対の聖典はなく、それぞれの信者がそれぞれの教典を持っている。しかし、神々への賛歌や呪文、日々の祭儀に関する規定などが盛り込まれたヴェーダが聖典のような地位をしめていることが多い。</td>
<td class="tex90" width="45%" valign="top">『<strong>クルアーン</strong>』・・・クルアーン（日本では「コーラン」とも呼ばれるが、アラビア語を正しく表記したものはクルアーンである）は、ムハンマドに対する神の啓示を文章にしたものであり、イスラム教にとって絶対の聖典である。</td>
</tr>
<tr bgcolor="#f4ffff">
<td class="tex90"><strong>宗教<br />
指導層</strong></td>
<td class="tex90" width="45%" valign="top"><strong>バラモン</strong>・・・ヒンドゥー教では司祭階級であるバラモンが古くから聖職者としての地位を確立していた。さらにカースト制度の確立によって、バラモンはヒンドゥー教の精神的・宗教的指導層として、歴史上大きな影響力を持ってきた。</td>
<td class="tex90" width="45%" valign="top"><strong>ウラマー</strong>・・・イスラム教は、すべての信徒はアッラーに直接帰依すべきという考えのもと、聖職者を持たない宗教である。しかし、イスラム世界の発展と共に、ウラマーと呼ばれるイスラム法学者・神学者などの学識者が宗教的に大きな影響力を持つようになった。</td>
</tr>
</tbody>
</table>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>インド・パキスタン分離独立の歴史</title>
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		<pubDate>Fri, 08 May 2009 18:15:59 +0000</pubDate>
		<dc:creator>齊藤 貴義</dc:creator>
				<category><![CDATA[国際関係]]></category>
		<category><![CDATA[イスラム]]></category>
		<category><![CDATA[インド]]></category>
		<category><![CDATA[パキスタン]]></category>

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		<description><![CDATA[インド・パキスタン分離独立の歴史 1858年 ムガル帝国滅亡 1877年 イギリス領インド帝国成立 イギリスのインド統治… イギリスはインドを支配するにあたって、旧来の支配層を破壊するのではなく、巧妙に彼らを利用する方法 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>インド・パキスタン分離独立の歴史</h3>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1858年</span></strong><br />
ムガル帝国滅亡</p>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1877年</span></strong><br />
イギリス領インド帝国成立</p>
<blockquote><p><strong>イギリスのインド統治</strong>… イギリスはインドを支配するにあたって、旧来の支配層を破壊するのではなく、巧妙に彼らを利用する方法を選んだ。ムガル帝国下の500以上の藩王国はイギリスの支配の下で存続できるようにし、イスラム教徒とヒンドゥー教徒との扱いについても区別を行った。このような統治方針のもとで、イスラムとヒンドゥー の内部衝突が生まれ、反英運動の組織化は大幅に抑制された。</p></blockquote>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1885年</span></strong><br />
インド国民会議開催</p>
<blockquote><p><strong>インド国民会議（派）</strong>…Ａ．Ｏ． ヒュームらの後押しによって開催されたインド人の有識者会議。ヒュームらの狙いは、インド人に発言の機会を与え、イギリスのインド支配に対するインド人の不満を解消する安全弁とすることであったが、20世紀に入ってからは民族意識の高まりと共に政治集団としての様相を強くしてきた。1906年になると、会議派はスワラージ（自治）の達成を綱領とし、イギリス植民地政府の施策と激しく対立するようになった。</p></blockquote>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1939年</span></strong><br />
