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言語と大衆

written by 齊藤 貴義 on

思いつくまま気ままに書いているエッセイです。日常生活で感じている疑問などが中心になってくると思います。感想とか聞かせていただけたら嬉しく思います。

見つめ合うと素直におしゃべりできない

(2001年3月24日)

私達は普段、言葉を使ってものごとを考えています。「今日は仕事へ行くのが面倒くさいな〜」と思うとき、「今日」「仕事」「行く」「面倒くさい」という言葉を使用して、自分の感情を認識しています。そしてこの言葉は、自分が発明したものではなく、はるか昔の人々が発明したものであり、私達はそれらの言葉を「知り」、そして「解釈して」自分のものにすることによって、はじめて言葉を使うことができます。人類にとって、言語の発明は画期的なことであったと言えると思います。言葉のない世界は「混沌」以外のなにものでもありません。「名前」をつけることができないからです。目の前を歩いている生き物に対して名前をつけることができないだけでなく、「目の前」という状況に名前をつけることができず、そもそも「生きている」という概念自体に名前をつけることもできない。そのような世界において、すべてのものは永遠に未分化なままつながっています。

言語は、私達の目の前に広がる「世界」を分断します。私達は様々な存在や状況や概念に名前をつけ、カテゴライズします。そしてこの言語による認知と分断の流れが今日の人類の発展を支えています。そう、人類の発展の歴史は、言語の発展の歴史でもあったわけです。現代、私達は様々な言葉を発明して、かつて謎に満ちていた世界(そして事象)のほとんどを、言葉によって覆い尽くそうとしています。その根幹に「名前をつける」という営為があることは言うまでもありません。

非言語あるいは未言語な存在(まだ名前がつけられていないもの。エイリアンでも未知の現象でも何でもいいです)が出現した場合にも、私達は「全身がグレーで大きな眼をした生き物」や「酸素との結合とよく似た現象」などのように、すでに存在する「名前がつけられたもの」を駆使して説明しようとします。また、よく「この気持ちは言葉にできないよ」という表現をよく耳にしますが、これもまた「この」「気持ち」「言葉」「できない」という「名前」によって説明された「言葉としての気持ち」と捉えることもできます。

言語は、人類にとって永遠の呪縛です。「自分は明日から言語を廃棄する」と決意しても、それを実行することはできません。人類は発展の代償として、言語による規定を甘んじたのです。しかし、言語は私達の世界を解釈するツールとして少し力不足な面があります。

言語とは「記号」に他なりません。「今、目の前にいるノラ犬のクロを任意の点Pとするとき・・・」のように「P」とおかなくても、すでにこの言葉において「今」「目の前」「いる」「ノラ犬」「クロ」などが全部記号で表記されています。したがって、言語の使用には無意識のうちに「存在や事象のありようは記号(あるいは記号の集合体)によって代替できる」という価値判断が入り込んでいると言えます。しかし、本当に存在や事象のありようは、記号によって代替できるのでしょうか。私達は「犬」という言葉を使うことによって、どれくらい「犬」の本質に迫れているのか、むしろ本来の姿を鋳型にいれて加工したように、私達にとって都合のいいかたちで「犬」を認識しているだけではないか、という疑問がわき起こってきます。その疑問が正当なものであるか不当なものであるかを検証していく物差しは、残念ながら言語の中に内在していません。

そして言語は、「文化的なもの」でもあります。1人の人間が独自の言語を開発して1人で話し出したとしても、「頭の変な人だな」と思われるだけです。言語は、共同体の中でコミュニケーション手段として活用されていなければ意味を持ちません。したがって言語は、その共同体の文化・社会・慣習・風土などの影響と強い関係を持ちます。日本語には四季の変化を表す言葉が何百通りもあり、エスキモーには雪の白さを表す言葉が何通りもあり、ドイツ語には観念的な社会用語が沢山あります。いかなる言語であれ、それぞれの文化固有の条件に依って立っているわけです。翻訳に際しても、翻訳対象国の言語と自国語の言語が必ずしも同一関係にない場合があります。それは、単に言葉を詳しく訳して説明するだけでは理解できないニュアンスです。原文に触れてはじめて言っていることが分かったということも往々にしてあります。

さらに言語は、「解釈されたもの」でもあります。ある1つの言葉があったとして、それに対して人々が統一した意味を見いだすことは困難です。言語は意味を表現したものではないためです。たとえば、「犬」という言葉そのものには「意味」がありません。「犬」は単に対象関係をさす言葉です。「辞書」で犬の意味を引いてみても、「ネコ目イヌ科のほ乳類」という記述しか載っていません。もっとわかりやすく考えるならば、幼児期における言語学習を思い出してみるとイメージしやすいかもしれません。私達は、親や先生が絵本であるいは公園で犬を指さして、これが「いぬ」と呼ぶことを教えられました。犬の意味を直接教えてもらったわけではありません。それは、「犬」という言葉に直接の本質がないためです。