第二次世界大戦勃発。英領インドも連合国側として参戦。</p>
<blockquote><p><strong>第二次世界大戦</strong>…1939 年、第二次世界大戦が始まると、英領インドもドイツに対して宣戦布告を決定した。しかし、この決定はインド人の参画する州政府の意思に沿って行われたわけではなかったため、国民会議派の反発を招いた。国民会議派は、イギリスと共に戦うための条件として、インドに自治権を許容して自らの憲法を制定する権利を求めた。だがインド政庁はこの申し入れを拒否し、イギリスと国民会議派との間に深い対立関係が生まれた。国民会議派は、８つの州政権の閣僚を総辞職させ、 イギリスに対して協力拒否の姿勢を明確に打ち出した。</p>
<p>しかし、イスラム教徒の政党が政権を担当していたパンジャーブ、ベンガル、シンドなどの州は、イギリスの戦争への協力を表明し、多くのムスリム系インド人 が連合国軍として各地で戦った。会議派による戦争非協力・ムスリムによる戦争協力は、その後の分離独立に至る過程の中で、イギリスの政策に少なからぬ影響を与えることになった。</p></blockquote>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1940年</span></strong><br />
ムスリム連盟がラホール決議を採択（３月）</p>
<blockquote><p><strong><img class="alignright size-full wp-image-221" title="pak1" src="http://www.mirai-city.org/wp-content/uploads/2009/05/pak1.jpg" alt="pak1" width="110" height="140" />ラホール決議</strong>・・・ラホールで開かれたムスリム連盟の大会でジンナ総裁がインド・ムスリムの民族自決要求を決議。インドのヒンドゥーとムスリムはそれぞれ別の国民であるとし、国民会議派の主導するインド独立とは別に、ムスリムの多住諸州での自治（独立）を要求した。</p>
<p>このムスリム連盟の決議の背景には、「民主主義の問題点」がある。英領インドにおいて、イスラム教徒は総人口の３割程度であり、ヒンドゥー教徒に比べて少数派である。したがって、独立後のインドで民主主義が採用されると、少数派であるイスラム教徒は不利な立場に立たされることになる。しかし、州レベルで見 ると、いくつかの州ではイスラム教徒が多数派を占めている。したがって、これらの州ではイスラム教徒が自分達の意思で新しい国家をつくろうとも、民主主義の発想としては正当となる。</p></blockquote>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1941年</span></strong><br />
タイで藤原機関が組織される（９月）</p>
<blockquote><p><strong>藤原機関</strong>・・・ 日本陸軍の参謀本部が設置した対印工作機関。藤原岩市少佐を機関長とし、バンコクを拠点にアジア各地のインド人の反英闘争を組織化することを目的とした。 日本が第二次世界大戦に参戦しマレー半島に侵攻すると、藤原機関はイギリス軍のインド人捕虜を中心に「インド国民軍」の編成に取りかかった。インド国民軍は日本軍のシンガポール攻略作戦に参戦。1942年８月には４万２千の兵力に達した。</p></blockquote>
<p>日本が第二次世界大戦に参戦、アジア各地へ侵攻。</p>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1942年</span></strong><br />
クリップス提案（３月）</p>
<blockquote><p><strong>クリップス提案</strong>…1941年の日本の参戦により、欧米がアジア各地に持っていた植民地にも動揺が広がった。日本は「大東亜共栄圏」「アジア人によるアジア」の建設を唱え、東南アジアのほぼ全域に軍を展開、ビルマを制圧してインドに迫った。事態を重く見たアメリカと中国は、インド民衆の内部に対日協力の動きが広がらないよう、イギリス政府のインド支配方針に対して再考を求めた。このような要請を受けて、イギリス首相チャーチルは、労働党のクリップス使節団をインドへ派遣した。クリッ プス使節団は会議派に対し、（１）戦後ただちに英領インド代表による憲法制定機関を設置する（参加を望まない州は独自憲法の採択を容認）、（２）完全な自治領としてのインド連邦の創設、（３）戦時体制へのインド諸政党代表の参加を拡大する、といった提案を行った（クリップス提案）。しかし、このクリップス 提案は、即時自治を求める会議派らによって拒否される。</p></blockquote>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1943年<br />
</span></strong> チャンドラ・ボースが東南アジアへ到着（５月）</p>
<blockquote><p><strong>チャンドラ・ボース</strong>・・・ 元国民会議派議長。ガンジーやネルーらとの路線対立を経てドイツに滞在し、ヒトラーへ枢軸国の共同作戦としてのインド侵攻などを直訴した。だが対英妥協の可能性と対ソ戦を重視するヒトラーはボースの提案に耳を貸さず、ボースは日本に協力を求めた。1943年、ドイツの潜水艦に乗ったボースは東南アジアへ到着した。</p></blockquote>
<p>日本、自由インド仮政府を承認（10月）</p>
<blockquote><p><strong>自由インド仮政府</strong>・・・ 1943年10月21日、チャンドラ・ボースはインド独立連盟東亜代表者大会において自らを首班とする自由インド仮政府の樹立を決定した。10月23日、 日本政府はこの自由インド仮政府を承認した。だが日本の外務省条約局には、政府を承認するには、国際法上、領土と人民を基礎とする国家の存在が不可欠であるとする見解があった。このため、11月に開催された大東亜会議において、東条首相は、日本海軍が占領中のアンダマン・ニコバル両諸島を自由インド仮政府 に帰属させるとする方針を発表した。これによって自由インド仮政府は名目上独立した領土を手にすることになった。しかしこの領土帰属方針は、日本の戦争遂行のため（連合国の戦争方針である大西洋憲章に対する挑戦のため）のジェスチャーにすぎなかった。実際、アンダマン・ニコバル諸島には日印共同防衛を理由として日本軍が継続して駐屯することとなった。</p></blockquote>
<p><span style="font-size: medium;"><strong>1944年</strong></span><br />
日本軍、インパール作戦を開始（３月）</p>
<blockquote><p><strong>インパール作戦</strong>・・・ 日本軍は1942年の段階でイギリスの屈服を目的とした東部インド侵攻作戦を立案していた（二一号作戦）。だが、ガダルカナル島を中心に展開された消耗戦がインド侵攻作戦の物的基盤を奪い、参謀本部はビルマ防衛とインド人による反英運動の煽動工作の方に力点を移していった。しかし、チャンドラ・ボースのインド侵攻要求などもあり、1944年３月、ビルマ防衛・太平洋戦局の敗勢打開・援蒋ルートの遮断・インド独立工作の進展などを目的としたインパール作戦が実施された。当初、戦況は順調に推移しているかに見え、インド国民軍も２個師団で作戦に協力したが、途中で日本軍の補給路が途絶えて戦況は逆転した。７月中旬、日本軍はインパール作戦の中止を決定した。</p></blockquote>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1945年</span></strong><br />
第二次世界大戦終結<br />
９月声明</p>
<blockquote><p><strong>９月声明</strong>・・・ 第二次世界大戦後、イギリスの首相に就任したアトリー首相は、インド問題を討議するため、政府のインド委員会を開催した。委員会の議題の中心は「制憲議会 の開催」を交渉の基礎とすることであった。委員会での討議を経て、アトリーは９月声明を発表した。声明は、（１）1937年以来行われていなかった総選挙 を45-46年冬季に行う。州ではその結果、責任内閣が復帰する。（２）それにしたがって制憲議会が設置されるだろう。（３）主要政党すべての支持を得たインド人内閣をつくる。というものだった。この声明は基本原則を述べたにすぎず、終戦後すぐに独立を付与する意識をイギリスが持っていなかったことを改めて示すものであった。インドの民衆に動揺が広がり、それはインド人によって構成されたイギリス軍の反乱騒動にまで発展した。すでにインド独立運動はイギリスが鎮圧できるものではなくなっていたのである。</p></blockquote>
<p>インド総督が交渉決裂案の検討を開始</p>
<blockquote><p><strong>交渉決裂案</strong>・・・ 即時独立要求を掲げて大衆運動を展開する会議派に対し、インド政庁はすでに組織的な鎮圧能力を大幅に低下させていた。この頃から、インド総督やインド政庁 を中心に「交渉決裂案」が検討され、何度か本国政府に報告されている。交渉決裂案では、会議派との交渉が決裂して大規模な大衆運動が発生した場合、イギリスの軍事力をパキスタンまで撤退させ、そこを自治領とするか、あるいは連盟との交渉が決裂した場合に会議派と共にムスリムを弾圧するという政策が検討され た。</p></blockquote>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1946年</span></strong><br />
<strong><span style="font-size: medium;"> </span></strong> イギリスの閣僚使節団がインドに到着。</p>