同様の例として、「愛」という言葉を考えてみましょう。「愛」を辞書で引くと、「広く、人間や生物への思いやり」と書かれてありました。そこで「思いやり」を引いてみると、「思いやること」と書かれてありました。「思いやる」を引くと、「思いをはせる」と書かれてありました。このように、私達が使っている言葉の概念は、最終的には相互の言葉の「参照関係」になっていて、それ以上の本質まで到達することはありません。したがって、言葉の本質は、「解釈」されます。同じ言葉であっても、そこから受けるイメージや、その言葉の捉え方などが人によって大きく変わってくるのはこのためです。

これら言語の限界は、僕自身は中学生の時に国語辞書を開きながら考えていたのですが、いまだに自分の中でうまく解決することなく考えています。真実の追究のために言葉を駆使することが最も望ましいように見えて、実は言葉を重ねれば重ねるほど、真実とは見当はずれな方向へ行きかねないという逆説的状況。人間の理性も感性は大部分が言語によって統御され、そして理性や感性の大部分は言語によって発露するという限定状況の中で、人はいかなる可能性を言語に見いだしうるのか。

自分の言葉は、どんな「顔」をしているんだろう。

公衆はどこへ行った? 智の集積へ向けての前提的考察

(2001年5月1日)

公衆はどこへ行ったんだろう?

もう、コーヒーショップにもサロンにも公衆はいない。新聞にもテレビにも公衆はいない。議会にも市役所にも公衆はいない。インターネットにも公衆はいない。近代になって、富と余暇時間の拡大が知識層を生み出し、それが公衆としての一定の役割を果たした。そして今、より多くの人々の富と余暇時間が拡大している。しかし、新たな公衆は出現しなかった。人々は富や余暇時間の大部分を、娯楽や私的関心に費やす道を選んだ。公共のことを考え、客観的に討議しようとする公衆はほとんどいない。現代の諸々の制度は、公衆がいなければ有効に機能しない。裁判や議会の公開制も、民主主義の意思決定も、共同体の運営も、ショーや手続き主義に陥ってしまう危険性をたえず内包している。無力感、疎外感、アジテーションなどが人々を席巻し、これほどの危機的な状況にありながらも、・・・「智」は解放されていない。「智」は、大学の中にとどまろうとしている。ある種のニヒリズムが、大学を覆っているのではないかと思う。「関心なきその他大勢の人々への言葉は無力」であるという、一種の諦念がそこにあるのではないだろうか。

たしかに、多くの人々は関心を持たない「智」に対して、自らかたく窓を閉ざしている。それゆえ、その主張が有効なものであることは認めなければならない。この新しい実験都市も、自由大学という実験学園も、いまだ「智」に元々の関心があったごく一握りの人々にしか接続コードを持っていない。今後、この都市と学園が拡大したとしても、それは「智」に元々の関心がある人々への浸透でありえても、「新たな層への進出」ではない可能性が高いことも、注意しなければならない。これは、ある面において危機感を持たなければならない状況だと思う。なぜなら、この都市と学園は、「智」に元々の関心のあった人々のみが集まり、相互の知識と芸と披露しあい慰撫する場所となり、結果として、社会の「公衆不在の状況」から目をそらす「箱庭」に陥ってしまうことが想定されるからだ。そして、そのような状況が続くかぎり、この都市と学園にも、公衆は存在しない。

願うならば、困難と闘いたいものである。

社会構造の巨大化と専門化に伴って、厳密には公衆の出現は理想論にすぎなくなった。しかし、「公衆化」へ向けての取り組みは、最大化されているとは言いがたい。すべてのニヒリズムは、公衆的状況の最大化のために知恵を絞り、さまざまな方法を経た後にこそ、そのとびらを開くべきではないだろうか。「智」は、拡大へ向けての多方面の試練をいまだ経験していないのである。この公衆化へ向けての理念を相対化したり解体したりすることはたやすい。だが、本当の危機は、人々の大衆的状況にあるのではなく、公衆を志向する人々の方向性の「ねじれ」にある。したがって、この相対化と解体は、たえず理念からの再挑戦を受け続けることになるだろう。その両者の緊張関係の中から歩み出す困難な一歩こそが、「公衆の一歩」であると考えている。

1大衆の齊藤より


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