<blockquote><p><strong>閣僚使節団</strong>・・・ 交渉決裂案を背景に国民会議派と交渉を続けるウェーヴェル総督に対し、イギリス本国政府はしだいに不信感を強めるようになった。アトリー内閣は通商大臣クリップスを団長とする閣僚使節団をインドへ派遣、使節団は会議派やムスリムと公式・非公式に会談を行った。そうしてまとまったのが「閣僚使節団案」である。閣僚使節団案はインド統一連邦案であり、（１）インド人による制憲議会の樹立を提案するが、憲法ができるまで中間政府を樹立することを提案す る。（２）憲法が作られる前提として三層の「統一インド構想」を提案する。最下層には諸州が置かれる。その上の第二層には諸州を三つのグループに分け、それぞれ「ヒンドゥー連邦」「パキスタン連邦」「バングラディシュ連邦」に近いミニ政府的なものが置かれる。さらに最上層には外交、防衛、コミュニケーションなどを取り仕切る弱い連邦政府を構成する、というものだった。</p>
<p>この閣僚使節団はかなり曖昧な部分が大きかったが、当初は統一インドを指向する会議派からもパキスタン要求を掲げる連盟からも支持された。だが、７月７日、ネルーは会議派の全国大会で突如として、閣僚使節団案のような諸州のグループ分けは行われないだろうという見通しを示した。閣僚使節団がきわめて曖昧な交渉姿勢であったため、会議派はグループ分けを確約事項として受け止めていなかったのである。この事実はムスリム連盟に衝撃を与えた。ムスリム連盟は７月29日にボンベイで開かれた大会で「パキスタンを実現するための直接行動に訴えるべきときが来た」として直接行動の声明を採択した。</p></blockquote>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1947年</span></strong><br />
パキスタン独立（８月）<br />
インド独立。ネルー首相就任（８月）<br />
英領インドは事実上消滅する。</p>
<blockquote><p><strong>分離独立</strong>・・・ 1947年、英領インドは、インドとパキスタンにそれぞれ分離独立した（この時点ではパキスタンはインドの東西に国土を持っている。このうち東パキスタンが後に独立してバングラディッシュとなる）。インドは政教分離国家、パキスタンはムスリム国家として出発することとなった。このため、パキスタンとなった地域に住んでいたヒンドゥー教徒がインドへ、インドとなった地域に住んでいたイスラム教徒がパキスタンへ、それぞれ着の身着のままで大移動を開始するという事態が起きた。両国あわせて1500万人もの人々が移動したと言われている。この移動の過程で、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が各地で衝突を繰り広げ、 100万人近い人々が殺害されたと言われている。この時の憎しみが、現在も印パ両国の対立に尾を引いている。</p></blockquote>
<blockquote><p><strong>PAKISTAN</strong>・・・ウルドゥー語で「清浄な国」を意味する。この国名は、英領インド時代のイスラム教徒多住州の文字（パンジャブ<strong>P</strong>unjap、アフガン<strong>A</strong>fghan、カシミール<strong>K</strong>ashmir、シンド<strong>S</strong>ind、バローチスタンBaloochis<strong>tan</strong>） をつなげて作られたと言われている。パキスタンは当初、インドの東西に国土を持って生まれた。しかし、経済的にも人口的にも豊かな東パキスタンと乏しい西パキスタンとの格差は大きかった。また、民族構成も東と西では大きく異なっていた。このことが後に東パキスタンがバングラディッシュとして独立する背景と なった</p></blockquote>
<p>パキスタン、カシミール侵攻（10月）<br />
カシミール藩王、インドへの帰属を受託（10月）</p>
<blockquote><p><strong>カシミール問題</strong>・・・ インド・パキスタン両国の分離独立に際して、マハラジャ（藩王）の支配下にあった約500もの藩王国は、インドとパキスタンどちらに帰属するかは自分達で決めて良いとされた。中国・インド・パキスタンと国境を接するカシミールの藩王は、カシミール独立を考えていた。しかし、カシミールの人口の70％はイス ラム教徒である。パキスタンはカシミールの独立を阻止しようと、1947年10月、カシミールに軍を派遣した。カシミール藩王はインドに保護を求め、インドもカシミールへ軍を派遣、軍事衝突へと発展した（<strong>第一次印パ戦争</strong>）。この軍事衝突は国連の調停によって停戦を迎えたが、その後もカシミールを巡ってインドとパキスタンは激しく対立している。</p>
<p>現在、カシミールではヒズブル・ムジャヒディンなどのパキスタン寄りの武装勢力が活動しているが、その背景には、パキスタン軍統合情報部（ＩＳＩ）による 資金・武器・訓練の提供があると言われている。このように、カシミール問題は単にインド・パキスタン両国による領有権争いとしての性格だけではなく、インド支配地域でのイスラム教徒のエスニック問題としての側面も重要となってきている。さらに、インド・パキスタン両国とも政権への不満を外へ向けさせるためにカシミール問題を政治的に利用する傾向があり、問題を一層複雑なものとしている。</p></blockquote>
<p><span style="font-size: medium;"><strong>1948年</strong></span><br />
インド、パキスタンのカシミール侵攻を国連安全保障理事会に提訴（１月）<br />
マハトマ・ガンジー暗殺される（１月）</p>
<table style="text-align: center;" border="0" cellspacing="2" cellpadding="5">
<tbody>
<tr>
<td><img class="alignnone size-full wp-image-222" title="gandhi" src="http://www.mirai-city.org/wp-content/uploads/2009/05/gandhi.jpg" alt="gandhi" width="150" height="180" /></td>
<td class="wide6" valign="top"><strong>ガンジー暗殺</strong>・・・インド独立の精神的指導者であり、ヒンドゥー教とイスラム教の融和を説いてきたガンジーは、1948年、急進派のヒンドゥー教徒が放った銃弾によって暗殺された。</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>インド軍、ハイデラバードを武力併合（９月）</p>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1949年</span></strong><br />
カシミール休戦成立（１月）</p>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1950年</span></strong><br />
インド憲法発布（１月）</p>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1954年</span></strong><br />
インド政府、チベットを「中国の一地方」と承認（４月）</p>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1955年</span></strong><br />
バンドン会議（４月）</p>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1956年</span></strong><br />
ネルー、チトー、ナセル、非同盟運動を結成（７月）<br />
パキスタンで新憲法発布。</p>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1958年</span></strong><br />
パキスタンでクーデター発生。アユーブ・ハーンが政権の座に就く。</p>
<blockquote><p><strong>パキスタンのクーデター</strong>・・・ 独立後、ほぼ一貫して議会制民主主義を維持してきたインドとは対照的に、パキスタンは何度もクーデターによって政府が転覆し、独立後約半分の時期が軍政下におかれてきた。しかし、パキスタンでは民政・軍政にかかわりなく、政策決定過程では常に軍が大きな役割を果たしてきた。また、軍政であっても文民の政権参加を積極的に求め、民政移管を公約する場合もある。</p></blockquote>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1959年</span></strong><br />
ダライ・ラマ、インドへ亡命（３月）</p>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1963年</span></strong><br />
中印紛争（10-11月）</p>
<blockquote><p><strong>中印紛争</strong>・・・ チベット仏教の指導者で、中国からのチベットの独立運動を唱えていたダライ・ラマが1959年にインドへ亡命。この事件によって中国とインドの関係は一気に悪化した。事件以降、中国・インド国境では小規模な小競り合いが頻発するようになっていたが、1962年10月、中国軍がインドの主張する国境線を越えて、インド軍への攻撃を開始した。この中印紛争は中国の圧倒的勝利のもとに終わり、中国はチベットへと通じる幹線道路を含む地域を占拠、その実効支配は現在も続いている。</p></blockquote>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1965年</span></strong><br />
第二次印パ戦争（９月）</p>
<blockquote><p><strong>第二次印パ戦争</strong>・・・ 1965年９月１日、カシミールでインド・パキスタン両軍が軍事境界線を越えて武力衝突。パキスタンが正規軍と戦車70両を投入して優位に立った。しかし、９月６日、インド軍はパキスタンとの国境の中央部にあたるパンジャブ平原からパキスタン領内への侵攻を開始。インド軍は快進撃を続けて商業都市ラホールに迫ったため、パキスタンは９月22日に国連の停戦協定を受け入れる。この戦争によって、パキスタンがカシミールで攻勢に出ても、総兵力で圧倒的優位を誇るインドはいつでもパキスタンの心臓部へ攻め込めることが浮き彫りとなった。</p></blockquote>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1971年</span></strong><br />
印ソ平和友好協力条約締結（８月）<br />
第三次印パ戦争（12月）<br />
バングラディッシュ誕生（12月）</p>
<blockquote><p><strong>第三次印パ戦争</strong>・・・ 1970年12月のパキスタン総選挙で、東パキスタンを地盤とするアワミ連盟が躍進、国民議会の過半数を占める。アワミ連盟と西パキスタンの政治・経済的優位を維持しようとする大統領やパキスタン人民党との対立が深まり、アワミ連盟のラーマン総裁は、東パキスタンの独立を要求する。このため西パキスタンは東パキスタンへ軍隊を派遣、バングラ人と内乱状態になる。1971年12月、インド軍が東パキスタン問題に武力介入を開始。パキスタンは14日間で無条件降伏し、東パキスタンはインドの支援のもとに「バングラディッシュ」として独立する。</p>
<p>この戦争によって、パキスタンは国土の２割近くと人口の60％を失うこととなった。一方インドはバングラディッシュの独立によって、東西パキスタンに挟ま れる形で受けていた軍事的圧迫のうち、東からの圧力を完全に除去することに成功した。さらにこの戦争の過程で、アメリカがソ連との対抗上重要な位置にあるパキスタンを失うことを怖れ、第７艦隊の空母エンタープライズをインド洋へ派遣してインドに停戦を迫ったことがあった。この事件を契機に、インドは海軍の増強に力を入れ、「外部の大国」の干渉を排除する方向性を模索し始める。</p></blockquote>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1972年</span></strong><br />
パキスタン、英連邦から脱退。</p>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1974年</span></strong><br />
インド、ラージャスターン州ポクランで核実験（５月）</p>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1977年</span></strong><br />
パキスタンでクーデター発生。ジヤウル・ハックが政権の座に就く。</p>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1979年</span></strong><br />
ソ連軍がアフガニスタンへ侵攻</p>
<blockquote><p><strong>アフガン内戦とパキスタン</strong>・・・ 1979年、アフガニスタンへソ連軍が侵攻する。共産圏の拡大に危機感を募らせたアメリカはパキスタンへ大規模な軍事援助を行い、アフガンが共産化した場 合の西側諸国の防波堤にする計画を進めることとなった。また、ソ連と対立関係にあった中国もパキスタンへの軍事援助を行い、パキスタン軍の戦力は大幅に強化された。パキスタン軍統合情報部は、アメリカ中央情報局（ＣＩＡ）と共にアフガンのイスラムゲリラへの支援を行った。しかし、ソ連軍がアフガンから撤退 すると、アメリカの関心は南アジアから遠ざかるようになり、今まで黙認してきたパキスタンの核開発にも口を挟み始め、軍事援助も停止された。このため、パキスタン国内で反米感情が高まった。</p>
<p>またパキスタン軍統合情報部によるアフガンゲリラへの支援は、冷戦後も継続された。特にパキスタンの難民キャンプを中心にパシュトゥン人によるイスラム原理主義勢力「タリバン」が組織され、アフガニスタンの大部分を実効支配するに至った。パキスタンが冷戦後もタリバンを支援し続けた背景には、アフガニスタ ンにパキスタンの友好政権を樹立する野心と共に、タリバンがカシミール方面でのインドへの反政府活動への支援を申し出てきたことがあると言われている。だが、やがてタリバンの行動はパキスタンの手に負えるものではなくなってゆき、逆にパキスタン国内へイスラム原理主義が浸透する格好となってしまった。</p></blockquote>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1985年</span></strong><br />
南アジア地域協力連合（ＳＡＡＲＣ）発足（12月）</p>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1987年</span></strong><br />
インドがスリランカへインド平和維持軍（IPKF）を派遣</p>
<blockquote><p><strong>スリランカ紛争</strong>・・・ スリランカでは独立以来、多数民族のシンハラ人（仏教徒が多い）と少数民族のタミル人（ヒンディー教徒が多い）との対立が続いていた。シンハラ人の政権が シンハラ唯一政策を掲げ、シンハラ語を公用語にしようとすると、タミル・イーラム解放の虎（LTTE）などのタミル人過激派との武力紛争が激化した。このため、タミル人の一部が難民となってインドへ逃れた。事態を重く見たインド政府は、スリランカ政府と和平協定を結び、スリランカへインド平和維持軍を派遣した。ここには、南アジア域内の警察活動を自ら行うことにより、域外大国（アメリカや中国など）の干渉を防ごうとするインドの外交戦略もあったと言われて いる。しかし、インド平和維持軍はLTTEと全面的な戦闘に突入し、1990年までにスリランカから撤退することになった。</p></blockquote>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1988年</span></strong><br />
インド海軍、原子力潜水艦を導入（２月）<br />
インド軍が短距離ミサイル「プリビト」発射実験成功（２月）<br />
インドが国産地球資源探査衛星を打ち上げ（３月）</p>
<blockquote><p><strong>プリビト</strong>・・・ インド軍の地対地ミサイル。「地球」を意味する。推進装置はソ連の地対空ミサイルＳＡ−２のもので、20年間の研究開発と５年間の評価テストを経て、 1997年から実戦配備された。タイプ１〜３まである。タイプ１の射程距離は150kmであり、配備地点はハイデラバード北方の陸軍ミサイル旅団であると言われている。タイプ２の射程距離は250kmであり、空軍が滑走路破壊用に用いると言われている。タイプ３の射程距離は350kmだが、これはまだ発射実験に成功していない。</p></blockquote>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1989年</span></strong><br />
インド軍が中距離ミサイル「アグニ」発射実験成功（５月）</p>
<blockquote><p><strong>アグニ</strong>・・・ インド軍の長距離ミサイル。「炎」を意味する。94年２月の発射実験をもってプロジェクトが終了するまで、３回の発射実験が行われ、射程距離は1450kmに達した。しかし、技術的にも資金的にもアグニの開発は様々な課題を抱えており、現状では実用化まで至っていないと見られる。</p></blockquote>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1993年</span></strong><br />
印中平和安寧条約締結（９月）</p>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1996年</span></strong><br />
インド政府、包括的核実験禁止条約（ＣＴＢＴ）の署名を拒否（６月）</p>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1998年</span></strong><br />
パキスタン、中距離ミサイル「ガウリ」の発射実験成功を発表</p>
<blockquote><p><strong>ガウリ</strong>・・・ ヒンドゥー王朝を倒しイスラム王朝を開いた英雄の名前を冠した核弾頭の搭載可能な中距離ミサイル。現在、ガウリ１（射程距離1,300km）、ガウリ ２（射程距離2,000km）、ガウリ３（射程距離3,000km）のシリーズが存在する。ガウリシリーズの技術開発と製造には北朝鮮が関与した疑いが持 たれている。</p></blockquote>
<p>インド・パキスタン両国が相次いで核実験を行う（５月）</p>
<p><strong><span style="font-size: medium;">1999年</span></strong><br />
カシミール地方カルギルのインド支配地域にパキスタン側が武力侵攻、インド軍が空爆で撃退する（５月）<br />
パキスタンでクーデター発生。ムシャラフが政権の座に就く。</p>
<p><strong><span style="font-size: medium;">2001年</span></strong><br />
アメリカで同時テロが発生。パキスタンはアメリカからアフガニスタン攻撃のための軍事協力を要請される。</p>
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